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九 悪寒

 翌朝、目が覚めると喉に違和感があり、酷い頭痛がした。どうやら風邪をひいたらしい。

 

 あの忌まわしい流行り病に罹ってからというもの、少し体調を崩すとすぐに肺が悲鳴をあげるようになってしまった。早めに休息を取って風邪を治さなくては、激しい咳と呼吸困難で本格的に寝込む羽目になる。

 手のひらを額に当ててみるが、熱はさほど高くなさそうだ。今のうちにゆっくり休めば何とかなるだろう。

 

 気怠い身体を引きずるようにして詰所に向かい、今日の若様の講義を休ませて欲しいと橘氏に告げた。

 

「承知しました。お大事になさってください。後ほど朝食と薬をお部屋に運ばせます」

「申し訳ありません」

 

 それだけ言って詰所を出たが、部屋に戻るまでの階段を登るのが辛い。頭痛は増して目が回りそうだし足が重い。やっとの思いで部屋に戻り再び布団に潜り込むと、目を瞑った途端すぐに眠りに落ちてしまった。

 

 それからどのくらいの時間が経ったのか、ドアをノックする音で目が覚めた。

 どうぞ、と声をかけるとドアが開き、以前若様の教材を運んできた下男がトレイを持って入ってきた。

 

「お食事とお薬をお持ちしました」

 そう言って書斎机にトレイを置き、僕に向かって一礼する。

「どうも……ありがとうございます」

 

 自分の声ではないような嗄れ声に自分でも驚いてしまった。戻っていく男性の背中を見送って身体を起こすと、トレイの上に湯気の立ち昇る椀と感冒薬の包み、それから水の入ったコップが見えた。

 あまり食欲はないが、せっかく持ってきてもらったのに手をつけないのも申し訳ない。そう思ってベッドから降り、椅子に座った。

 

 梅干しの乗った粥に匙を入れ、一口含んで飲み下す。喉を通る時に痛みが走った。だいぶ腫れているようだ。

 なんとか半分ほど食べて、水と一緒に薬を飲んだ。先程よりも身体が熱いのに、水の冷たさに悪寒が走る。

 

 ……これは、良くないな

 

 悪寒は熱が上がる前触れだ。体温計を借りに行きたいが、詰所まで辿り着ける自信がなかった。仕方なくベッドに戻り、布団を被ってしばらく目を閉じていると、瞼の裏に曄子様の顔が浮かんだ。

 明日は金曜日なのに、これでは行かれないかもしれない──

 

 一人きりの書庫で、待ちぼうけをさせるのは忍びない。けれど、連絡をする手段がない……苛立ちを感じながらも、ぼんやりとする意識を今にも手放しそうになった瞬間、再びドアがノックされて橘氏が顔を覗かせた。

 

「お食事は食べられましたか?体温計と水枕をお持ちしました」

 本当に、この人の察しの良さには脱帽する。

 

「橘さん……感染るといけませんから、近づかないほうが良いですよ。そこへ置いていただければ、自分で取りに行きますから」

 そう言ったのに構わずに入ってきた橘氏は、僕に体温計を手渡し、頭の下に水枕を差し入れた。ひんやりとした水枕の感触が心地よくて、思わず息が漏れる。

「体温計を腋の下へ。あまり熱が高いようなら氷嚢もお持ちします。それから、先程医者を呼びに使いを出したので、到着次第診てもらってください」

「何から何まで、本当に申し訳ありません」

「先生が寝込んでいると、悲しむ方々がいらっしゃるでしょう?」

 そう言われて、正誠様と曄子様を思い浮かべた。

 

「橘さん、実はお願いがあるのですが」

「何ですか?」

 

「明日の夜、曄子様と書庫でお会いする予定だったのですが、この調子では無理そうなので……お断りの連絡をしていただけないでしょうか」

 

 腕組みをしてしばらく考え込むようにしていた橘氏が、ひとつため息をつく。

「いくら私でも、奥にいらっしゃるお嬢様に直接お会いしに行くことはできません。それに、手紙は老女に検閲されますから絶対に駄目です」

 更に大きくため息をつくと、諦めたような表情でこちらを見た。

「仕方がありませんね。明日、私が先生の代わりにあの書庫へ行ってお嬢様に事情をお話しします。それで構いませんか?」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

「まったく──まさかこんな危険を冒す羽目になるとは……高くつきますよ」

 

 言いながら机の上のトレイを持ち上げ、熱は?と聞く。腋の下の体温計を引き抜いて見ると、三十八度五分を指していた。

「氷嚢を届けさせます」

 計測結果を告げた途端、そう言い残して橘氏は部屋を出て行った。

 あの人は、あんなぶっきらぼうな物言いをするが根は優しい人なのだ。だからこそ、何に対しても気配りができて、必要な手を必要な時に差し伸べてくれる。

 

 しばらくして、氷嚢を持った先程の下男と一緒に医者がやってきた。

 聴診器を当てられ、軽い喘鳴があると言われたが、今のところはただの風邪と診断された。既往症の話をすると、無理はしないようにと釘を刺され、頓服を処方して医者は帰って行った。

