光の糸
不思議なものだ。
急いていた気持ちは、一度眠るとすっかり怠けてしまった。
隣人宅でしっかり惰眠を貪った青年が工房に着いたのは、日も中天に掛かろうかという時刻である。工房と言っても、水晶を加工する工具がそろっているだけの狭い小屋で、他に工員などは居ない。
「さぁ、やろうか。」
誰にともなく母国語で呟いて、作業台の上に件の青い球を据える。
透明度の低い、暗い青。
じっと見つめていると、その青がゆっくりと渦巻いているかのような感覚に包まれる。
イルアンは鑑定用の透明水晶を五つ取り出し、球体を囲むよう等間隔に置いた。水晶を鑑定する際は、このようにして他の水晶で活性化した上で素手で触れ、素性を観るのだ。しかし。
「ううん、反応してくれない。」
今回の鑑定対象である球体は光りもしなければ割れもせず、ただ周りの水晶を発熱させるだけで、一向に活性化される様子がない。
触れてみようか。
伸ばした手が、周囲の水晶が発した熱に慄いて止まる。震える指先を見て、魔水晶工は恐怖を自覚した。
「それでも、このまま蔵に入れるという選択肢はありえない。」
どんな風景が見えるのだろう。
イルアンは輻射熱で乾いた目をぎゅっと瞑ると、胸奥に息を溜めるようにして水晶の陣に手を伸ばした。
(どうせ止めたところで、止まるものでもないんでしょう)
セテの呆れた声が、どこからか聞こえたような気がした。
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指先の熱さに次いで、意識に入り込んできたのは浮揚感であった。
(これが、この球体の記憶)
空を駆ける喜びが、自身の感情のように流れ込んでくる。その生々しさに、イルアンはこの球体が元は生物であることを直感した。
さらに一層意識を奥へと進めると、今度は空が赤く塗りつぶされたようになった。
怨嗟。傷つけられたことに、この者は強い怒りを覚えている。
浮力を失った彼は、地表に浸みるように地の底へ沈んでしまった。
この球に宿っていた命が、終わった。
すると、無数の小さな光点が目前の球体から流れ出して、別の場所へ向い始めた。
それは集合し、一本の光の筋となって浮かび上がってくる。
「…どこに向かっていくんだろう。」
噛り付くように光の線を辿った先に、イルアンは巨大な光球を見出だした。
球体から発せられたのは、安堵の意識だ。この光こそ、目前の石が還るべき場所なのだろう。
「この球は、あの大きな光の一部でしかないのか…ぅわっ!」
目眩によろめいて椅子から落ちかけた拍子に、イルアンの意識は工房に舞い戻った。
直前まで目を閉じて集中していたせいで、眩しさに慣れるのに時間が掛かる。額に浮かんだ汗を腕で拭い、薄目で窓からの光を確かめた。
部屋の中ほどまで、西日が射している。
「…昼前、だったよな?」
ひどく頭痛がするし、無性に喉が渇いて仕方が無い。イルアンは水を一杯飲み干すと、視線を陽だまりに落として記憶の空白を測った。ざっくり、三刻は経っている。
「…まずは、いつも通り鑑定書を作ろう。」
自分に言い聞かせて獣皮紙と筆を卓上に並べると、少し気持ちが落ちついた。
目の前には鑑定前と変わらず、五つの水晶の中心に囲まれた深青の球が佇んでいる。まずは外観を描写して、次いで鑑定中に見た光景を可能なだけ再現させよう。
「赤い空、地の闇、白い糸」
回想しながら目を閉じると、ぼんやりと白い光が蘇ってくる。そう、この細い糸を辿った先に、大きな光球が…
「ん?」
違和感があって、イルアンはパチクリと瞬きをした。しかし、やはり気のせいではない。
目前の球体からは、確かに光の糸が伸びていたのだ。工房の北隅に据えられた水晶から出ているそれは、壁を貫通して外へ…
慌てて工房から飛び出して光を追いかけると、あっという間に村の出入り口にまで来てしまった。門代わりになっている大岩の裂け目からは、昨夜来往復した『霧の母』への畦道が伸びている。
湖畔のどこかに終着があるのか、あるいは湖を超えたさらに奥まで足を延ばすことになるのか。いずれにしても、これを追うには数日掛かりの旅支度がいる。
いったん、引き返そう。
と、その時。
村の外から戻ってきたセテが、こちらに気づいて手を振ってきた。
昨日は一日中走り回っていたはずだが、今日もまた村外へ採集に出ているとは、実に活動的な少女である。イルアンは肩をすくめて呆れ顔を作った。
「誰かさんのおかげで、鎮静用の薬草が切れちゃったからね。これは、行商が来るまでの代用。」
そう言って、いかにも怪しげな木の根を掲げて見せる。
第一大陸に渡った直後こそ金銭で薬草を調達することに抵抗を感じていたセテも、最近は随分と行商を頼るようになった。
この寒い大陸は草木の成長が遅く、村の薬師として役目を果たしながら収集できる範囲では、すぐに採りつくしてしまうのだとか、なんとか。
「で、こんなところで何をしているのかしら。もうすぐ日が暮れるわよ、お寝坊さん。」
セテは軽く首を傾げるようにして方向転換を促した。しかし、セテが横を通り過ぎて村の側に立っても、イルアンはじっと北東を見つめて動かない。
「イルアン?」
「明日から、この光の行先を探ってみようと思う。何日間か家を空けるけど、心配はいらないよ。」
「光?」
「ほら、これさ。例の青い球から流れ出ているんだ。強弱があるから、流れ出ているように見える」
怪訝な顔をしたセテの前に、布袋を掲げて光線を見せてやる。が、
「光ってないわよ?」
そう言って、セテはぐるぐると袋の周りを回るように顔を動かした。幾度となく薄い色の瞳を光線が貫いたが、セテは気にする素振りすらない。
「え、見えないの?」
困惑するセテの眉根に揺り動かされて、イルアンの脳裏に古い記憶が浮き上がってくる。自分にしか、見えない光。
「セテ、本当に見えないんだね?」
「ええ、なぁんにも。」
念押しの言葉に金髪が頷くと、イルアンは布袋を懐にしまって顎に手を当てた。
「…これと似たものを見たことがある。より正確に言えば、この他人に伝わらない感じを、以前にも味わったことがある。」
セテが、はっと眉を上げて応じる。
「それって。」
「そう。俺が連絡船送りになった原因さ。水晶鉱脈を見つけた時、うっかり『竜脈』が見えたなんて言ってしまったばかりに、大騒ぎになってしまった。」




