罪と罰
遺構に架けていた橋代わりの板は昨晩のうちにイルアンとセテの二人で設置したものだから、撤去することも難しくはなかった。
退路を断たれた六匹の幼い川狸たちは、一斉にキィキィと耳障りな声を上げ始めた。数匹が水に飛び込んで泉の淵まで泳いでみるが、やはり水位が下がって剥き出しになった土面をよじ登ることはできず、すごすごと遺構の上へと戻って行ってしまう。
やがて逃げられないことを罠に悟った川狸たちの敵意は、彼らと共に遺構の上に残されたティックに向けられた。前歯を剥き出しにした川狸たちが、前後左右から取り囲むように迫ってくると、ティックは焦る様子もなく崩れかけた遺構の屋根によじ登り、後ろ足で立ち上がって眼下の川狸たちに朗々と言った。
「悪いが、おいらも抜けさせてもらうぜ!」
次の瞬間。全身に緑色の光が満ちるや、ティックは破裂音と共に暴風を纏って上空に舞い上がった。呆然と見上げる川狸たちを尻目に、そのまま遺構から泉の淵へと飛行する。着地の際に舞い上げられた砂埃が目に入ったイルアンは、目に涙を浮かべながら苦笑してティックを迎えた。
「ナユタはもっと静かに飛んでたぞ。」
「あれは飛んでるんじゃない、浮かんでるって言うんだ。おいらは風で体を持ち上げることしかできないけど、これだって大変なことなんだぜ?さっきも言ったとおり、とても人間の重さなんて持ち上げらない。」
ティックの目配せを受けて、セテが頬を膨らませた。
「はいはい、重くて悪かったわね。これでも人間の中ではだいぶ軽い方なんだけど。」
計画ではティックだけが遺構に上陸するはずだったのだが、必要に迫られてセテも同行することになってしまった。自分も風の力で脱出できないかというセテの耳打ちに、ティックは全力で首を横に振ったのだった。何とか機転を効かせて抜け出すことができたものの、一時はどうなることかと気が気でなかったものだ。
「さて、あいつらが簡単に逃げられるような術を持っていないかが心配だったが、どうやら考えすぎだったらしい。そうなると、リアネスの案に沿って動くことになるな。」
そういって首を巡らせると、湖畔を回り込んで戻ってきたリアネスが、少し離れたところで木の枝を水面へと垂らしているのが見えた。イルアンが近づいていくと、少女は頬を緩めて言った。
「あのね、村を出てから今まで、イルアンやセテと比べて自分は無力だなって思っていたの。魔狼の言葉を通訳できたときは、これが、獣と意思疎通することが自分に与えられた役目なんだって思ったわ。でも、勘違いだった。そのあとは、フェイヴェも、ねずみも、川狸も、何を言っているのか全然わからなかった。じゃあ、私がここにいる意味は何?」
リアネスの垂らした枝に、一匹の川狸が疑いの目を向けながら泳ぎだしてくる。少女は木の枝の先を水面に付けて、誘うように波紋を付けてやった。
「とりあえず、獣との交渉役は譲りたくないなって思っちゃった。意地っぱりなのよ、私。言葉はわからないけど、どうにか考えていることを伝えなくちゃ。そう割り切ってみたら、フェイヴェのひなが親鳥と話していたのを思い出したの。あれは間違いなく、これまでの出来事を伝えて再会を喜んでいた。そうよ、私が川狸の言葉をわからなくても、自分で説明させれば良いんだって。私の案を聞いて、二人が喜んでくれて。もう、自分でもよくわからないくらい嬉しかった。」
川狸が、枝の先端をつかんでよじ登ろうとする。それをリアネスは器用に釣り上げると、用意してあった布であっという間に目隠しをしてしまった。
「さあ、この子が今回の通訳よ。」
川狸は前歯をむき出しにして手足をじたばたさせたが、目隠しが取れないとわかると大人しくなった。
「リアネス、俺もセテも君がいなければ、とっくに大熊に喰われてしまっていたぜ。ネズミから逃げられたのだって」
「そういうことじゃないのよ。ね、リアネス。」
イルアンの言葉を、セテが片手をあげて遮った。そしてリアネスに向き直ると、目線をそろえるように膝をつく。
「楽なことばかりじゃないわよ?」
「わかってる。だから、二人よりもずっと多く考えるもの。そこだけは負けないようにする。」
リアネスの決意に、セテは頷いて微笑んだ。
「これは自分の役目だって思えることがあるだけで、人はとても落ち着いた気持ちになるわ。あなたは、それを見つけたのね。」
リアネスは笑顔で頷いて、イルアンに通訳の川狸を差し出した。
「なんだ?」
「重いものを持つのは、私の役目じゃないわ。」
ティックが風笛で囃し立て、セテは思わず噴き出した。
「…承ろう。」
力仕事を任されることも、一つの居場所なのかもしれない。そう思いながらも、イルアンは眉間に寄ったしわを解くことができなかった。
「あんまり待たせないでよ。」
セテは、ここで見張りだ。矢の先に布を巻いて殺傷力を削いだものをつがえて、万が一脱出に成功しそうな個体があれば射落とすことになっている。通訳を手に入れた一行は、手を振って遺構の泉を後にした。
