雑音
クーガが港にたどり着く頃には、すでに人集りができていた。人の波を掻き分けて最前列まで辿り着くと、自警団の男にそれ以上の接近を止められてしまう。桟橋に右舷の腹を擦り付けるようにして沈黙している大船には、桟橋の支柱から無数に伸びた綱が掛けられている。
と、綱の一端を持った男が船上から降りてきて、叫び声を上げた。
「ああ、クーガさん!良かった、こっちです!」
その声を盾に自警団の腕をすり抜けると、ようやくクーガは船体に触れられる位置まで来ることができた。フェンガルという擦れた文字を指先でなぞる。大陸の南端、港町メイザスにある有名な船大工衆の名だ。
「できるだけ船体を立てて沈むのを防ぐ方向に綱を張っていますが、浸水は続いています。このままでは、一刻と持たないでしょう。」
そう言って男は桟橋の支柱を登り、綱を強く引っ張りながら頂点近くに結びつけた。船体の傾きが心なしか緩和されたようにも見える。
「まずは、穴を塞ぎます。乗組員はどちらに?」
係留担当は、人集りの最前列で呆然と座り込んでいる二人の男を指差した。クーガは彼らの前に立つと、
「穴の位置は判りますか。」
単刀直入に問う。悠長に自己紹介などしている暇は無いのだ。
「わ、わからない。気づいた時には船が傾いていて、船室に水が上がってきてたんだ。いつの間にか、目の前に空が広がって…し、死ぬかと思ったんだ。そしたら船長が…船長?船長はどこだ?」
「なるほど、わかりました。」
クーガは乗組員たちに謝意を伝えると、渡し板を伝って傾いた甲板へと駆け上がった。今は綱の力もあって平衡を保っているが、浸水当初は前に空が見えたとのことだったから、穴は船尾の方だろう。甲板から船内に降りる扉を開けると、階段の先に揺らぐ水面が見えた。そのまま降りていくと、すでに膝上ほどの高さがある。
「これは、急がないといけませんね。」
水位の上昇はゆっくりだが、この速度で船体全てが覆われるまで、沈没は待ってくれない。一定の水位を超えた瞬間、浮力が重量を支えきれなくなり、船は一気に沈む。クーガの感覚ではこの船の浸水具合は既に危険水位に達しており、綱で波止場に括り付けられていなければ既に沈んでいてもおかしくない。
(よく港まで辿り着いたものです。なんと強運で、頑丈な船でしょうか。)
微かに感じる水流を辿っていくと、船尾付近の左舷側に流入口がありそうなことは判ってきた。しかし、船腹の板裏から広範囲に染み出してくる海水は、小手先では対処のしようがない。いったん甲板まで戻ろう。この船の造りでは、外側から修理するほか無い。
「お、おい、出てきたぞ。」
陽光の下に戻ると、妙な騒めきがクーガを包んだ。ああ、これは、いつものやつだ。船と向き合おうとすると、幾度となく入り込んでくる雑音。
「クーガ、降りてこい!まったく勝手なことをしやがって、船が沈んだらお前のせいになるんだぞ⁉」
クーガは、いつもの早口も封印したままに渡し板を降りると、口うるさい親方達には目もくれず、衆目の前で着衣を脱ぎ始めた。
「お、おいクーガ!聞いているのか⁉」
慌てた親方達が腕の間をすり抜けて行くのを、もはや自警団たちも止めようとはしなかった。全裸になったクーガの元に親方達が辿り着き、その体を組み伏せるかに見えた、その時。
「邪魔するわよ」
どこからともなく声が響いた。クーガまであと数歩のところで立ち止まった親方たちが左右を見渡すと、その足元、海の中から大きな水の塊が飛び出して来て、クーガとの間に割り込んだ。
「な、なんじゃあ⁉」
思わず尻餅をついた親方の一人が抗議の声を上げる。咄嗟に身を退いていなかったら、水の勢いに弾き飛ばされて、海の中に落とされていたかもしれない。
衆目の集まる中、静寂を保っていた水の塊から雫がポトリと落ちた。それをきっかけに、球状の表面から滝のように水が流れ始め、中から鮮やかな水色の髪が姿を現した。
「お前は、最近クーガが連れ歩いていた子供…」
「リィザーレイよ。よろしくね。」
そう言いながら、振り向きざまに右手を薙ぎ払う。その動きに呼応するように、海から突き出た水の柱が、密かにクーガに近づこうとしていた別の親方の体側を打ち、今度こそ海の中へと突き落としてしまった。
「やり過ぎないでくださいね。」
呟くように言ったクーガに、リィザーレイはやれやれと首を振った。
「早く行きなさい。いつまで裸を晒しているの。」
クーガは小さく頷くと、最低限の荷と係柱に結んだ綱だけを持って海中へと飛び込んで行く。リィザーレイはそれを見送ると、桟橋の上に残された親方たちを振り返って不敵に笑った。
「あそこに、大陸一の船大工になろうとする者がいる。私はそれを、少し手助けしたいと思うの。」
「何を言っているんだ。あいつなんざ、大した仕事もできやしねぇ。この船を沈められでもしたら…」
親方たちがクーガを連れ戻そうと上着を脱いだのを見て、リィザーレイはそちらに掌を向けた。すると局所的に盛り上がった海面が桟橋を襲い、一瞬にして人々の膝下を水中に沈め、その引き波は器用にも親方たちの上着だけを攫って行ってしまう。親方たちは上着を取り戻そうと慌てて海へ飛び込んだが、あまりの水の冷たさに早々に諦めて桟橋の上に戻ってきてしまった。震える親方たちを前に、リィザーレイが言った。
「さあ、海の中で船の修理を手伝ってくれる人はいないかしら?」




