悪名は無名に勝り、変人は悪人に勝る。
その桟橋は、巨大な木柱の対が等間隔に海底から立ち上がって骨組みを成していた。それを支えに横板が渡され、船がつけられる深さまで岸から歩いて来られるようになっている。柱はいずれも太く強靭だが、その高さはまちまちで、ところによっては遥かに見上げるほどの高さまで到達するものもあった。
ハヤキドに係留先を指定された旨を伝えると、桟橋で待ち構えていた男は丁重に舟を固定してくれた。
「クーガさん?ああ、知ってますよ、有名人ですからね。向こうに大きな建物が並んでいるでしょう。家の外壁に波の刻印があるのが、クーガさんの所属する船大工衆の事務所です。」
先ほどのハヤキドの反応といい、思いの外クーガという男は名が売れているらしい。
「大悪人だったりして。」
悪戯っぽく舌を出したリアネスに、セテが笑って応じた。
「だとしても、町に埋もれているよりはマシだわ。このデーフィって町、たぶん一万人は下らない。ご隠居は『行けばわかる』とか言ってたけど、今は迷っている時間すら惜しいもの。」
悪名は時として無名に勝る。連絡船の出航までは、あと二十日もない。当日に頼み込んで乗せてもらえるような船でも無いし、各年で多少日程が前後する可能性も考えれば、出航の十日ほど前には第一大陸最南端の港町に着いておきたいところだ。
「クーガに舟を渡しがてら、メイザスまでの所要日数を確認しよう。それで、今後の計画が立つはずだ。」
イルアンの言葉に頷き合い、一行が町に向けて歩き出した、その時。
「おぉい、そこの人たち!」
桟橋の付け根から、両手を広げてこちらに駆け寄ってくる男がいる。短く切りそろえられた金色の髪に、日焼けの無い肌。無精ひげを生やしたその顔は歓喜に浮かれ、だらしなく鼻水を垂らしている。
「え、ちょっと、やだ…」
リアネスは露骨に嫌悪感を示して、ティックと共に年長者の陰に隠れた。ああいう不審者は、セテにあしらって貰うのが一番だ。狭い桟橋の上で、不審者と接触するまでには幾拍も掛からなかった。
「俺たちに、何か?」
相手が速度を緩めたのを見て、イルアンが機先を制した。金髪の男は更に三歩進んで止まると、肩で息をしながら叫ぶようにまくし立て始めた。
「あの舟は、例の毛むくじゃらな御仁に貰ったのでしょう?いえいえ、言わずともわかりますよ、見間違うはずもない。あの材木、あの造り!あの舟はまさしく、十年前に姿を見せたきり戻らなかった、かの御仁の手によるものに違いありません。ああ、何たる僥倖!何たる運命!やはり、このクーガに竜脈は微笑んだのだ。ああ!」
そう言って、その三十代前半か中頃の男は、開いていた両腕を自身に巻き付けながら恍惚の表情で悶え始めた。
「こいつぁ、悪人じゃねぇな。…変人だ。」
ティックの耳打ちに、リアネスは鳥肌を立てながら頷いた。危険だ。この人の近くにいると、何かに巻き込まれたり、連れまわされたりする気がする。
「ねぇ、この人がクーガさんなら、早く舟を渡してしまいましょうよ。」
リアネスが背中越しに小声を上げると、イルアンも軽く頷いて賛意を示した。
「あなたが、クーガさん?だとすると、俺たちが探している相手と同じ名前なんだけど。」
「いかにも、私こそが船大工のクーガです。この大陸一の腕利きを自称しております。ああ、敬称は要りませんよ、そもそもあだ名みたいなものですから。」
色々と引っかかるところのある自己紹介であったが、突っ込むと長くなりそうなので放っておく。
「あなたの言う毛むくじゃらな御仁に、港へ着いたらクーガという人へ舟を渡すよう言い遣っている。引き取りについて相談したい。」
「なんと、遂にあの舟が私の手に。遂に…!」
おおお、と、クーガは両目から大粒の涙を流し始めた。そんなに貴重なものかとイルアンが困惑していると、セテが進み出て問いを具現化した。
「ねぇ、クーガ。あの舟ってそんなに欲しがるような物なの?ただの丸太を組んだ舟にしか見えないのだけど。」
クーガは頭を振りながらセテに向き直ると、再び早口でまくし立て始めた。
「ただの丸太ですと?とんでもない!あの大きさの木を水に浮かべて乗ってごらんなさいな、あっという間に沈んでしまいます。あの丸太は、このあたりで採れるどんな木材よりも軽く、それでいて適度な強度がある。船作りには持ってこいの木材なのです!初めてこの舟を見た時からずっと探しておったのですが、遂にこの木が生えている森は見つけられず。ようやく再訪してくれた時に聞けば、かの御仁は北東の方からやって来られたという。私もその言葉通りに岸に沿って北東へ船を向けましたが、等身大の川狸が暮らすという集落は、今日まで見つけられておりません。それから私は、再び彼が訪れてくれるのを今か今かと。ああ!」
セテとイルアンは目を見合わせて首を傾げた。
「あら、それはおかしいわ。私たちでも二日でたどり着いたのだから、あなた方の持ってる船なら、もっと簡単に到達できるように思うけど。」
セテの指摘に、クーガは想定内だとばかりに指を立てた。
