十三 逃避行
「やめろ!」
やめてくれ……これ以上、若様を傷付けるのは──
この子にはなんの罪もない!
そう思った刹那、ガツンと音がして旦那様の身体がズルズルと崩れ落ちていく。それを背中に背負う形になった正誠様も、口を開けて背後を見上げていた。
「──え?」
呆気に取られた僕の目の前には、鍬の柄を握りしめて肩で息をする沢木氏の姿があった。
「わ……若様!ご無事ですか」
そう言った沢木氏は、足元にぐったりと倒れた旦那様を見て、ひッと小さく悲鳴を上げた。
「一日に二度も……人を殴るなんて……私は……」
鍬を取り落とし震える手を見つめる沢木氏に、橘氏が苦笑交じりに声をかけた。
「なかなか見事な太刀筋でしたよ。それにしても、刃先の方を振り下ろさなくてよかった。あなたが殺人犯になってしまいますからね。でも、助かりました。ありがとうございます」
沢木氏が持ってきた麻縄で、橘氏が手際よく旦那様の両腕を縛り上げる。その様子を見ていた正誠様は、沢木氏に縋りながらぼろぼろと大粒の涙を零していた。
何と説明すれば良いのだろうか。真実をそのまま話しても、おそらく幼い子供には理解できないだろう。
僕は抱えていた曄子様をそっと畳の上に降ろし、片膝を付いて正誠様の顔を覗き込んだ。
「正誠様、今から私が言う事をよく聞いてください」
顔を上げて僕を見る、泣き腫らした赤い目を見つめた。
「正誠様の本当のお父上は、ずっと前にご病気で亡くなってしまいました。ですから、旦那様が代わりに正誠様と母上様を守ってくださっていたのです。でも、旦那様は悪いことをしてしまったので、それを償わなくてはなりません」
若様が小さく頷いて、右手の甲で目を擦って涙を拭う。
「これからは正誠様が、長男として母上様をお守りするのです。母上様は、昔お辛いことがあって心を閉ざしてしまわれています。でもきっといつか心を開いて、正誠様を受け入れてくださる日が来るでしょう」
「先生は、一緒に居てはくださらないのですか?」
そう言われて、思わず言葉に詰まる。
「私は……」
その様子を見て、橘氏が言葉を継いでくれた。
「若様、先生には姉上様を安全な場所にお連れしていただかなくてはなりません。若様は立派な男子なのですから、母上様をお任せいたします。できますね」
その言葉に、涙を零しながらはいと呟く頭を撫でると、僕の胸に飛び込んでしゃくり上げ始めた。この現実を受け止めるにはあまりにも小さな身体を、ぎゅっと抱きしめて背中を摩る。いつか真実を知る時が来ても、それに負けないくらい強く逞しく育ってくれと、願いを込めながら。
「ところで、先生は旦那様から何か過去の話をお聞きになりましたか?」
橘氏に問われて、正誠様から離れ声を低くして答える。できればこの子には聞かせたくない。
「はい。正誠様の出生の秘密と……それから、旦那様は喘息の発作を起こした大旦那様を放置して見殺しにしたと言っていました。でもそれを証明するものはありません。今更、罪に問えるかどうか……」
一瞬言葉を失った橘氏は、考えるそぶりで顎に手を添え目線を落とした。
「わかりました。この後旦那様にも事情を聞いて、必要なら警察を呼ぶつもりではいましたが……もしかしたら改めて証言をお願いするかもしれません」
「もちろん協力します」
それに頷いてから、橘氏は次々と指示を出し始めた。
「沢木くんは若様を連れて時子様のところへ行ってください。支度が出来次第、とりあえずは二人を連れて時子様のご実家へ。療養に来たとでも言ってしばらく滞在させてもらってください」
それから、と僕を振り返ると、橘氏は哀しげな視線で曄子様に目配せをした。
「一之瀬先生は──どうなさりたいですか?」
「どうって──」
「お嬢様の人生を、背負って生きていく覚悟がお有りなら、出来るだけ遠くへ……旦那様の手が届かないところまでお嬢様を連れて逃げていただきたい。もしも旦那様が罪に問われずお屋敷に留まるなら、曄子様はきっと二度とここから出ることはできないでしょう。
でも──あなたにそんな重荷を背負わせるのは、お門違いだとも思っているのです」
正直、僕は迷っていた
守りたい、連れて逃げたい
でもこんな自分で守りきれるのか、後悔しないのか……自信がなかった
でも
僕が連れて行かなければ、彼女に自由はない
この先にあるはずだった曄子様自身の幸せを、一生掴むことはできないのだ
「私は、彼女に自由になってほしいのです。この先どんな人生を歩むかは、曄子様自信が選ぶべきです。ですから……そのための最初の一歩を踏み出すために、私は曄子様を連れて行きます。もちろん私は、彼女をずっと守りたいと思っていますが、彼女がそれを望まないのなら……その時は、彼女の意思を尊重します」
真っ直ぐに僕を見ていた橘氏が、ふっと笑顔を浮かべて頷いた。
「わかりました。では、お嬢様を籠から出していただきましょう。その先で、何処へ飛んでいくかはお嬢様次第、ということですね」
そう言って、傍らにあった箪笥の引き出しを開けると、中に入っていた簪やら帯留やらを掴んで僕の袂に突っ込んだ。
「質屋にでも持って行けば汽車賃くらいにはなるでしょう。どこかに落ち着いたら、この屋敷宛に手紙なり電報なり、連絡をください」
「承知しました」
それから橘氏、沢木氏と顔を見遣って、それぞれがそれぞれの役目を果たす為に動き始めた。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないと、予感めいたものを感じながら。
