十二 真相
「どうせ出られないなら、全部教えてあげますよ。あたなが知りたかったことを」
そう言って、畳の上に座り込んだ僕を見下ろす旦那様の顔は、行燈の明かりを背にして澱んだ陰翳が掛かっている。いつもの丁寧な口調が消え、低くざらついた声が僕の全身を粟立てた。
「正誠の母親……時子は元々は父の妾だった。いや、妾なんて体裁の良いものじゃない。行儀見習いに来ていた地方の商家の娘に、父が手を付けて孕ませてしまっただけの話だ。昔から女好きで、女中に手を出してばかりだったんだ。その時も、すでに郷に縁談があった時子を、あろうことか父が無理矢理に犯してしまった」
「ではつまり、正誠様は……」
「正誠は私の子ではない。父の子供だ」
あの老女の言っていたことは、正しかった──
しかし、まさかそれが大旦那様の子供だとは、思いもよらなかっただろう
「時子の家は、うちが代々世話になっていた織物問屋の大店だった。しかも、郷の縁談の相手は店の大事な取引相手の息子で、破談になれば取引もできなくなり店が潰れてしまうと、時子の父親が怒鳴り込んできたんだ」
それは当然だ。大事な娘に傷を付けられた上に商売まで立ち行かなくなるなんて、黙っていられるわけがない。
「その騒動を収める為に、父は時子を私の後妻にしたんだ。娘が伯爵家の正妻になれば、商売の援助も見込めるし、親の面子も保たれる。それで事を丸く収めてもらったんだよ」
──大旦那様とは何という人だろうか
自分が孕ませた女性を、息子の妻にするなんて──
「愛する人を亡くされた上に、よりによって父親の子供を孕った女性と結婚させられるなんて、さぞお辛かったでしょう」
僕の言葉に、まるで記憶の中の父親を軽蔑するかのような苦々しい表情で、旦那様は声を荒げた。
「当たり前だ。でも、私が一番許せなかったのは、父が私に言った言葉だった。やりたい放題、好き勝手なことをした挙句、正誠が産まれた後に何て言ったと思う?
跡継ぎを作ってやったんだから感謝しろ、と。男子を産まずに死んだ咲子の代わりに、新しい妻と息子を大事にしろと言ったんだ!そんなことを言って──都合良く自分の尻拭いをさせただけじゃないか!」
その悲痛な声と、歯を食いしばり怒りに顔を歪める旦那様に、かける言葉など見つかるはずもなかった。
何も言えずに黙っていると、旦那様の口から囁くような声が漏れた。
「だから……たんだ」
「え?」
あまりにも小さな声だったので、僕は思わず聞き返してしまった。
「だから、止めてやったんだよ。あの男の息の根を」
──何だって?
止めてやったとは、どういうことだ?
「私がイギリスに留学した目的は、薬学を学ぶ為だった。中でも植物から作られる薬品の研究をしたかったんだ。昔から病弱で身体の弱かった母を治したくて、ゆくゆくは医者になるつもりでね。でも父は、それを道楽だと言ってたった一年で日本に呼び戻し、自分と同じように貴族院議員になれと言った」
凍りついたように何も言えない僕に、旦那様は薄ら笑いを浮かべてこう続けた。
「植物には、人体に害を及ぼすものも少なくない。月下香の強い香りを吸い込むと呼吸困難を引き起こす可能性があるんだよ。元々肺の機能が弱い者は注意が必要だ。父や……先生のように」
背中を冷たい汗が流れ落ちた。甘い香りが、心なしか強くなった気がして鼓動が早まる。大丈夫、大丈夫と頭の中で繰り返していないとパニックを起こしそうだ。
「正確には私が手を下した訳じゃない。その夜、この場所で父と口論になった。ちょうど月下香の花が満開でね。夜になると月下香の香りは更に強くなる。むせかえるような香りの中で持病の喘息の発作を起こし、息も絶え絶えになった父を押さえつけて、呼吸が止まるのを見届けてやったんだ。医者は原因不明の心不全と診断し、誰も疑う者はいなかった。
たった一年でも、学んだ知識が役に立って良かったよ。母の命は救えなかったが、父への憎しみを晴らすことはできたからね」
そう言って旦那様は可笑しそうに笑い声を上げた。
やはりこの人は、狂ってしまったのだ。いや、狂わされてしまったと言ったほうがいいのだろう。愛と憎しみの狭間で、血の繋がった父によって狂わされた哀れな人──