「かの御仁も、何も特別なことなどしていないと言っておりました。しかし、北東に進んだ船は二刻と持たず霧に巻かれてしまうのが常なのです。どんなに沿岸を進もうと意識していても、知らぬうちに元の港の方へと進路が変わってしまっている。あの御仁と、あなた方を除いて、この町より北東側で進路を失わなかった者はおらぬのですぞ。で、私は、この舟にその秘密を解く鍵があるとみている!」
イルアンは顎に手を当てて俯いた。確かに、川狸の河口を出て間もなく薄い靄に包まれ、丸一日ほど進んだように記憶している。それが霧の母に立ちこめている、人を惑わす霧と同じような性質を持っていたのだと言われれば、否定できる材料はない。
霧の母のそれはナユタが外界との接触を断つために作り出したのだろうが、同様の術師があの集落に居たとでも言うのか。あるいは、元々そういった現象があったのを参考にナユタが術式を組んだのか。考えてみれば、この雪深い第一大陸にあって、あれだけ草木の豊かな土地が全く知られていないと言うのは不自然な話ではあった。
「さて、どうしたものか。」
クーガに舟を渡した場合。この港町の人間が、川狸の集落や、ひいては大樹の泉にまで到達する可能性が出てくる。大熊や朱の審判たちが黙ってはいないだろうが、それでも河口の川狸たちは棲家を追われてしまうだろう。あの一帯に乗り込むならば、港は例の河口をおいて他に無い。
ご隠居は、その危険を判っていて彼に舟を譲ろうとしているのだろうか。
もう少し、考える材料が欲しい。
「川狸の御仁、俺たちはご隠居と呼んでいたが、よく彼が舟を譲ろうと思ったものだな。よほど熱心に頼み込んだと見える。」
イルアンの言葉に、クーガは首がもげんばかりに頷いた。
「ええ、娘の面倒を見てくれた礼に、何か欲しいものは無いかと聞かれましたので、是非この舟をと。この木と構造がいかに素晴らしいかを判ってくれたのは、私が初めてだったと仰っていましたよ。まったく、川狸どもは見る目がありませんな。」
なるほど。ご隠居が舟を渡す約束をしたのは、二回目の訪問時だ。その時はまだ、クーガは北東の霧による挫折を味わっていない。純粋な舟への好奇心が、ご隠居の心を動かしたのだ。だとすると、まさか舟を渡すことが棲み処を危険に晒す一穴になろうかなどと考えてもいなかっただろう。
セテとイルアンはクーガに背を向けると、リアネスを交えて小声で話し合った。
「これ、渡しちゃって良いのかしら。先々になって後悔する気配がするんだけど。」
「そうなんだが、舟自体はここにある。乗って河口に戻るわけにもいかないし、どうにか処分しないと。」
「分解して燃やしてしまったら?」
「それは名案だ、リアネス。しかし火種を用意しているうちに、クーガに阻止されてしまうだろう。何より、魔鯨の娘について話を聞くまでは、彼との敵対は避けたい。」
ううん、と頭を抱えた三人を尻目に、クーガは早速舟に乗り込んで細部の構造を愛で始めている。時折り聞こえてくる「ふふふ」という孤独な笑い声に、セテは肩をすくめた。
「クーガは最初、この舟の材料と構造に興味を持って欲しがっていたのよね。素性の知れない相手に渡ったら、それこそ北東への探検道具以外の使い途が無いけど、彼なら冒険さえ諦めさせれば良い持ち主になるんじゃないかしら。実際あの辺りは危険だし。あ、今度は木目をなぞって打ち震えはじめたわ…」
三人に目を向けられているのにも気付かず、クーガは舟に這いつくばって体をくねらせ、表面の感触を楽しんでいる。まるで木目を体に転写させているような腰使い。
「朱の審判たちの恐ろしさを伝えて、河口へ向かうのは諦めてもらいましょう。きっと彼は、舟を手に入れただけでも幸せだわ。」
「そうかな。冒険が目の前にあったら、人はそれを諦められない気がするけれども」
大真面目に顔をしかめた水晶工に、セテが苦笑して言った。
「誰でもあなたと一緒だと思わない方が良いわよ、イルアン。普通は、危険と利益を天秤に掛けるものなの。」
イルアンは「そういう物か」と口の中で呟いたものの、まだ納得しきれない様子で俯いてしまった。その時、リアネスが飼っている腹の虫がぐぅぅと鳴いた。
「もう昼ね。今日は久しぶりに寝台で休めるかしら。」
「まずは薬屋に行って、薬草を換金するところからね。その金額次第で寝台の広さと柔らかさが変わるわよぉ。珍しい植物も多いから、すぐに値が付くか不安だけどね。最低限、メイザスまでの旅費を何とか確保しないと。」
あれと、これと。指折りしながら皮算用を始めたセテを見て、リアネスは手元に金目のものが無いかと荷をあさり始めた。力を失った光と風の水晶片、魔女の館で猫から買った本、水袋、携帯食。どれも売り物としては不適当なものばかりだ。と、その時。海の方からまた「ふふ、ふふふ」と不気味な笑い声が聞こえて来た。声の主は、今度は櫂に頬ずりしそうな勢いで木目を見ているようだ。
「ねぇ、セテ。あの舟、まだ私たちのものよね。」
「ええ、たぶん。」
セテの答えに、リアネスは青い瞳を悪戯っぽく光らせた。




