変装と陽動
フェンガルの造船所から出航して間もなく、船の中央から煙が上がり、慌てたように小柄な人影が甲板に飛び出した。騒がしくなった海岸を横目に、イルアンとヴィンザーは裏路地から第六商会へと向かった。
「しかし、変装というのも色々あるんだな。帽子を被るとか、もう少し他のやり方なら想像が着いたんだけど。」
「想像が着くような変装じゃあ、変装になってねぇじゃねぇか。」
二人は揃って緑のつなぎを着込み、木材の乗った手押し車を前後で支えながら石畳の上を進んだ。遠目には、下働きの親子にしか見えないだろう。
「あいつら、逃げ切れると良いがなぁ。」
ヴィンザーが、何度目かの詮無いつぶやきを漏らす。乱暴に見えて人情に厚いという人物評を思い出して、イルアンは表情を隠して笑った。やがて表通りに出ると、夕陽を受けて輝く天秤の絵が目に飛び込んでくる――第六商会の本拠だ。
「元々は、トビが適当な船大工を雇って囮にする作戦だったんだ。エイムレー、あいつ、無茶を考えやがって。」
「へっ、借りたものは、いつか返さねぇとな。」
イルアンが頷いたそのとき、港の方からざわめきが湧き起こった。荷車を止めて目線をやれば、煙を上げているクーガの船に、二艘の小舟が近づいて行く。
「始まったな。」
イルアンは無言で俯くと、荷車を叩いて出発を急かした。トビとエイムレーが作ってくれた時間を、一拍たりとも無駄にしたく無かった。
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もちろん、小火騒ぎは狂言である。追われているはずの少女が無用心にも姿を現すのだから、相応の事情が無ければ説明が付かない。
「船で怖いものと言えば、火事ですよ。港からでも、何かあったと気づいてもらいやすい。」
そう言って、トビが機転を効かせたのだ。近づいてくる舟は、二艘。右手から迫る舟の舳先には、腕組みに得物を挟んだ長身の男がいる。しかし、男はつまらなそうに首を回すと、その場に腰を下ろして肩肘をついた。明らかに、もう一方の舟の方が速い。
「姉ちゃん、左の舟は?」
先に到着しそうな方を指して、エイムレーが訊ねた。
「味方です。さ、もうあなたは物陰に隠れなさい。黒槍は、投擲も一流ですよ。」
それに、姿をさらし続けてぼろを出されても困る。黒槍はリアネスと面識は無いはずだが、ふとした仕草から違和感を抱くかもしれない。トビは左手から近づいて来る舟に手を振ると、右手の舟からエイムレーを庇うように甲板上を駆けた。船の縁までくると、エイムレーを屈ませて隠し、自身は縁に腰を置く。
「先に行きます。私が呼んだら、すぐに飛び込んでください。」
「そんな、飛び込まなくても舟を付けてもらえば」
「味方の舟を減速させたくありません。全速の舟に乗り移るには、あちらに引き上げてもらうのが一番です。では!」
そう言って、トビは体四つ分下の海面に飛んだ。浮かび上がって来るなり、叫ぶ。
「飛んでください!」
エイムレーは、トビと同じように縁に腰掛け、飛ぼうと水面を覗き込んだ。
(わっ、高いな…!)
一瞬の、躊躇い。
その僅かな間を縫って、トビの視線の隅から一筋の放物線が空に現れた。
「あっ!」
放物線は布で覆われた少年の体に吸い込まれ、骨が弾ける低い音が響いた。悶絶した少年は、頭から海へと転がり落ちていく。
「しまった!」
振り返れば、まだかなりの距離がある舟の上で、男が投石紐を回しているのが見えた。この距離で、一撃で命中させたと言うのか。
(やはり、私には考えも及ばない世界がある…!)
トビは即座に、エイムレーが落ちた地点に向かって潜水すると、二掻きで胴を掴んだ。泡を吐いているから即死ではなさそうだが、意識は飛んでしまっているようだ。
(好都合です)
溺れそうな者を助けるときは、腹を打ってでも気絶させる。必死に足掻く者を抱えて泳ぐことなど、どんな達人にもできはしないのだ。だが、今エイムレーの腹を打つのは、それ自体が致命傷になる可能性があった。少し下に見えた海底まで降りて、息を吐きながら一気に浮上する。水を掻くより、反動を使う方が数段速い。海面に出るなり、叫ぶ。
「こちらへ!」
左手から近づいていた舟から、綱が投げ込まれる。舟の進む速度に合わせて繰り出された綱は、海面に静止して止まっている。
「掴みました!引いて!」
あとは、引き上げられるのを待つだけだ。手負いの子供を担ぎながら舟に追いつこうなどと考えてはいけない。やがて船尾まで綱が手繰られると、トビの頭上からだみ声が降ってきた。
「久しいな、ロージェン!さあ、そのチビからだ!」
「ハヤキド、あなたでしたか。道理で手際が良いわけです。」
懐かしい名前で呼ばれた感慨に耽る暇もない。エイムレーを押し出して、布の裾を掴ませる。ハヤキドは片手で悠々とそれを引き上げると、船底に転がして息を確かめる。次いで、冷たい海水で濡れた衣服を剥がしてやろうとする。しかし、これが一筋縄ではいかない。
「こいつ、チビのくせにしっかり掴んでやがる。」
エイムレーは、投擲を受けて意識を失う直前、左手で強く前開きの布の端を掴み、脱げないようにしていたのだ。