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二人と二匹が川べりに戻ると、朝日を反射していた水面が一瞬でその輝きを止めた。半球の上で周囲を警戒していた数十頭の川狸たちが、一斉に川へと飛び込んだためである。
「風笛で起きた川狸の中には、残った子もいたものね。大体何があったかは、伝わってしまっているんでしょう。」
むしろそれくらいの意思疎通が成り立っていないと、今回の作戦が破綻してしまう。そういう意味で、目の前の警戒感満載の光景は歓迎すべきものであった。
やがて岸にずらりと並んだ川狸は、明確な敵意をもって一行を出迎えた。喧噪の中、リアネスは川狸たちの前に進み出ると、抱えていた通訳代わりの捕虜から目隠しを取り去ってやった。視界が戻るなり通訳はキィキィと鳴き声を上げて足を暴れさせ始めたが、
「動くな。」
イルアンが短刀を取り出して横に立つと、通訳の個体も周囲の成体たちも、一斉に静まりかえった。刃物の危険性を、正確に把握している反応。やはり、この川狸たちは人間と同等か、あるいはそれ以上の認識能力を持っているに違いない。
「あなたは、話していいわよ。」
リアネスが背中を押して促してやると、そこから通訳の長い演説が始まった。時折周囲から質問と思しき声が上がるが、今度はイルアンもそれを止めない。やがて何匹かの川狸が姿を消したと思うと、やがて魚や木の実を抱えて戻ってくる。どうやら、こちらの優位は正確に伝わったらしい。計画通りだ。
「欲しいのは、食い物じゃあ無いんだ。」
手のひらを突き出して不要であることを伝えたが、物品を提供することで子供達を返してもらおうという意図が読めたことは収穫である。イルアンは正面の川狸を押しのけて川べりに立つと、手近な半球を指差した。
「ティック、行ってくれ。」
困惑する川狸たちをよそに、川に飛び込んだティックは瞬く間に半球の影に入り込んだ。しばらくして半球の内側から風が舞い起こったと思うと、そよ風を伴った丸太舟がゆっくりと進み出てきた。
「私たちは、あれが欲しいの。」
言葉が通じるわけではないが、リアネスの意図は伝わったらしい。川狸たちはイルアン達に背を向けて円陣を組むと、ほとんど顔を突き合わせるようにして議論をし始めた。丸太舟を岸に付けたティックが上陸してきて、イルアンに耳打ちする。
「この舟、使い物にならねぇかもしれねぇ。」
「どういうことだ?」
「底が妙に尖っていて、浅瀬があるとすぐに引っかかっちまうんだ。岸までもって来るだけでも一仕事だったぜ。」
イルアンはまじまじと舟を検めた。なるほど、無人の丸太は風にあおられるたび不安定に傾き、扱うのはだいぶ難しそうである。怪訝に思って川狸の円陣を振り返れば、いつの間にか獣たちは活力を失い、伏し目がちにぼそぼそと会話するばかりになっている。
そうしてイルアン達が見守っていると、円陣の端にいた一頭が周囲の目くばせを受けて立ち上がった。そいつは一瞬イルアンと目を合わせたと思うと、躊躇うことなく川へ飛び込んで舟を川べりから押し離してしまった。
「えっ?」
思わず声を漏らしたリアネスだけでなく、イルアンも、ティックも思わず口が開いていた。これは、仲間を犠牲にしたとしても、舟を渡すことはできないという意思表示に他ならないではないか。円陣を解いた川狸たちは、諦観したようにじっとこちらを見ている。
交渉決裂か。
そう思ったイルアンが川べりから一歩後退した、そのとき。リアネスが抱えていた幼い川狸が、突然叫び声をあげ始めた。必死に首を前方に突き出し、何かを伝えようとしている。その視線の先にあるのは、下流側に向かおうとする先ほどの丸太舟だ。
「イルアン、あの舟、出てきた場所に向かってないわ。」
二人が川に向かって歩き出したのを見て、川狸たちが道を空ける。と、
「あっ」
突然胸元から上がった甘えた声に、思わずリアネスの腕が緩んだ。通訳替わりの子供は後ろ足でリアネスの腕を蹴ると、川狸の列へと駆けていく。
(しまった、川の方に注意を取られてしまったわ)
すると列の方から二匹が駆け出してきて、子供を挟み込むように体を擦り付け始める。家族なのだろう。三匹は振り返ることもなく、そそくさと群れの中へとまぎれてしまった。
「ねえ、イルアン。私いま、あの親子が振り返って、牙を剥けば良いのにって思ってたのよ。可笑しいわね、恨まれたい訳じゃないのに。」
これでは、盗人のようではないか。リアネスは、代償を支払うことに救いを求めていたことを自覚した。
(誘拐犯が、今さら何を善人ぶっているのかしらね)
そう思いながら、リアネスの目には熱いものが込み上げて来る。子供を盾に取ったという悪事は、報いを受けること無く、ただ心の奥底にゆっくりと染み込んで行く。これを、私は背負って生きていくのか。誰も、責め立ててはくれないのか。
自分の中の純粋で美しいものが、涙となって、こぼれ落ちていく気がした。リアネスはそれを一滴も逃すまいと必死に手に溜めてすすり上げたが、ただ惨めさが増すばかりで、喪失感はちっとも消えなかった。




