老薬師からの警鐘
矢を抜くというのは、イルアンが想像していた以上に大ごとであった。
まず、太い血管や腱を避けながら鏃が見えるところまで肉を切開し、次いで残った組織を横に寄せながら徐々に矢を引き抜いていく。噛まされた布の奥から漏れる悲鳴がひと際大きくなったと思うと、リアネスの意識は闇へと落ちていった。
「呼吸はあるわね。なら、意識が無い方がよほど幸せよ。」
処置に使う刃物は火で炙っておかないと、忘れ物を取りに来るように後になって熱が出るのだという。熱気が充満した室内で、汗だくの薬師たちは遂に矢を抜き切った。比較的大きく傷ついた部分を一箇所ずつ止血し、表面の傷が縫い合わされる。ぐったりと目を閉じたリアネスは、とても数日で船を漕げるようになるとは思えなかった。
(なぜリアネスが狙われたんだ。)
片付けを終えて処置室を後にすると、セテが広間の隅に設けられた東屋から手を振ってきた。
「片付け担当、お疲れさま。助かっちゃったわ。」
「傷の手当に関わる人数は少ないほど良い、だろ?そう言われては、俺にできることは片付けくらいしか残らないからね…見て驚くなよ、血の跡一つ残さず洗い切った。」
セテは満足気に頷くと、机を挟んで向かいの椅子をイルアンに勧めた。隣には、先ほど一緒に籠へ乗り込んだ女が座っている。
「こちらは?」
イルアンは、思わず腰帯に手をやった。先ほど、その華奢な腕からは想像もできないような怪力で籠の床に引き戻された気がするが。
「エンミャンよ。イルアンも、一緒に遊んでもらったでしょう。まあ、私もさっき名前を言われるまで気づかなかったのだけど。」
「エン、ミャン…?」
ああ、という呆けた声と共に、イルアンは目を大きく見開いた。エンミャン。薬師連の用心棒で、平時は買い出しなどを任されていた女だ。浮かび上がった五年前の印象からは、少し痩せた気がする。
「二人とも、大きくなったわね。でも、イルアンの強がりっぷりは変わってない。右足は、明日にでも診てもらいなさいな。走るときに体が傾いていたよ。」
「強がっている訳じゃない。ただ、治療に当てる時間が惜しかっただけさ。」
それを強がりというのだというエンミャンの指摘にセテが同調すると、三人は誰からともなく笑い合った。やがて他愛もない話も尽きると、セテが足を組みなおして声を低くした。
「考えてみたのよ。随分と都合よく救急籠が現れて、私たちを助けてくれたなって。これ、偶然じゃ無いでしょう。エンミャン、あなた達は私たちが狙われると知っていた。そして、それはリアネスが狙われた理由とも関係している。違うかしら?」
視線を向けられた用心棒は、深く頷いて腕を組んだ。
「数日前から、海を渡ろうとしている十代前半の少女を見ていないか、って聞き込みをしていた輩が居たらしくてね。それをトビが、ああ、さっき馬車を操ってくれていた御者の女性ね、彼女が薬師連に知らせてくれていたのよ。そこに、これが届いた。」
そう言ってエンミャンは、懐から一通の手紙を取り出して机に広げた。
「こ、これ、おばあちゃんの字だわ!」
「ええ、数年ぶりに届いた老ティムソエーナからの便り。ここには、セテとイルアンが、見慣れない幼い少女を連れて村を出て行ったと書いてある。何となく嫌な予感がしたから、少女を探し回っている者についてトビに調査を依頼していたのさ。でもさすがに、本当にセテ達が現れる確信なんて無かった。それが、今日の昼過ぎに水晶工の男の子が浮かれた顔で飛び込んで来て「大変だ!セテとイルアンが、可愛い女の子を連れて戻ってきたぞ!」って叫んだものだから、慌ててトビと一緒にあなた達の行方を追いだしたんだよ。でも、一歩遅かった。やっと見つけたのが馬の骨の前だなんて、皮肉なものね。」
ここまで判っていながら、とエンミャンはうな垂れて目元を覆った。セテは用心棒の手を握ると、その前髪を掻き分けて額を付けた。
「いいえ、エンミャン。あと少し遅かったら、三人とも命を落としていたわ。助けてくれて、ありがとう。リアネスなら大丈夫よ。とても強い子だもの。それよりも、薬師連は大丈夫なの?だいぶ派手に動いてしまったけれども。」
エンミャンは額を預けたまま、小さく頷いた。
「それは大丈夫。大通りで騒ぎを始めたのは相手方だし、彼らと言えども薬師連と正面切って対立したいとは思わないはずさ。」
イルアンが言った。
「エンミャン達は、彼らが何者なのかを掴んでいるんだね。」
「ええ。だけど彼らが謎の少女を追っている理由は、掴めていなかった。いきなり襲い掛かるとわかっていれば、もう少し対処のしようもあったのに。」
みっともない、言い訳だね。そう言って、エンミャンは細く息を吐いた。灼熱の処置室の残滓が、第一大陸の冷たい空に白く舞った。セテのくしゃみをきっかけに、三人は暖かい室内へと戻って行った。