 

 


    ◇

   

   


 医者が帰った後の記憶は曖昧だ。うつらうつらと、眠っているのか覚醒しているのか分からない時間が延々と続いた。関節が痛み、まとわりつく寝巻きと寝具が腹立たしい程に熱く、汗が止まらない。時々嫌な夢を見ては暗闇に目を見開き、吸飲みの水を飲んではまた寝落ちする。

 そんなことを幾度となく繰り返して、何度目かに目を開けた時には、部屋の中が明るくなっていた。

 

 時間の感覚はおかしいし、手足もこわばって身体中が痛い。それでも、ようやく少し解熱したように感じてゆっくりと身を起こした。

 汗でびっしょりになった寝巻きと、温くなった水枕──夜中に何度か氷嚢と水枕を変えに誰かが来ていたようだが、朦朧としていたのでそれが誰だかはわからない。

 

 足を床に着いて立ちあがろうとすると、目が回って吐き気がした。

 ──着替えはもう少し後にしよう

 再び横になったところで、ドアを叩く音がした。

 

「失礼いたします。朝食をお持ちしました」

 あの下男がトレイを持って入ってくる。机にそれを置いて去っていく背中に向かって、声をかけた。

 

「あの、昨夜水枕を変えてくださったのは、もしかしてあなたですか?」

「──はい。ご無礼かと存じましたが、若様に……頼まれまして」

「若様に?」

「はい。先生がご病気と聞いて、ずいぶん気落ちされていまして。ご自分の代わりに看病をしてくれ、と……」

「そうだったんですか。よろしければ、お名前をお聞きしても?」

 驚いたように目を丸くする男性は、ちらりと僕を見て答えた。

「──沢木、と申します」

「沢木さん。ありがとうございました」

 頭を下げて部屋を出る沢木氏を見ながら、皆に迷惑をかけてしまった自分が情けなくなった。幼い正誠様にまで心配をかけてしまうなんて……

 もうしばらくしたら、着替えをして食事をしよう。少しでも栄養を摂って、若様のためにも早く治さなくては……

 


 その日は一日中、三十八度前後の発熱が続いた。しかし前日のような頭痛は治まり、食欲も少しずつ回復してきて、夜には身体を起こしてもふらつくことはなくなった。しかし、書庫へ行くのはやはり無理そうで、橘氏に全て任せるしかない。


 曄子様とうまく会えるとよいのだが……

 

 

 

     ◇

    

    

 

 何もできないまま土曜日の朝を迎え、すっかり解熱した僕を橘氏が訪ねて来た。

 

「具合はいかがですか?」

「お陰様で熱も下がりましたし、だいぶ良くなりました。いろいろとありがとうございました」

 

 ところで、と橘氏が早速話を切り出した。

「昨夜、書庫にはどなたもいらっしゃいませんでした」

「え──?」

 

「中に私が居るのを見て、こっそり引き返したとも考えられますが……」

「──そうですか。まあ、都合が悪ければ来なくても良いと申し上げてありましたので、もしかしたら何かご予定があったのかもしれません」

 そう言った後ではっと息を呑む。

「もしかして、先週お会いした時に私が風邪を感染してしまったのでしょうか……」

「いや、もしそうなら旦那様が血相を変えて医者を呼べと大騒ぎしているでしょう」

「それもそうですね……」

 

 ただ、と橘氏が首を捻りながら僕を見る。

「ひとつ気になる事がありまして」

「気になる事?」

 珍しく神妙な面持ちで、顎に手を当てて考え込んでいる。

「私が書庫に入った時、床に本が数冊落ちていたのです」

 本が床に……?

 

「橘さんが行く前に、曄子様がお一人で書庫へ入られて読んでいたのでしょうか?」

「それにしても、床に落としたまま帰るなんておかしいでしょう」

「予想外の人が現れて驚いて落としてしまい、慌ててその場を立ち去ったとか?」

「私は裏の通用口から入ったのですが、正面の入り口の鍵は閉まっていました。誰かが出て行ったのなら、開いているはずです」

「それなら、何故──」

 

「落ちていた本は全てヨーロッパの童話集だったので、読んでいたのはお嬢様で間違いないと思います。そして……本を落として拾う間もなく出て行かざるを得なかった」

「曄子様が本を読んでいたところに誰かがやって来て、急いで逃げた……」

 

「または、連れて行かれた──」

 

「連れて行かれたって、一体誰に?彼女が書庫に出入りしていることは、僕と橘さん以外知らないのではないのですか?」

 

「そうではない可能性が出て来た、という事かも知れません」


 そうではない──

 もしそうなら、この屋敷にいる誰かが、曄子様をどこかに連れ去ったことになる。

 

「お嬢様がお部屋に戻っていらっしゃるか、老女に確認します」

「はい……お願いします」

 

「もしもいらっしゃらなかったら……一大事です」

 

 焦りを含んだ橘氏の眼差しに、また熱が上がってくるかのような悪寒が僕の全身を駆け抜けていった。

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