十四 そして、江田島へ
東京駅に着くと、神戸行きの特急列車の切符を買った。
別に神戸に当てがあったというわけではない。この時間で一番遠くまで行かれる汽車がこれだった、というだけだ。そこから先は改めて切符を買って、広島県の江田島を目指す。
今の僕が頼れるのは兵学校の門脇先生しかいない。故郷にはもう身内はいないし、父親の家などはもはや他人も同然。しばらくは宿を取って、門脇先生にお願いして仕事と家を探し始めるしかないだろう。
幸い、咲子様の簪や帯留がかなりの現金になったので、宿代も数日なら何とかなりそうだ。そう思いながら汽車に乗り込み座席に座ると、曄子様が俯きながら不安そうな顔をしていた。両手をぎゅっと握りしめ、肩を強張らせている。
それもそうだろう。今までお屋敷から一歩も出たことがないお姫様にとって、人混みも汽車も初めての経験だ。まして家を捨てての逃避行となれば、この場に座っているだけでも神経を擦り減らしているに違いない。
「曄子様、肩の力を抜いて深呼吸をしてください。まだ先は長いのですから、今からそんなに気を張っていては身が持ちませんよ。神戸に到着するまでゆっくりお休みください」
「はい。でも先生……あの火事は、いったいどうなったのでしょう。父や橘さんは無事なのでしょうか」
そうだ、市電から見えた黒い煙──
おそらくは和館が燃えていると思われたあの煙は、ボヤというには些か無理があるほどの黒煙を上げていた。しかし、今それを確かめる術は無い。
「神戸に到着したら新聞を買ってみましょう。伯爵家のお屋敷が燃えたのなら、何か記事が出ているかもしれません。それから、江田島まで行ったらどこかに宿を取ります。そこから橘さんへ電報を送りますので、返事を待つしかありませんね」
そう言って、汽車に乗り込む前に売り子から買った握り飯の包みを開いた。それすらも珍しそうに見つめる曄子様に一つ手渡し、少しでも食べるようにと促す。それを少しずつ口にするのを見ながら、僕も一つ掴んで口を開け白米を頬張った。
腹が減ったという実感はなかったが、身体は養分を欲していたらしく、ごま塩が振られただけの握り飯がやたらと美味く感じる。夢中で一つ食べ尽くして土瓶に入ったお茶を飲むと、途端に眠気が襲ってきた。
隣を見ると、曄子様も眠そうな目をしてうとうとし始めていた。その手をそっと握ると、細い指がきゅっと握り返してくる。僕の手よりも少し冷たい指先を温めるように、もう一方の手を重ねて軽く摩ると、もたれるように彼女の頭が傾いてきた。それを肩に受け止めて頬を寄せ、汽車の揺れに合わせて弾む髪を首筋に感じて思わず目を細めた。
いっそ、この時間が永遠に続けばいい
そんな願いさえ、窓の外を流れる景色と共に遥か彼方へ飛んでいってしまいそうなほど、汽車はどんどん速度を上げてゆく。神戸までは約十二時間。その間に少しでも休んでおかなくては、この長旅に耐えられないだろう。
肩先で軽い寝息を立て始めた曄子様にほっと息を吐いて、僕も目を閉じ揺れに身を任せる。ガタゴトと響く走行音を遠くに聞きながら、深い淵に沈んでいくように僕らは眠りに落ちていった。
◇
神戸に到着したのは、翌日の早朝のことだった。
広島行の汽車が出るまでまだしばらく時間がある。駅の待合所で新聞を買い、ベンチに並んで座って早速紙面を広げた。
その隅に、探していた記事が載っていた。小さな扱いだが、東京の伯爵家で離れの建物が全焼したと書かれている。
麻布区の棡原邸で火災
離れの和館が全焼
焼け跡から身元不明の一人の遺体を発見
当主の棡原実誠氏が行方不明──
その内容に、曄子様の顔がみるみる青ざめていった。
「曄子様、見つかった遺体が旦那様とは限りません。旦那様は逃げて無事だったかも……」
そう言いかけて、急に冷や水を浴びたように背筋が凍りついた。
そうだ
死んだのが旦那様とは限らない
橘さんかも知れない──
一気に不安が押し寄せて、一刻も早く橘氏と連絡を取りたいという衝動に駆られた。しかし、もしも屋敷に残ったのが旦那様で、そこへ電報など送ってしまったら、こちらの居場所を知らせてしまうことになる。せっかく逃げてきた意味がなくなるのだ。
「……」
手の中で皺くちゃになった新聞を見つめながら、僕は激しい絶望感に襲われていた。突然広い海の真ん中に放り出されたような、絶望と恐怖──縋る物を失った手は宙を切り、たぐるべき糸は断ち切られた。僕らが真実を知ることは、おそらく出来ないだろう。
しかし、いつまでもここに留まっているわけにはいかない。僕たちはどうにかして生きていかなくてはならないのだから。
汽車に乗らなくては。広島へ、そして江田島を目指して。
汽車と連絡船を乗り継ぎ、午後三時頃ようやく江田島港に到着した。僕にとっては、数ヶ月前に来た道を辿って、再びここへ帰ってきたという感覚だ。
曄子様は長時間の移動で疲れ果てている。まずは宿を探して休ませなくては。
港の近くを歩き回って、ようやく一軒の小さな旅館を見つけた。ガラスの引き戸を開けて、薄暗い三和土に足を踏み入れる。
「ごめんください」
その声に奥の方から返事が聞こえ、しばらくして女将さんらしき女性が姿を現した。
「しばらく泊めていただきたいのですが、部屋は空いていますか?」
「空いてますけど……お連れ様は、どういう──」
「え?どうって……あ」
どうやら不道徳な関係を疑われているらしい。確かに、旅行客のような荷物を持っているわけでも、兵学校の制服を着ているわけでもない。結婚前の男女が人目を忍んで相引きでもするのでは、と思われても致し方ないのだろう。
その挙句に心中でもされては堪らないと、女将の顔に書いてあるようだった。
「妻、です」
そう答えたものの、ますます怪しむ素振りで僕達の顔をじっとりと睨め付ける女将に、どうしたものかと思いあぐねていた矢先──
背後の引き戸がガラガラと音を立てて開き、誰かが入ってきた。
「あら、先生おかえりなさい」
女将の顔が一転笑顔になって、その人物に出迎えの声をかけた。
先生?