「旦那様は、亡くなった咲子様を愛していらしたのですよね。その咲子様を偲ぶ場所で、大旦那様を見殺しにしたのですか?咲子様の花嫁衣装の目の前で……」
良心の呵責という言葉は、もうこの人の中には存在しないのかも知れない。それでも言わずにはいられなかった。
「そうだ。私は咲子を誰よりも愛していた。イギリスから呼び戻された私に、すぐに侯爵家の娘との縁談が舞い込んだ。その娘が咲子だったんだ。十六で私に嫁いできた、穢れのない真っ白い花のような美しい娘……十六歳の春のことだった。私は一目で恋に落ちてしまった。
今の曄子とちょうど同じ年頃だ。妻と曄子はよく似ている。瓜二つと言ってもいいほどに」
言いながら、両手を括られたままの僕の身体を引きずり起こし、座敷牢の格子の前まで連れて行かれた。
「あの瞳も髪も、咲子と同じ色をして、同じ笑顔で私を見上げるんだ。まるで咲子が戻ってきたように……だから、もう誰にも邪魔はさせない。あの子と二人で生きていくんだ。こんな家はなくなったって構わない。ただ愛する人が側にいてくれれば、それでいい──」
旦那様がポケットから鍵を取り出し、南京錠に差し込む。かちゃりと音を立てて鍵が外れ、軽く引くと扉が開いた。その中に勢いよく投げ込まれ、畳の上に無様に転がった僕の目に、奥に寝かされている曄子様が映った。
僕がここに入れば、彼女は自由になれる──
でも、果たしてそれは本当に自由と言えるのか?
旦那様の歪んだ愛情という、鳥籠に閉じ込められてしまうのではないだろうか……
その時、メキメキと木材が割れる音と共にガラスが割れる音が響き渡り、眩しいほどの日差しが一気に部屋の中に差し込んできた。前庭に面した窓が、雨戸ごと破られたようだ。
「先生!一之瀬先生、無事ですか」
その声は、まるで一筋の希望の光のようだった。
「橘さん!」
「良かった。足止めを喰らってしまい、遅くなりました。渡り廊下で誰かに後ろから殴られて……」
言いながら手に持っていた鍬を放り出し、割れた窓から室内に入ってくる橘氏に、目を血走らせた旦那様が襲いかかろうとするのが見えた。
手には簪を握りしめ、大きく振りかぶって橘氏に近寄っていく背中に、僕は必死で立ち上がり、思い切り体当たりをした。
ドスンと音を立てて床に倒れ込んだ旦那様の横を、橘氏がすり抜けて僕に駆け寄ってくる。
「ありがとうございます、先生。今、縄を切りますから」
「どうして僕がここにいるとわかったのですか?」
「沢木君が教えてくれたのです。旦那様が、先生をここで殺してしまうかも知れないと」
小さなナイフで僕の手首の縄を切った橘氏が、のっそりと起き上がった旦那様に向き直る。
「橘君、やはり君も先生に加担していたのか。殴るだけでは足りなかったようだね。しかも沢木まで寝返るとは……先生はよほど人の懐に入り込むのがお上手なようだ」
顔を顰める旦那様を見据えたまま、橘氏が小さな声で僕に言った。
「先生、私はここで旦那様を足止めしますので、お嬢様を頼みます」
「でも……」
「大丈夫です。もうすぐ沢木君も来ますから」
「──わかりました」
格子をくぐって曄子様の側に近寄ると、目を閉じたままの彼女を抱え上げて牢を出た。それを背中で庇うようにしながら、橘氏がナイフを構えて旦那様に向ける。
「そんな物で威嚇しても無駄だよ、橘君。曄子はどこへもやらん!一之瀬先生、今すぐその子を降ろしなさい」
そう言って躙り寄る旦那様の背後から、思いがけない声が聞こえて思わず目を見開いた。
「父上……?」
あどけない、子供の声
何の曇りも疑いも持たないその声の主が、不思議そうに首を傾げながら近づいてくる。
正誠様!
駄目だ、来たら……
「部屋の窓から外を見たら、ここの雨戸が壊れていたので……」
若様が言い終わるより先に、するりとその背後に回り込んだ旦那様が、小さな身体に腕を回し首筋に簪を突き付けた。訳もわからずに瞬きを繰り返す正誠様は、父と思っているその男を見上げて再び呼びかけた。
「父上、何があったのですか?先生も橘さんも、何故こんなところに」
「うるさい!私はお前の父親なんかじゃない!私の子供は曄子だけだ。早く曄子を降ろせ!」
その言葉に血の気が引いた顔で茫然と立ち尽くす正誠様を、旦那様は乱暴に引き寄せて簪を振り上げた。