では、私を殴ってください。
追手達は、第十二大陸で飛竜エマーヴァが現れるのを待ち構えていたのだろう。しかし、待てど暮らせど飛竜は現れない。エマーヴァの傷は飛竜に詳しくないイルアンから見ても深手であったから、追手達も飛竜が死んだか、大陸間飛行を行えない状態にあることは想像が付いたとみえる。そこで、第一大陸南端のメイザスにて刺客を放つことを考え付いたに違いない。
「私たちと出会わなければ、リアネスはきっと真っすぐメイザスを目指していたのでしょうね。」
「それは、霧の母の畔で生き延びられた場合の話だけど…あのあたりには凶暴な獣も、狼もいたし…あれ?」
はたと、イルアンは口元に手をやった。リアネスと初めて会った時、そう言えば、狼の遠吠えが聞こえていた。ティックが顕現したときもそうであったように、あれはナユタの支配下にあるとみて良い。そうなると、もしかして自分たちの助けがなくとも、少女は生き延びられたのではないか。視線を送ると、意図を察したセテが得意げに胸を張った。
「私はソウマ達と意思疎通できたあたりから、気づいていたわよ。恐れられていたひねくれの魔女というのは、ずいぶんと面倒見が良いんだなって。」
トビは二人の様子を注意深く伺っていたが、ふう、と大きく息を吐いて目を伏せた。
「姉が、あなた達を気に入った理由が、判った気がします。大変な旅をして来られたのですね。そしてそれは、これからも続く。」
イルアンとセテが無言で頷いたのを見て、トビは肩をすくめた。
「水城衆は、命と金とを天秤に掛けることはありません。難破する方が多い連絡船の上までは、追いかけて来ないでしょう。ですから、あなた方が用心棒を必要とするのは出航までの間、ということになります。エンミャンは腕利きですが、昨日のような手練れを何人も相手するとなると、心許ない。他に、頼れる人はいませんか?」
「俺も、一緒に戦うさ。多少の助けにはなってみせる。」
「いえ…言いにくいのですが、間違いなく邪魔になるだけです。仮に足の負傷が無かったとしても、出来るだけ離れて逃げ回っていた方が、よほど良い結果になる。」
トビの口調は穏やかだったが、有無を言わせぬ厳しさを帯びていた。イルアンが口ごもってしまったことに罪悪感を得たのか、
「少し、歩きましょうか。」
と、トビが庭へと誘った。
まだ、陽は昇り切っていなかった。
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今日は、歩いて参りました。その言葉通り、昨夜馬車が止まっていた場所には何もなかった。
「戦いの訓練を受けた者と、そうでない者とでは、動きの根本が違うのです。私はその界隈では決して強い方ではありませんが、それでも素人が相手なら三人同時にでも渡り合えます。さらに言えば、片手で屠ることすらできる。」
そう言って、トビは地面に直径四歩分ほどの大きさで円を描き、イルアンをその中へ招き入れた。
「狭いな。」
不満を述べたイルアンを振り返ると、トビは微笑んで言った。
「では、私を殴ってください。ただし、この円から出てはいけません。」
「え?」
殴るというと、どれくらい強く殴って良いのだろうか。いや、怪我をさせるわけには行かない。
「大丈夫ですよ、避け続けますから。有効打を当てられるものか、試してみましょう。案外、イルアンにも格闘の才能があるかもしれません。」
イルアンは、トビの言葉に鼻白んだ。正面に立っているのはウージェンのように見るからに屈強な戦士ではなく、線の細い女性なのだ。躊躇っていると、目の前に手が掲げられた。ここを打て、と言っているのだろうか。
「えいや。」
ぽん、と情けない音を立てて拳がトビの手に打ち付けられた。
「もっと強く。」
もう一度、さらに強く。それを何度も繰り返し、その度に「もっと強く」と言われた拳は、気づけばイルアンの全体重を乗せてトビの掌へと向かっていた。
これが、最後だ。
手加減を完全に忘れて、振りかぶってから放った拳が、空を切った。そのまま体がぐるんと回って、地面に叩きつけられる。背中の痛みに目を潤ませながら見上げると、勝ち誇ったように微笑むトビが目に映った。
「さ、当ててください。当てられるものならば。」
そこから先は、よく覚えていない。最後の方は自分でも妙だと思うような奇声を上げて、しかも自分だけは円の存在を無視して飛び掛かってみたりしたが、空転させられ、打ち払われ、全く体に届く気配が無かった。陽が天中に差し掛かるまで腕を振り続け、疲れ切ったイルアンは、自ら円の中心に腰を下ろしてしまった。降参だ。
「…良く分かった。」
「ええ。お判りいただけて、何よりです。足の傷が悪くならないよう移動範囲を制限したのに、円を無視し始めたときは肝が冷えましたよ。セテが、凄い目で私を睨んでいました。」
イルアンが振り返ると、セテが目を細めて何か独り言を漏らしているのが見えた。幸か不幸か、その声はイルアンの耳まで辿り着いていない。
「トビなら、追手達にも勝てるんじゃないのか?」
イルアンの言葉に、トビは手と首を振って身を退いた。
「さきほども言った通りです。訓練を受けた者の中では、私は弱い部類に入る。水城衆の多くは、私より強いと思っていただいて間違いありません。特に、黒槍と呼ばれる男に掛かれば、私も先ほどのイルアンのように子供扱いされてしまうでしょう。上には、いくらでも上がいるのです。」
まじまじとトビを振り仰ぐ。汗だくのイルアンとは対照的に、涼しい顔をした戦士。これが、弱い部類だって?彼女の前では、かの大ねずみも可愛く見えてくるというのに。
「じゃあ、その黒槍に勝てる用心棒に心当たりが?」
「ありません。」
「おい、情報屋ぁ」
トビは、イルアンの手を取って地面から立たせてやった。
「護衛が目的なのですから、要は黒槍を避けることができればよいのです。先ほどは『勝てるか』と聞かれたので『否』と申しましたが、守れるかと言われれば話は別です。上には上がいますが、実は裏口も横道もあるのです。」
トビはイルアンの手を掴んだまま額の高さまで掲げると、自分の手の甲をイルアンの額に押し当てた。
「これは、用心棒契約の所作です。出航までの間、私があなた達を守りましょう。代金は、水晶工組合と薬師連、それとうちの姉にでも請求しておきますので、お気遣いなく。」
額から手が離れていく。次いで、トビの額にイルアンの手の甲を押し付ける。さらさらと乾いている女の額に汗がじっとりと転写して、イルアンは気まずさに思わず目を背けた。




