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十一 匣の中

 襖をくぐると同時に、甘く優美な香りが鼻をくすぐって思わず辺りを見回した。

 

 左手には、先ほどの部屋と同じように雨戸の引かれた掃き出し窓がある。正面には更に奥へと続く襖。その右手には障子が閉められた窓があり、その向こうからは陽光が射していた。欄間から漏れていた光はこれだったのか。

 

 それにしても、漂っているこの香りはいったいどこから来るのだろうか。まるで舶来の香水のように、艶やかで官能的で酔いしれてしまいそうになる。

 

「この香りは……」

 

 無意識に出た僕の言葉を聞いて、旦那様が明かりの射す障子を開ける。と、そこには太陽の光が差し込む小さな草むらが広がっていた。

 

 これは、坪庭──?

 

 外から見ただけでは分からなかったが、建物が小さな庭をぐるりと囲うように建っているのだ。庭に面した四面の障子と回廊に囲まれた空間に、背の低い植物が無数に生い茂っている。

 まるで人々から忘れ去られたような、心寂(うらさび)しいような雰囲気が漂う庭が、そこだけぽっかりと時間の流れから取り残されたように、白々とした光の中に浮かび上がっていた。

 

 一見雑草だらけに見えるが、その中に見覚えのある植物があった。いつか池の中島で灯籠の根元に生えていた、あの植物によく似た細長い葉。あの時見たのは二寸ほどの背丈だったが、ここにあるのは三尺を超えるほどの大きさだ。それが庭の中に何株も植えられている。

 そしてその葉の間には、小さな白い蕾を鈴なりにつけた花茎がそそり立っていた。幾つかはすでに開花していて、どうやらその花から香りがしているらしい。


「月下香というのですよ。夏になると白い花を咲かせるのですが、ここは外気の影響を受けづらく気温が上がりやすいので、毎年早く咲くのです。良い香りでしょう?妻が好きだったのですよ」

「妻とは……咲子様のことですね」

 僕を見る旦那様の目が眇められ、口元に笑みを湛えたまま鋭くなる視線に思わず震え上がる。

「先生はどこまでお知りなのでしょうか」

 

 ここまできて隠し立ては出来まい。むしろ全てを話して、欠けている部分を埋めてもらいたいとさえ思う。

 

「僕が聞いたことは全てお話しします。でもその前に、まずは曄子様の安否だけでも確認させていただけませんか」

「ご心配なく。彼女は安全な場所におりますから。次の部屋でゆっくりとお話をお聞きしましょう」

 そう言って正面の襖を開け、さらに隣の部屋へと進もうとする。後について中へ入ると、今までの何もない部屋とはまるで違う、豪華な調度品で埋め尽くされた部屋が現れた。

 

 陽光の乏しい部屋の隅で、畳の上に置かれた行燈に明かりが灯っている。そのせいで、昼間だというのにまるで夜の帷が降りたような陰影がそこここに宿り、得体の知れない不安を掻き立てた。

 木目の美しい桐箪笥、見事なレリーフに縁取られた鏡の付いた鏡台。そして、衣桁に掛けられた色鮮やかな掻取──おそらくは婚礼衣装であろうそれが、部屋の中央に置かれている。

 これらはきっと、咲子様の嫁入道具であり遺品なのだ。亡くなった後ここへ運び込まれ、旦那様によって管理されていた──

 

 そしてようやく見つけた、背の低い収納棚の上に見えるあの磨りガラスの窓

 

 ここが、あの部屋だったのか──

 

 茫然と立ち尽くしていた僕の背後に、旦那様がビロード張りの椅子を運んできて肩を押された。なんの抵抗もなく腰を下ろした僕に、虚空を見つめた旦那様が静かに語る。

 

「時折ここへ来て、咲子にいろいろな話をするのですよ。姿は見えないけれど、彼女の香りに包まれていると今でもここにいるような気がしてね」

 そう言って掻取の袂を手に取ると、鼻先に近づけて大きく息を吸い、それから艶やかな布に口付けを落とした。

「旦那様……」

 愛する人の面影を留める、時の止まった部屋。ここで旦那様は、誰にも知られずに夜な夜な咲子様の思い出に抱かれて夢を見ていたのだ。

 

 陶酔したような表情で、収納棚の上に置かれていた簪を手に取り、愛おしそうに指先で撫でる。それから僕に背を向けるようにして窓の方へ近寄ると、そういえば、と低くゆっくりとした口調で話し始めた。

 

「先週の金曜日もここに来ていたのですが、裏庭から何やら話し声が聞こえたので窓を開けて外を窺ったのですよ。

 先生……あなたが私の宝物に手を触れた、あの夜のことです」

 

「宝物に、手を──?」

 

 頭の中を物凄い速さでその日の記憶が駆け巡る。やがて、ぐるぐると渦を巻く深淵の底から小さな何かが浮かび上がり、ふいに甦った温かい感触に己の掌を握りしめた。

 

 書庫の扉の前で、曄子様の手を握った──

 あの時、見られていたのか

 

 怒涛の如く後悔が押し寄せて、冷や汗と共に自責の念が湧き上がる。青ざめた僕の顔に、旦那様の射るような視線が突き刺さった。

 

