十五 紡がれる命
大正十一年 七月
梅雨明けのからりとした空気が、開け放った窓から吹き込んでくる。気温は高いが、簾を揺らす海風が心地よく頬を撫で、僕は思わず目を閉じた。
時刻は午後一時。眩しい陽光が、庭一面を白く照らしている。さして広くもない庭だが、乾いた土の白っ茶けた表面に反射する光は案外強い。その強い日差しを遮るように窓に垂らした簾は、真ん中あたりまで捲り上げられて畳の上に斑らな影を落としていた。
書斎の窓際に設えた文机に肘をつき頬杖をついていた僕の耳に、彼女の穏やかな声が届いて薄く目を開けた。
「お父様はもうおやすみのようですよ。あなたも早くねんねなさい」
声の主が、ゆらゆらと身体を揺すりながら僕の隣に歩み寄って腰を下ろす。その腕の中には、とても眠そうには見えない円な目をした小さな赤ん坊が抱かれていた。
「おや。香菜子はまだ眠くないのかな?」
赤ん坊は僕の声に反応するように、黒目がちな瞳をくるりと動かして「うー」と声を出した。
「以前はお腹がいっぱいになればすぐに寝ていたのですが、最近はお乳を飲んでも寝てくれなくて……もしかして、お乳が足りていないのでしょうか」
心配そうに娘の顔を覗き込む彼女に微笑んで、僕はまるで餅のような赤ん坊の頬を人差し指でそっとつついた。
「機嫌良くしているのなら、満足している証拠だよ。それに、こんなに丸々として……きっと体力がついてきて、起きていられる時間が長くなったんじゃないかな。門脇先生の奥様もそう言っていただろう?大きくなればだんだん寝なくなるって」
「──ええ、そうですね」
僕の言葉に安堵したように、彼女も少しだけ笑顔を見せた。
「僕が抱いているから、曄子も少し休むといいよ。身体が疲れていたら、それこそお乳の出が悪くなるだろう?」
そう言うと、申し訳なさそうにしながらも腕に抱いた赤ん坊をこちらに差し出した。
「ありがとうございます。では、香菜子をお願いしますね。わたくしはおしめの洗濯が残っておりますので」
「いや、それは後でもいいから、少し休んで……」
「後回しにすると汚れが落ちにくくなって、余計に大変なんですよ。休んでなどいられません」
呆れる僕を横目に、彼女はさっさと立ち上がって行ってしまった。
「──曄子様も逞しくなったものだ。なぁ香菜子」
苦笑混じりに言いながら、「あー、うー」と声を出す香菜子を優しく揺らすと、乳飲み子特有の甘い香りがふわりと漂って、なんとも言えない幸福感に包まれた。
あれから二年──
江田島の旅館で門脇先生にお会いした後、結局僕と曄子は、しばらくの間先生の自宅にご厄介になることになったのだ。
その間、僕は紹介してもらった尋常小学校での代用教員を務めながら貯金をし、曄子は奥様に習って料理や洗濯などの家事を身に付けて、自分達の生活基盤を作り始めたのだった。
その頃、僕は仕事の傍ら、学校の子供達に読ませようと趣味のつもりでヨーロッパの童話を翻訳し、欲しがる子にはガリ版印刷で刷ったものを持ち帰らせていた。
しかしそれが偶然、本土の出版社の人間の目に止まり、童話集の書籍化の話が舞い込んだのである。
とんとん拍子に話が進み、出版された童話集は学校の図書室に置かれるなど、思わぬ好評価をいただくこととなり、今では翻訳家の端くれとして収入を得られるまでになった。人生とは本当に、いつどうなるかわからないものだ。
そして門脇家にお世話になって半年も経った頃、細々と貯めていた貯金と、ある物を売った代金を頭金にして、この江田島湾を見下ろす高台の小さな売家を手に入れ、同時に彼女に結婚を申し込んだのだった。
ある物とは──曄子が東京の屋敷を出る時に身につけていた着物と丸帯だ。
僕は大事に取っておくようにと言ったけれど、彼女が頑なに売ると言い張ったのだ。どちらも名のある職人の作品で、驚くほどの金額になって危うく腰を抜かすところだった。
「これは棡原家からの支度金だと思って、お納めいただきとうございます。それに、わたくしを救い出してくださった先生への、感謝の気持ちでもあるのです。何より……一之瀬曄子には、こんな派手な帯は似合いませんでしょう?」
