昔は神童と呼ばれていてね。
橙。
瞼の裏に光を感じて、リアネスは目を覚ました。詳しい時刻は判らなかったが、寝台まで差し込んでいる陽光は、既にだいぶ傾いている。
「水…」
手が届く範囲に水差しが置かれているのに気づいて、ありがたく喉を潤す。三つある寝台の残り二つは空で、窓越しには往来の気配を感じた。
生き延びたのだ。中央大陸を飛び立ち、存在すら定かでない別の大陸に辿り着いた。
しかし――
「あれは魔女に違いないわ。恐ろしい力を持つ、悪い奴。」
もうひと踏ん張りと言うところで、リアネスの相棒は銀髪の少女に奪われてしまった。氷点下の湖畔に置き去りにされたリアネスは死を覚悟したが、そこに現れた何者かに救われ、この人里にある。
うん、きっとこの流れであっているだろう。
高さのある寝台から飛ぶように降りると、少し足がふらついた。手を首に当てて、熱を確かめる。
「多分、下がってきてる。」
そう自分に言い聞かせると、少し元気が湧いてきた。
気を取り直して部屋の中を歩いてみると、薬師が使うと思しき机の上に、文字らしきものが書かれた獣皮を見つけた。
「だめね…読めないわ。」
魔女の気まぐれか、どうやらリアネスは、この大陸の言葉を話せるようになったらしい。もしかしたら文字も読めるのではないかと期待したのだが、そこまでの力は与えられていないようだった。
「仕方ないわ。そもそも、読み書きができない子なんて、珍しくも無いわけだし。」
そう呟いてはみたものの。リアネスは、司書の娘である。
近衛兵長の息子は読み書きよりも先に剣の握り方を覚えていたし、山伏の娘は弓の作り方に詳しかったが、リアネスは同年代の誰よりも読み書きを得意とし、十三にして写本の製作を手伝うほどであったのだ。
その自分が取り柄の文字を奪われてしまうというのは、いかにも心細い。
(いつか、誰かに教えてもらおう)
うじうじしていても始まらない。まずは、第十二大陸へ渡る方法を探ってみよう。文字を頼れないなら、会話で頑張る他ないじゃないの。
部屋に二つある扉のうち、寝台から遠い方について、床の汚れ具合から屋外に通じるものとあたりを付ける。リアネスはもう一方の比較的小さい扉に身を寄せると、その向こう側を探るべく耳をそばだてた。
「…純粋に、綺麗だと思ったよ。つるはしの先から光の粒が噴き出したと思うと、自分の顔を貫通して外に向かっていくんだ。横穴を出た途端、夜空に散って、どこまでも飛んでいくのをずっと見て居られた。」
男の言葉に、うんうん、と相槌を打つ女の声がする。
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大地の奥底では、巨大な力が逐次生み出されているという。これを地表に届ける道が竜脈であり、その表出先として選好されるのが大水晶であるというのが古宗教の教えであった。
夜になると淡く光る崖を見つけたのは七年前、つまり、イルアンが連絡船に乗せられる一年ほど前のことだ。試しにつるはしを振るってみれば、掘るほどに光は強くなる。好奇心のままに三日三晩掘り続けたイルアンは、ついに光が粒となって飛び出てくる岩盤を掘り当てたのだった。
「もう、びっくりしてね。」
慌てて大人たちを連れて来たが、現場まで足を運んでくれた父を含め、不思議なことに光の粒など見えないのだという。
「ここまでなら、その後の不幸には繋がらなかった。よくある子供の戯言と片付けられてしまえば、それで良かったのかもしれない。」
風向きが変わったのは、その数日後だった。突然崖が崩れて、奥から魔水晶の大鉱脈が姿を現したのだ。
「神童だなんだと祭り上げられて、俺も悪い気はしなかった。だが、供物だけ受け取って恩恵を与えない神というのは、すぐに憎悪の対象に変わってしまうものらしい。」
その日からイルアンは、欲深い大人たちに連れられて山々を巡ったが、ついに次の鉱脈を見つけることはできなかった。やがて『神童』の力で儲けてやろうと考えていた者たちの損が確定すると、彼らの告げ口でもあったのか、今度は人心を惑わした異端者であるとして罪を着せられてしまった。
「これは崖が崩れた後に現れた横穴の奥、竜脈溜りにあった魔水晶だ。」
イルアンは懐から濁った水晶を取り出すと、卓上に置いた。一瞥して、セテが目を丸くする。
「あなたの部屋に掛けられていた水晶じゃない。なんでこんな濁ったものを大事にしているのかと思っていたけど。」
「ああ。地底からの竜脈がこいつを中心に発散していたんだ。その過程で、常識では考えられないほどの力がこいつ自体にも凝縮されていた。」
海を渡るときに、全部使い切ってしまったけどね。苦笑して、イルアンは続けた。
「俺たちが第十二大陸に戻るには、これと同じくらい力を秘めた何かが要る。この謎の球から出ている糸を辿れば、あるいは…」
ガタリ。
背後でなった音に、イルアンは言葉を切った。ゆっくりと診療室への扉に近づき、一気に開く。
「起きたのか。」
扉からきっかり二歩下がったところで、茶髪が碧眼を丸くして小さく頷いた。
しまった、と顔に書いてある。
「中央大陸では、盗み聞きが流行っているのかな?」
イルアンの量るような問いに、少女はやや早口に答えた。
「何か、怖い話をしているかと思って。私、無一文だし、返せるものも無いし。」
最初イルアンは何を言われたかわからず首を傾げたが、ややあって「ほう、ほう」と頷いた。
「リアネス、君は俺たちを買いかぶりすぎだよ。極寒の中で死にかけている女の子を前に、人買いへの売値を考える。それが出来るとしたら、そいつはとてつもなく冷静で頭が良い奴だね。」
あっさりと踵を返したイルアンの後ろから、セテがひょこりと顔を出して微笑んだ。
「要は、安心しろって言ってるのよ。さあ、こっちへいらっしゃい。熱を診てあげる。」
優しいセテの手招きに応じて、リアネスは部屋に入った。イルアンを回り込むように足を運ぶと、卓の上が目に入ってくる。
水晶が並んでいる、そう思ったところで、
「あ、あ、」
声が先に出た。思考が、後から追いついてくる。視界に入った、青い球体。
「エマーヴァの、翼。」
背を向けていたイルアンが、ぐるりと身を翻して目を覗き込んでくる。
「知っているのかい、これを。」
こくり。
一つ頷いて、リアネスは飛竜の翼が球体に変えられるまでの様子を語り出した。