「咲子が残してくれた大事な宝物、この世にたった一つの宝石のような美しい娘……それに触れる権利は、あなたには無い」

 一瞬で空気が凍りつくような声色に、息を吸うことすら怖かった。蛇に睨まれた蛙のように、身じろぎすらできない。

「ですからね、先生。大事なものは隠しておくことにしたのですよ。誰にも触れられないように、穢されないように」

 

 そう言いながら、鏡台の傍の襖に手を掛けた。軽く音を立てて開いた襖の向こう、薄暗い座敷には、小さな明かり取りから入る細い光しか光源が無い。その暗がりに目を凝らすと、異様な光景が徐々に浮かび上がってきた。

 

 襖から畳一畳分奥まったところに、黒光りする太い木材が格子状に組まれているのが見える。一部は扉のように開閉ができるようになっていて、大きな南京錠がぶら下がっていた。

 

 なんだ、あれは

 なんであんなものが、部屋の中に……

 

 ぞわりと全身が粟立って背筋に震えが走る。

 

 あれはもしや

 

 座敷牢──

 

 

 格子の間から覗く部屋の奥には、畳の上に無造作に敷かれた布団が見える。そしてその上に、静かに横たわる小さな身体。見覚えのある萌葱色の小振袖の上に、乱れた長い髪が揺蕩うように広がっていた。その身はぴくりとも動かない。

 

「あ……曄子様──」

 

 目に涙が滲んで、言葉にならない声が身体の奥底から湧き上がった。喉が焼き切れるかと思うほどに声を上げて椅子から立ちあがろうとしたけれど、震える足に力が入らずにその場に崩れ落ちた。

 

 僕のせいだ、僕の……

 僕が迂闊なことをしたせいで、曄子様に残されたほんの僅かな自由さえも奪ってしまった。

 

「薬で眠っているだけですからご安心ください。娘に危害は加えません」

「何故、こんな……」

「この建物は、この土地が大名の下屋敷だった頃に離れとして使われていたものをそのまま残しているのです。おそらく、当時の乱心者を収容するために作られたのでしょう。いわゆる指籠(さしこ)と言われる座敷牢です」

「そんなことはどうでもいい!自分の娘をこんなところに閉じ込めるなんて、あなたは……どうかしている」

 

 震える声で必死に訴えても、旦那様は眉ひとつ動かさずにこちらを見据えていた。この人は狂っている。僕にとってはこの人こそが乱心者だ。

 

「先生が大事なものに手を出すからいけないのです。しかも、なにやら使用人に聞き回ってお調べになっていたようですが、一体何が目的なのですか?この家の何をどこまで知っているのか、全て話してください」

「……僕が全てを話したら、曄子様を解放すると約束していただけますか」

「いいでしょう。でも話の内容次第では、曄子の代わりに先生がここに入ることになりますよ」


 僕はどうなっても構わない

 曄子様が自由になれるのなら──


「わかりました」

 

 大きく息を吐いて俯いた。涙が一粒こぼれ落ちて、ゆっくりと畳に染み込んでいく。それを見届けてから、僕は口を開いた。

 

「曄子様と出会ったのは、全くの偶然でした。裏庭にある書庫に、若様の講義に使う本を探しに来た時のことです。曄子様は鍵の壊れた通用口から、時折忍び込んで本を読んでいるのだとおっしゃっていました。それから、曄子様の話し相手として書庫でお会いすることになったのです」

 旦那様は無言で、曄子様の方を見つめながら聴いている。


「そのうちに、正誠様からご相談を受けたのです。母上様がご自分に関心を持ってくださらない、存在を否定されているようで辛い、と。それで橘さんに、奥様に会いたいとお願いしました。でも体調を悪くされていて会えないと断られて。仕方なく曄子様にお母様のご様子を聞いたのです。すると、時子様は旦那様の後妻で、ご自分は時子様の子ではないと教えてくださいました」

「私は時子を妻だと思ったことはない」

 

「そう、そこが不思議でならなかったのです。橘さんや曄子様から時子様が嫁いできた時の話を聞きましたが、旦那様は再婚を拒んでいらしたのに大旦那様が強引に時子様を後妻に据えたと言っていました。身分も不相応だったと。なのに何故、大旦那様がそこまで強引に再婚させたのか」

 

 旦那様の表情が曇り始めた。思い出したくない過去を他人に詮索されて、不愉快なのは当然だろう。でも、真実を知りたいという欲求に抗うことのできない僕は、一番の謎だった部分へと話を進めた。


「しかも隠居した老女が言うには、時子様は婚儀の際すでにご懐妊していたように見えたそうです。旦那様は直前までイギリスにいて、父親になれるはずはなかった。ならば、正誠様はどなたの……」

 ドンッと大きな音を立てて、旦那様の拳が収納棚の天面を叩いた。

 

「そこまで知っていらっしゃるなら、ここから出られるなどと思わないでください……先生」

 

 はっと息を呑んだ僕に、重く冷たい視線が向けられる。肺が引き攣ったような息苦しさに襲われて、頭から血の気が引いていくのがわかった。

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