あの時の彼女の晴れやかな笑顔を、僕は生涯忘れないだろう。
笑顔の彼女とは対照的に、僕は情けないほどに泣いていた。大切な着物を手放させてしまった申し訳なさと、人生を共に歩むと誓ってくれたことへの感謝で、胸がいっぱいだったのだ。そんな僕の手を、細い指が優しく握ってくれた。その温もりに、僕は今まで、どれほど励まされてきただろうか。
ふと視線を落とすと、いつの間にか香菜子は穏やかに目を閉じ、すやすやと寝息を立てていた。薄いおくるみに包まれたその身体を座布団の上にそっと降ろし、隣に横になって天井を見上げた。
考えてみれば、僕の人生は「人の優しさ」と「偶然」に救われてきたようなものだ。
いや、偶然だと思っているのは当の本人だけで、本当は全て必然の上に成り立っているのかも知れない。積み重ねてきた過去が全て必然で、その上に今がある。今を積み重ねた先に、また未来も必然として存在するのなら、日々の出来事や出会った人々を蔑ろにして積み上げた未来に、幸せなんて存在しうるのだろうか。
そんなことを思いながら目を閉じると、過去に置き去りにしてきた不安と、所在不明の恩人の顔が脳裏に浮かんで、胸が苦しくなった。
──だったら僕には、本当の意味で幸せを噛み締められる日は来ないのかもしれない
まだあの日の呪縛から逃れらないでいる僕は、鬱々としながらも微睡の中へと落ちていった。
◇
しばらくして、玄関のほうで誰かが妻を呼ぶ声が聞こえてきて目が覚めた。
「曄子ちゃん、煮物たくさん作ったから持ってきたわ。食べてくれない?」
「あ、文子さん!ありがとうございます。いつもすみません」
──門脇先生の奥様だ。
時々こうして、子供の様子や妻のことを気にかけて訪ねてくれる。まるで母のような存在だ。
僕も挨拶に出よう。そう思って起き上がり伸びをする。隣を見れば、座布団の上で香菜子はまだ気持ちよさそうに眠っていた。
「奥様、いつもありがとうございます。助かります」
台所で曄子と話をしていた文子夫人に、そう声をかけた。
「いいのよ。あなた達は息子夫婦みたいなものなんだから。それに香菜子ちゃんの顔も見たいしね」
「香菜子なら、書斎で昼寝をしていますよ。どうぞ上がってください」
「まあ、ありがとう」
まるで本当の孫に会いにきたかのように嬉しそうに顔を綻ばせ、僕の後について書斎にやってくると、寝ている香菜子を起こさないようにそっと隣に腰を下ろした。
「本当に、色が白くて美人さんね。お母さんにそっくりだわ」
「ええ。僕に似なくて良かったです。大きくなったら恨まれるところでした」
「あら、そんなことないわよ。馨くんだっていい男なんだし、そのうちお父さんにも似てくるから心配しないで」
そう言って笑っていると、隣の居間から曄子が声をかけてきた。
「お茶を淹れましたから、どうぞ」
三人で座卓を囲み、お茶を啜る。こんな当たり前の日常が訪れるなんて、二年前の僕らには想像すらできなかったことだ。
他愛もない話に笑い合っているうちに香菜子も目を覚まし、文子夫人に抱っこされてご機嫌の様子だ。
その時、ガラリと玄関の引き戸が開く音がして、門脇先生の大きな声がした。
「一之瀬君!いるかね?」
「あら、うちの人。どうしたのかしら。こんなに早く帰ってくるなんて」
文子夫人が慌てて立ち上がり、僕らもその後に続く。
玄関に向かうと、そわそわと落ち着かない様子の門脇先生が三和土に立っていた。そして夫人の顔を見るなり、気まずそうな表情を浮かべた。
「ああ、文子もいたのか。ちょっと一之瀬君と話をしたいから、おまえは曄子さんを連れて奥で待っていなさい」
「もう──急に帰ってきたと思ったら、なんなの?」
夫人は文句を言いながらも、曄子の背中を押しながら居間へと戻って行く。
それを見送ってから、門脇先生が徐に口を開き、手に握りしめていた何かを差し出した。
「実は、手紙が来たんだ。兵学校に。君宛の──」
兵学校に僕宛の手紙を送ってくるなんて、いったい誰だろう。そう思いながら受け取ったその手紙には、確かに
『海軍兵学校 門脇先生方 一之瀬馨様』
と書かれている。それをひらりと裏返し、裏書を見た途端、僕は思わず息を呑んだ。
「……橘さん──!」