熱に浮く夜
湖畔からの帰路には、駆けつけたときの四倍は時間が掛かった。
谷間にある村の門代わりになっている大岩をくぐるころには、とうに夕焼けは西の空で眠りについている。
イルアンの背に負ぶわれた少女は、結局一度も目を覚まさなかった。
「熱が上がってきたわね、悪いことじゃないけど。」
薬師であるセテの仕事場に落ち着いた一行は、急患用の寝台に少女を降ろし、体を拭き上げ、着衣を換えてやった。
「良い所の娘さんだわ。大事にされていたでしょうに。」
肉付きと肌艶から育ちを見立てたセテに、イルアンも頷いた。
「着衣も、このあたりでは珍しい南方の素材で編んだものだ。その娘さんが、どうしてあんなところに放り出されていたのか。そして…こいつだ。」
寝台の端に、力を秘めた球を置く。直接触れることが無いよう、球の下半分は皮袋に収めたままだ。
この青い球のことは道中で聞かされていたものの、セテが実物を見たのはこの時が初めてだった。
「今朝の異常な活性化がこの石による物なのかは判らないけれど、途方もない力を秘めているのは間違いない。もしかしたら、俺たちは故郷に戻る糸口を掴めるかもしれないよ。」
目を輝かせたイルアンに、セテが深く頷く。
第十二大陸。
二人の故郷は遥か遠く、南方の海を越えた先にあった。いつか一緒に戻ろうと誓って六年。日々を送る中で難しさを実感するばかりだったが、二人はついに好機を得たのかもしれない。
「ううん…」
寝台から上がった呻き声に、二人は同時に振り返った。
ゆっくりと開かれた目は、セテに行き、イルアンに止まり、そのまま流れて、腰の横あたりに置かれた石に落ち着いた。固唾を飲んで見守る二人をよそに、少女はたっぷり時間をかけて考えを練り、訥々と言葉を紡いだ。
「助けて、貰えた。」
覗き込む二つの頭が頷くと、ふう、と息を吐いて茶髪を揺らす。
「ありがとうございます。私は、リアネス。中央領域司書の…いや、なんでもないわ。」
中央領域。その単語に、イルアンは背が粟立つのを感じた。
今いる第一大陸と隣接している大陸は、二つだ。北端から更に北東へと船を向ければ第二大陸が、南端から南へ海を渡れば第十二大陸がある。これはイルアンたち自身の出自からしても、疑う余地は無い。
しかし。
目前の少女から飛び出した単語は、それよりもう一段伝説感の強いものである。
「中央領域の司書とはまた、ずいぶんと具体的な。」
呟いて、セテを見る。薬師は困ったように微笑むと、
「暖炉は朝まで持つわ。明日は昼過ぎまで診療所は開けないから、安心してお休みなさい。」
リアネスの胸元まで毛布を引き上げ直して、瞼に手を添えて降ろしてやる。間もなく少女から健やかな寝息が立ち始めたのを見て、年長者たちは揃って欠伸をした。
「ふわぁ…工房に、行ってくる。」
あの球の素性を確かめねばと、イルアンは目をこすって外套を着こんだ。昨夜から気を張り続けている疲れは感じていたが、この謎をそのままに床に就くことなどできない。
(あ、これ、潰れるやつだわ。)
セテは血走った目をした隣人をじっと見つめると、薬棚から小瓶を取り出して差し出した。
「イルアン、試しにこれを飲んでごらんなさいよ。」
「これは?」
「気付けの味と、鎮静の香りが合わさってる薬湯。薬師は、長時間診療を続けるときはこれを飲むのよ。薬師が倒れたら、救える者も救えなくなってしまうから、そうならないように自分を試す。あとどれくらい頑張れるかを自分で決めるのは、とても危険なことだから。」
イルアンは軽く頷くと、小瓶を勧められるまま飲み干した。ピリリと眉の上がるような刺激が舌を伝い、続けて蒸した芋のような甘い香りが鼻腔に広がる。
「ん、あれ?」
かくり、と膝が折れて、気づけばその場であぐらをかいている。
眠…
何か言っているセテを振り返ろうとしたが、叶わない。そのまま腕を下敷きに床に伏せるのが精いっぱいだった。
「…まあ、こうなるわよね。余裕のある時に飲めば、むしろ活力が湧くのだけど。」
毛布を引き出して来て、寝転がってしまった水晶工に掛けてやる。やがて二人分の寝息が絡み合い始めると、セテはそれに応じるように呼吸を深くし、ゆっくりと眠りの世界へ混ざって行った。




