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十六 手紙


「橘千尋……確か実誠くんの屋敷の家令を務めていた人だったね。君達が東京を出てから所在が分からなかったという」

「……はい。そうです」

「もしかしたら、曄子さんには知らせないほうが良いことも書かれているかもしれない。まずは君が読んだほうがいいだろう」

「確かに、そうですね」

 

 門脇先生を玄関に残し一人きりで庭に出ると、大きめの庭石に腰掛けた。慎重に封を開け、ひとつ息を吐いて中の便箋を取り出す。そして何枚も重なった紙の束を、震える手でゆっくりと開いた。

 

 

『先生が何方(どなた)かを頼っていくとしたら、門脇様以外いらっしゃらないだろうと思い、この宛先を書かせていただきました。もし間違っていたなら、一生真実をお伝えできないままになるかもしれないことを、ここにお詫び申し上げます。』

 

 そんな書き出しで始まる手紙には、几帳面な橘氏らしい丁寧な文字で、二年前のあの日の顛末が綴られていた。

 その文章はまるで、橘氏が目の前で語っているかのようで、懐かしい彼の声が僕の脳裏に甦って思わず目頭が熱くなった。

 

『あの日、先生とお嬢様が屋敷を出た後、目を覚ました旦那様から正誠様の出生の秘密と大旦那様の死の真相を伺いました。

 しかしその直後、誰かに警察を呼びに行かせようと、ほんの少し目を離した隙に、旦那様は割れた窓ガラスの破片で縄を解き、そのガラスで自ら頸部を切って自害してしまわれたのです。

 そのお身体は、咲子様の掻取に縋るような格好で横たわっておいででした。

 

 そして、私は部屋に火を付けたのです。

 

 警察が来て事が公になれば、嗅ぎつけた新聞社が好き勝手な憶測や推論を書き立てるに決まっています。そのせいで正誠様や曄子様が傷付かれるのを、どうしても避けたかった。

 それに、公家華族、そして伯爵としての旦那様の威厳を、表向きだけでも保って差し上げたかったのです。

 これは棡原家に代々仕えてきた橘家の、家令としての私の最後の忠義立てでした。

 

 警察は火事の原因を行燈の火の不始末と断定し、遺体の身元も状況から旦那様であると結論づけられました。全ては灰になり、真相は私と、これを読んでいる先生しか知る者はありません。

 

 その後、正誠様は爵位の継承を放棄されて時子様のご実家の養子となり、雇われていた使用人は皆解雇しました。屋敷も土地もお上に返上し、何の資産も残さぬよう処分いたしました。

 

 棡原家は、この世から姿を消したのです。

 

 ですので、先生は安心してご自身の人生をお歩きください。もうあなたを追いかける脅威も、想いを縛る呪縛も存在しません。

 

 最後に、私からのお願いをひとつだけ言わせていただけるなら

 

 どうか曄子様を──幸せにして差し上げてください』

 

 

 次々と落ちる涙が、握りしめた手紙の上でパタパタと音を立て、灰色の染みを広げていく。嗚咽を抑えきれず、右の掌を口に押し当てて声を殺して泣いた。

 でも、悲しかったんじゃない。ようやく、胸の奥に留まっていた鉛が溶けて消えたような、心を縛り付けていた縄が解かれたような気がして、嬉しかった。と同時に、幕引きの全てを引き受けてくれた橘氏に対して、言い尽くせない程の感謝が涙になって溢れ出したように思えた。


 全て終わったのだ。彼の手紙が、僕の中に蟠っていたものを何もかも消し去ってくれた。心の底から安堵できる日がやってきたのだ。

 

 そうだ、返事を……

 

 そう思って裏書を確かめてみたが、名前の他には何も書かれていなかった。文章の最後にも住所などは書いていない。

 彼なりに、何か思うことがあって書かなかったのだろう。けれど、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

 

 でも、大丈夫

 きっといつか、再会できる

 

 何故かそんな気がした。

 

 いつかこの家で、橘氏と一緒に笑い合える日が来たら……今は、そう心の中で願うしかない。

 

 顔を上げると、傾いた夏の日差しが眼下の江田島湾を黄金色に染めていた。

 海鳥が舞う空には薄紅色の夕暮れが訪れ、吹き下ろす穏やかな風が、僕を優しく撫でてから海へと帰っていく。

 

 その風に、庭の片隅で開花したばかりの月下香がゆらゆらと揺れているのを、僕は清々しい気持ちで眺めていた。

 立ち昇る香りが、徐々に強くなっていくのを確かに感じながら──

 

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