振り向いた僕の前に立っていたのは、見覚えのある初老の男性だった。
「門脇先生──」
「おや……一之瀬君……?」
驚いて立ち尽くす僕に、女将が慌てて愛想笑いをし始める。
「あらやだ、門脇先生のお知り合いですか?なら初めからそうおっしゃってくださいよ。すぐにお部屋を用意しますから、しばらくお待ちくださいね」
そう言っていそいそと奥へと引っ込んでいった。
「こんなところで、一体どうしたんだね。東京の伯爵家に雇われたのではなかったかな?」
「はい、実はその伯爵家で……いろいろとありまして。先生こそ、旅館にお帰りとは、ご自宅はどうなさったのですか?」
「東京はまだ梅雨入りしていないかもしれないが、こちらは数日前にかなりの大雨が降ってね。天井から酷い雨漏りがしてとても生活出来ない状態になってしまったんだよ。だから修繕が終わるまで、しばらくここにお世話になっているんだ」
「そうでしたか。それにしても、偶然とはいえ先生にお会いできて良かった。宿に落ち着いたら、お会いしに行こうと思っていたのです」
ほっとした僕の顔に、門脇先生は何かを察してくれたかのように静かに頷いた。
「──何か、訳ありのようだね。そちらのお嬢さんは?」
門脇先生が穏やかな笑顔で曄子様を見ると、彼女は頭を下げて名前を名乗った。
「棡原曄子と申します」
「棡原……って、まさか実誠君のお嬢さんでは?」
「はい。その通りです」
曄子様の代わりに僕が答えた。
「──ここではなんだから、部屋に行って話を聞こうか」
それから、女将が用意してくれた部屋で門脇先生に洗いざらい全てを話した。東京にはもう戻れないこと、こちらで仕事と家を見つけて生活していきたいこと。話しているうちに曄子様は泣き出し、僕はその背中をさすることしかできない自分が不甲斐なくて、顔を上げることすら出来なかった。
「事情はわかった。だが、家も仕事もすぐに見つかるとは思わないほうがいい。こんな田舎では東京のように働き口がたくさんあるわけではないからね。それでも、幾つか当てがあるから聞いてみるよ。しばらく待っていてくれるかな」
「勿論です。どんなことでもしますから、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げると同時に、僕の目から涙が一粒零れ落ちた。
どれだけ頭を下げても構わない。どんなに辛い仕事でも耐えられる。
僕は全てを投げ打っても、隣にいる女性を守ると誓ったのだから。家も家族も、身分すら捨てたこの女性を──
「もうすぐ家内も帰ってくるから、お嬢さんの世話は任せなさい。女性同士のほうが気を遣わなくていいこともあるだろう」
「本当に、何から何まで……」
「いや、いいんだ。そもそも私が君を東京にさえやらなければ、こんなことにはならなかったのかも知れないんだからね」
その言葉に、僕は項垂れるしかなかった。確かに、東京に行かなければ、こんな逃避行をすることはなかった。しかし、曄子様に出会うこともなかった筈だ。
そして、彼女は今でもずっと籠の中に閉じ込められたままだっただろう。それを不幸だと気付きもせずに──
僕は隣に座る曄子様を見た。彼女もまた僕を見て、にっこりと微笑んでいる。
「わたくしは……一之瀬先生にお会いできて、とても嬉しゅうございました。もし出会っていなければ、ずっとお屋敷の中で何も知らないまま、年老いて死ぬだけの人生でしたでしょうから。
門脇先生にも、感謝申し上げます」
そう言って、両手の指を着いて頭を下げる曄子様に、門脇先生も慌てて頭を下げた。
「そう言ってもらえると、私も救われる気がするよ。ところで、君達は……その、同じ部屋で寝起きしても構わない関係、ということでいいのかな?」
「えっ……あの、それは──」
真っ赤になって慌てる僕を見て、ぷっと吹き出したかと思うと、門脇先生は大きく口を開けて笑い出した。
曄子様は何のことか分からずにきょとんとしている。そのあたりのことはまだよく理解していないのだ。
「女将さんはきっと君達のことを夫婦だと思って、一部屋しか用意しなかったんだね」
それはそうだろう。最初に僕が、彼女を妻だと言ったのだから。
「では、私がこちらの部屋にお邪魔するから、曄子さんは家内と一緒にあちらの部屋を使うといい」
その言葉に、すみませんと言って頭を下げると、門脇先生は小さな声で僕に囁いた。
「いずれは、一緒になるつもりなんだろう?」
「──はい。彼女がそれを、望んでくれるのなら」