十 拘束
老女の元へ確認に行った橘氏が青い顔をして戻って来たのは、僕の部屋を出てから三十分ほどたった頃だった。
「お部屋にお嬢様はいらっしゃいませんでした。ただ、旦那様が女中達に『妻のところにいるから心配するな』と言っていたそうなのです」
「妻?時子様の事でしょうか」
「そう思って時子様のお部屋も確認してもらったのですが、そちらにもいらっしゃらなくて……」
曄子様が、いなくなった──
「老女や女中達には、旦那様に事情を聞くまでは騒ぎ立てるな、とは言っておきましたが、その旦那様もお姿が見えないのです」
『妻のところ』と言ったのに、時子様の部屋にはいなかった。ということは──
妻とは、もしかして咲子様のことではないだろうか?
「橘さん……旦那様が言う妻とは、おそらく咲子様のことです。咲子様のところ、つまり……和館の一番奥の部屋のことを言っているのではありませんか?」
腕組みをして考え込んでいた橘氏が顔を上げて天井を見る。
「その可能性が高いですね。でも、和館の入り口の鍵は旦那様しか持っていないのです。やはり旦那様を見つけるしかありません」
見つけたところで、すんなり中に入れてくれるとは思えないが……
「とりあえず、僕は庭を回って和館へ向かいます。橘さんは母屋から渡り廊下を通って行ってください。どこかで旦那様に会えるかもしれません」
部屋のドアを開け二人で廊下へ出ると、背中を合わせるように逆方向へと足を踏み出した。橘氏は奥へ通じる扉に向かって、僕は庭へ出るために一階の玄関を目指して。
外へ出ると初夏の日差しが暑いくらいに照り付けていた。六月も間近だというのに梅雨入りの気配は全くない。それどころか一足飛びに真夏がやってきたような熱気だ。
病み上がりの身体では、走るどころか歩くだけでも息が上がる。この二日間、まともな食事が取れていなかったのだから当然だ。そこにこの暑さはかなり堪える。しかし、一刻も早く曄子様の所在を確認しなければ──
眩暈を覚えながらもなんとか和館に辿り着くと、渡り廊下に近い場所の掃き出し窓が一箇所、雨戸が僅かに開いているところがあった。この建物の雨戸が開いているなんて、初めてだ。
中に入れるかもしれない
そう思って近づき、開いた雨戸に手を着いて中を覗き込もうとした矢先……
ドスン
突然後頭部に激しい衝撃が伝わり、目の前に火花が散る。遅れて鈍い痛みが走って全身の力が抜けた。膝から崩れ落ちるように身体が地面に近づいていく。
何が起こったのか判らないまま、徐々に暗くなる視界の隅で必死に状況を捉えようと目を凝らすと、見覚えのあるズボンを履いた脚が見えて僕は愕然とした。
あれは────
◇
気がつくと、僕は後ろ手に縛られ畳の上に転がっていた。頭が割れるように痛んで、身じろぎするだけで視界が歪む。これではとても起き上がれそうにない。
ここは何処だろうか……
そう考えながら、直感的に和館の中だと感じていた。目だけを動かして、辺りを見回す。片方の壁には雨戸の引かれた掃き出し窓、その隣の壁には襖が並んでいて、見える範囲に家具は何一つ置かれていない。僕の頭の方には引き戸があるようだ。
照明はついていないが、欄間から漏れる隣の部屋からの明かりでなんとか室内の様子を伺うことができた。
ここには磨りガラスの窓はない。ということは、例の部屋ではないのか。
その時、頭の方の引き戸が開いて誰かが入ってきた。視線を向けるとその人物の脚が見えた。
その脚は、さっき意識を失う前に見たのと同じ色のズボンを履いている。
「……沢木さん、どうして」
泣きそうになりながら絞り出したその声に、低い声が答えた。
「先生、手荒なことをして申し訳ありませんでした。傷にはなっていませんが、痛むと思いますので少し冷やします」
そう言って傍らに膝を着き、濡れた手拭いを僕の後頭部に当てた。
「……っ!」
押さえられた場所がズキンと痛んだが、すぐに手拭いの冷たさがそれを拭い去っていく。
「こんなことをしなくても、病み上がりのあなたなら簡単に拘束できたのかも知れませんが、私も腕に自信がある訳ではないので……すみません」
そう言って詫びる沢木氏に、僕は改めて問いかけた。
「どうして、こんなことをするのですか」
視線を下げてしばらく黙った後、沢木氏は言いづらそうに口を開いた。
「実は、旦那様に言われて……今日、先生が必ずこの建物に来るはずだから、拘束して旦那様の前に差し出すようにと……」
ここに、来るはず──
旦那様は、僕が曄子様の存在を知っているどころか、密かに会っていることもご存知なのだ。だから、姿を消した曄子様を探してここに来るはずだと確信していた……
「全てお見通しだったという事ですね。全く、情けない……」
それにしても、拘束して差し出せとは一体何をするつもりなのだろうか。曄子様との密会を始めた時点で、知られたら罰を受けるだろうことは想定していた。屋敷を追い出され、職を失うのは間違いないだろうと。しかし、こんな荒っぽい手段に出るとは予想していなかった。
もしかしたら、何か口止めをしなければならないことを、僕は知ってしまったのだろうか──
その時、襖の向こうから足音がして、明かりの漏れていた欄間の下の襖がすっと軽い音を立てて開いた。
「一之瀬先生、気が付かれましたか」
「……旦那様」
沢木氏が僕の頭に当てていた手拭いを握りしめて一歩下がった。布の感触が無くなって濡れた髪が空気に触れる。その瞬間、ひやりと冷たいものが背筋を走った。
「先生、ここがどこだか分かりますか?」
「──和館……ですよね」
旦那様がにやりと笑う。
「その通りです、先生。ずいぶんとご興味がおありのようだったので、お招きいたしました。歩けるようでしたら、奥の部屋もご案内いたしますよ」
そう言って沢木氏に目配せをすると、沢木氏が僕の身体を起こして大丈夫ですか?と聞いた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
それから、僕の背を支えるようにして立ち上がった彼の耳元で、小さく問いかけた。
「沢木さん、一つお聞きしてもいいですか?」
「はい」
「私の看病をしてくださったのも、旦那様に言われて監視でもしていたからなのでしょうか」
「それは違います!本当に若様から頼まれてのことでした。若様は、私のような下男にも優しく丁寧に接してくださるのです。ですから何としてもお役に立ちたいと──」
そう言う沢木氏の顔には、忠義と恩義の間で板挟みになった苦渋が滲んでいるようだった。
俯く彼に、僕は心の底からの願いを託した。
「沢木さん……もしも僕に何かあったら、正誠様のことをよろしく頼みますね」
目を見開く沢木氏を残して、僕は旦那様の後に続いて襖の向こうへと進み出した。