曄子様を抱き起こすと、微かに瞼が動いた。悶えるように身を捩って、それからゆっくりと目を開けて僕を見上げる。その瞳はまだ虚ろだが、確かに僕を見て安堵したようだった。
「曄子様、気が付かれましたか」
「先生、ここは何処でしょうか。確か、先生を書庫でお待ちしていて……もしかして、まだ夢の中なのかしら?月下香の香りがしますもの」
「どんな夢をご覧だったのですか?」
「母の夢を見ていました。幼い頃、春になると一緒に月下香の球根を植えたのです。その時の夢を……」
そう言って嬉しそうに微笑む彼女を、僕は心の底から愛しいと思った。
守らなくては。この笑顔を奪うもの全てから──
「ここは咲子様の思い出が詰まった部屋ですから、きっと咲子様が曄子様に夢を見せてくださったのでしょう。でも、残念ながらゆっくりしている時間はありません。すぐにここから逃げなくては……」
僕の言葉に首を傾げて不思議そうに問いかける。
「逃げるとは、何から逃げるのですか?」
正直なところ言いたくはないが、本当の事を伝えなくては一緒に来てはくれないだろう。
「──旦那様からです」
よく分からないという表情で不安げに見上げる曄子様に、僕は包み隠さず事実を伝えた。
「旦那様は昨夜、書庫にいたあなたを薬で眠らせて、この和館の座敷牢に閉じ込めたのです。曄子様を誰にも触れさせないと、何処にも行かせないとおっしゃって……」
曄子様は青ざめた顔で、僕が指差した座敷牢を見つめた。
「書庫での私達の密会が、旦那様に知られていたのです。そして、あなたの手に触れた私を罰する為に、ここにおびき出し監禁しようとした。おそらく旦那様は、曄子様をずっとこのお屋敷に閉じ込めて、自分だけの宝物になさるおつもりです。まるで咲子様の残した遺品の中の一つのように。
それに……私は正誠様の出生に関する秘密も聞いてしまいました。ここにいれば、ただで済むとは思えません」
座敷牢で済めばいいが、最悪は──
「曄子様、私と一緒にここを出てください。私はあなたを自由にしたい。ご自分の幸せはご自分で選び取って欲しいのです」
涙を浮かべた瞳で、両手を縛られ気を失っている旦那様を見据え、唇を引き結んだ曄子様がゆっくりと立ち上がった。それを支えるように立ち上がる僕の手に、曄子様の細い指が食い込むように握られている。
「わたくしは、この屋敷の中だけで一生を終えるなんて絶対に嫌です。いつまでも父のお人形でいるなんて……とても耐えられない」
そう言って僕を見上げた曄子様は、強い覚悟を秘めた眼差しをしていた。
「先生と一緒なら、わたくしは何処へでも参ります。何があっても……離れないと誓ってくださるのなら」
何があっても──
「誓います。曄子様、私はあなたを一生お守りします。だから、一緒に逃げてください──」
頷く曄子様の手を引いて、僕は割れた窓から外へ出た。いつの間にか日差しは傾き、庭は黄昏の色を帯びている。
咲子様の遺品の中にあった草履を曄子様に履かせ、最寄りの駅を目指して走り出した。目を覚ました旦那様がいつ背後に迫り来るかもしれないと、不安がずっと背中に張り付いて、足を止めることを躊躇わせる。
しかし、僕の体力は限界に近かった。喉の奥からヒュウヒュウと音がして、呼吸が苦しい。それでも必死で、繋いだ手の温もりを守りたいという一心で足を動かし続けた。
途中の質屋で袂に入れていた物を換金し、その場で女性物の銘仙の羽織を一枚買った。曄子様の締めている煌びやかな帯を隠さなくては、何処へ行っても目立ってしまうからだ。
曄子様が選んだ、黒地に白い花模様が織り出された羽織は少し地味な印象だったが、おかげで何とか雑踏に紛れ込み市電の駅に辿り着いた。市電で東京駅まで行き、そこから西へ向かう汽車に乗るのだ。
とにかく西へ──
市電のホームで、とうとうぐったりと座り込んでしまった僕の隣で、曄子様が心配そうに背中をさすってくれている。
「先生、やっぱり病院へ行ったほうが良いのではありませんか?昨日まで熱を出していらしたのでしょう?ご無理はいけません」
「いえ、とにかく汽車に乗らないと……不安なのです。あなたを、旦那様が連れ去ってしまうのではないかと──」
曄子様は何も言わず、ただ僕の背中に手を当てたまま俯いた。そうは言ったものの、こんなことでは東京駅に辿り着く前に行き倒れてしまいそうだ。
そう思っていた矢先、後からホームにやってきた他の客達の話し声が耳に飛び込んできた。
「棡原様のお屋敷で火事だってさ」
「ずいぶん派手に燃えているらしいな」
それを聞いた曄子様が、泣きそうな顔で僕を見る。心配するのは当然だろう。しかし、戻るわけにはいかない。
「大丈夫です。橘さんがいるのですから、旦那様や他の方たちはきっと無事ですよ」
そう小声で囁いて、滑り込んできた市電に彼女の手を引いて乗り込んだ。
動き出した電車の車窓から、お屋敷が見えるであろう方角に目をやる。確かに黒い煙が立ち昇っているのが見えたが、街並みの隙間から辛うじて見えた母屋の屋根には煙は上がっていなかった。
おそらく、燃えているのは和館……
何が起きたのか、気にならない訳ではない。それどころか、先程から掌にじっとりと汗が滲んで心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。
どうなってしまったのだろう
和館は、旦那様と橘さんは──
しかし、今はそれよりも、目の前の曄子様を少しでも安全なところへ連れて行かなくてはならない。市電のゆっくりとした動きに僅かばかりの焦りを感じながら、僕は曄子様の手を強く握りしめるしかできなかった。