見えている範囲の、一番遠く。
気まぐれの祟りで、この地から村へと強制送還されるのだという。実際そうなれば願ったり叶ったりではあるが、目前にいるのはひねくれの魔女だ。手放しで喜んだりすれば、気が変わってしまうかも知れない。そう思ったイルアンは、不遜にも魔女の力を測ろうと試みた。
「それは困るな。苦労してここまで来て、俺たちは結局何も手に入れていない。せめて、あと一日猶予があれば、今度こそ水晶を手に入れてみせるのに。」
すると魔女は面白そうに、イルアンの顔を覗き込んだ。
「おや、今度は帰りたくなってしまったのかえ。人間の心というのは実に目まぐるしいの。少し光があれば、すぐにそれを辿ろうとする。面白くないぞい。」
そう言って、最後に「こんな感じでどうじゃ」と笑ってみせた。
(これは、だめだな。何を言ってもお見通し、と。)
イルアンは、そう直感した。先ほどまではずっと、明日になったらどうやってあの大熊を出し抜くかを考えていたのだ。そこに垂らされた、帰還の誘惑。おそらく魔女は、イルアンの機微を完全に捉えている。そう、今この瞬間の葛藤さえも。
「ソウマが主らのために無理をしたと言ったが、どうも最後は命を救い返されたという。そうなると、ちと祟るには理由不足かも分からんの。」
考えが頭の中を回って言葉にならないでいると、あっという間に強制送還の話が無くなってしまった。ナユタは数拍ほどイルアンの言葉を待ったが、いまだ考え込んでいるのを見て言葉を継いだ。
「ついでに、主らはフェイヴェの雛まで守り通したという。」
「フェイヴェ?あの、朱翼の大鷹のことか?」
「いかにも。本来あれは大樹の守り手だったのじゃが、まさかネズミどもに巣を追われるとはな。今では随分と数が減ってしまった。そんなわけで、多少わらわとしても主らを労いたいと思うておるのじゃ。さ、遠慮せず何とか言うてみい。」
イルアンは引き続き時間をかけて思考していたが、やがて諦観したように苦笑した。
「どうした?」
「いや、さっきあなたが言った通りだと思ったのさ。たった今望んでいることなんて、所詮は見えている範囲の一番遠いところに過ぎない。少し違うところに光が射せば、すぐに望むことなど変わってしまうんだ。そして会話というのは、自分にとっての新しい光を分けてもらう機会でもある。その相手が自分より知識や経験があるなら尚更、ね。だから一周回って、今あなたの前で望みを考えることの無意味さを感じてしまった。あなたの見ている世界には、きっと俺が知らない光がたくさんあるんだろう。」
幼い顔をした魔女が、口を曲げて眉を寄せた。
「お主、若いのにずいぶんと擦れているというか、ひねくれておるのう。小さい頃、可愛くないとか言われんかったか?」
「ナユタ…様には、言われたくないな。」
「全くじゃ。」
ナユタはそう言って、カカっと笑った。
「しかし残念だ。この会話が終わったときに俺が心から望んだことがあったとして、それは叶えて貰えないんだろう?あなたはそういう人だと、リアネスから聞いている。」
「さてな。そう期待を裏切るよう期待されては、話が変わるかも知れんぞえ。」
売り言葉に、買い言葉。それがあまりに子供じみていたから、イルアンはふっと笑って警戒を緩めた。この魔女が本気になれば、自分などいつでも殺すことができる。そんな相手に慄いていたところで、何の足しにもなるまい。何より目前の魔女は、ナユタは、名目上は望みを聞きに来てくれているのだ。
(しかし、いざ考えてみると魔女に望むものというのは出てこないものだな。)
好意を向けられているとはいえ、大した恩を売ったわけでもない。海を渡るのに付いてきてもらうとか、はたまたリアネスの語る闘争に首を突っ込んでもらうとか、そう言った時間の掛かることを頼むのは厚かましいだろう。そうなると目下の問題である、大熊をどうにかしてもらうと言うことになるのだが。
「本当は、ただ苦労がしたいだけのかもしれない。」
しばらく考えた末、イルアンは、そう口に出した。
「ほう?」
ナユタの目が丸くなって、好奇心に溢れるのが判る。そうだ、今の俺の心を読むことなどできまい。俺自身、必死に考えながらしゃべっているのだから。
「村に戻って人を連れて来ていては、連絡船に間に合わない。そう聞いて少しほっとしたんだ。これで俺たちが世界を救うためには、たった三人ぽっちであの大熊を何とかしなくてはいけないと思ってね。この困難を乗り越えれば、俺たちはきっと英雄として長く語り継がれることになる。世界がどうなっても良いと思っているわけじゃないけど、俺がここまで来れたのは、案外そんな安っぽい自己顕示欲が原動力だったりするんだな。と、今思い至った。」
ナユタは目を斜め下に落として、後頭部を掻いている。
「…赤裸々じゃの。むず痒うなってきたわ。」
「何を言っても裏側まで読まれるんじゃ、考えた先からさらけ出すしかない。」
「ふふ、違いない。そなたがわらわを避けておったのは、恐怖からでは無かったようじゃな。いま、わらわも腹に落ちたわ。はぐれ狼のように自己顕示欲に塗れた、哀れな男よ。」
微笑んだナユタは、イルアンの額に手を当てた。リアネスから聞いていた、名当ての術だ。
そう、予期してしまったのが、魔女の気に障ったのかもしれない。
「イルアン・スヴェナ、か。」
目が飛び出しそうになる驚きを、何とか方眉が跳ね上がるところで抑え込む。
「後半は、意味のない響きだ。この大陸で、その名を知る者は一人もいない。セテにだって、」
「イルアン」
焦るイルアンに、ナユタが勝ち誇ったように顎をしゃくった。
「隠し事は無意味じゃと、先ほど自分で言うておったでな。」
そう言って手を引っ込めると、ナユタは崖縁に立って猫と魔狼を手招きした。全身から、淡い光が滲み始める。
「行ってしまうのか。」
名残惜しむように、イルアンが漏らした。それが面白かったらしく、ナユタが歯を見せて笑った。
「もう二刻も話しておる。お主はわらわの手出しを心底嫌っておったようじゃが、残りの二人はわらわと会いたがっておるからの。起きてくる前に退散するわい。」
ナユタの足が地面を離れ、猫と魔狼がその両脇に続く。
「さて、水晶工にして、未来の英雄たらんとするイルアンよ。わらわに何を望むか、決まったかの?」
これは、叶わない望みだ。そう判っている。だが、それを口に出すことは、不思議とイルアンにとって大切なことに思えた。
「ソウマと、もう一匹の魔狼、それにフェイヴェの協力が欲しい。彼らと共にあの大熊に立ち向かい、水晶を手に入れるんだ。あと、足も治して欲しいな。先頭に立って走るのは譲りたくない。それ以上は、手出し無用だ。」
魔女が、微笑んだ気がした。
「細かいことを言う奴じゃの。」
ナユタの身体から放たれていた光が球状の結界となり、中が見えなくなる。強くなる光に耐え切れず目を閉じた。そのわずか数拍の間に、瞼の向こうで光源が急速に遠ざかっていく。
「明日は、日の出を待たず仮宿を発つことじゃ。早起きは、竜脈に愛される。」
脳内に響いた言葉に目を開けると、そこにはもう、元の暗い森しか残っていなかった。




