エピローグ
大正十四年 十月
一昨年の関東大震災から驚異的な速さで復興を遂げた東京。とりわけこの銀座界隈は、流行りの装飾品を扱う店やカフェーが軒を連ね、大勢の人で賑わっていた。
その一角、この年の五月に開店したばかりの百貨店「松屋呉服店」で、ある本の出版を記念した催事が行われていた。
『秘密の花園』
一九一一年にアメリカで初版が発行された、イギリス人作家バーネット夫人の児童向け小説。その和訳本が出版されるにあたり、翻訳者を招いてのお披露目会、というのが催事の名目だった。
バーネット夫人の作品は、児童というよりも女学生に人気があり、今日の催しにも若い女性の姿が目立った。
「今回の和訳は言葉の選び方が繊細で、とても素晴らしいわね。まるで情景が見えるようだわ」
「作品に対する翻訳者の愛情が伺えるのよ。きっと優しくて素敵な方なのでしょうね」
そんな会話があちらこちらで交わされ、美しい装丁も相まって本は飛ぶように売れていく。
その人混みの中心で、一之瀬馨は疲れた表情を浮かべていた。一歩歩くたびに誰かに呼び止められ、握手を求められ、揉みくちゃにされて、もはや愛想笑いも底をついていたのだ。
胸に付けられた花飾りを隠すようにして、やっとのことでその場から逃れると、会場の隅に空いた僅かな空間で肩を落として大きく息を吐いた。
「やっぱり、断ればよかった」
人混みは苦手だ──
普段は江田島ののんびりとした港町で暮らしている一之瀬にとって、東京の人の多さは自由を奪うイバラの森ようで、息苦しくて仕方なかった。
しかし、一之瀬が出版社の誘いを断ることはできなかった。何故なら、その本の翻訳者は他ならぬ一之瀬本人だからだ。次の仕事に繋げるためにも、出版社との付き合いは無下にはできない。
一張羅の背広は、この日のために妻が選んだ生地で誂えたばかり。まだ身体に馴染まない背広と履き慣れない靴が余計に窮屈で、いつ持病が悪化して呼吸困難を発症するかわかったものではなかった。
早く家族の待つ江田島に帰りたい……
そんな思いで壁にもたれてため息をついた時、一人の男性が一之瀬の前に歩み寄ってきた。
俯いた一之瀬の視界には、綺麗にプレスされたズボンと磨き上げられた革靴が見える。その視線の先にすっと差し出された手には、水の入ったコップが握られていた。
担当の編集者が気を遣って持ってきてくれたのだろうか。そう思ってのっそりと手を伸ばし受け取ろうとした時……
「だいぶお疲れのようですね。あまり無理をすると、身体に障りますよ」
聞き覚えのあるその声にハッと息を呑んで、一之瀬は顔を上げた。
柔和な笑顔、緻密さと思慮深さが滲み出た瞳──
その目を三日月のように細めて、彼は出会ったあの日と変わらぬ空気を纏って、一之瀬の前に立っていた。
「お久しぶりです。一之瀬先生」