火柱の向かう先
打ち付けた手元から高音が発した。それから数拍遅れて、火水晶の中心部から何かが膨張するような威圧感が迫ってくる。
(こっちに、来るなっ!)
高音に応じて瞬時に活性化した、台座代わりの風水晶。白く輝くそれに左手を沿えて、イルアンは力の向きを捻じ曲げるよう強く念じた。にわかに巻き起こった暴風は瞬く間に小さく鋭く結集し、火水晶の割れ目からその中心部へと滑り込む。火水晶の全面に走ったひび割れはその風を吸い込み続け、漏れ出す赤い光を強めて行く。
蓄えられた力が弾けたのか、風圧が爆発したのか。
来た。
そう思った瞬間には、判別がつかなかった。どんと体の前面に衝撃を受けて、イルアンは宙に吹っ飛んだことを自覚する。空中でもがきながら視界に捉えたのは、一直線に南の空へ延びる、荘厳な火柱だった。
「なんて、強い…!」
思わず見とれたイルアンは、受け身も取れず地面に背中から叩きつけられた。
「ぐ…ってぇ。」
何とか体を起こして足元を見れば、先ほどまで居た位置が五歩分も遠くにある。体中に、細かい水晶の破片が突き刺さっている。だが、
(まだ、動ける…!)
五体満足で、火水晶の力を開放しきったのだ。賭博師イルアンは、一つ目の勝利に心中で口笛を吹いた。
「イルアン!無事!?」
「…ああ!」
リアネスの声に叫び返すと、イルアンは首を大きく振って散らばった台座代わりの風水晶を回収に掛かった。目ぼしいものだけを背嚢に放り込み、即、先ほど目を付けておいた根に向かって走る。
呆然と火柱を見つめていた大熊と魔狼も、イルアンが動き出したのをきっかけに我に返ったように争いを再開した。火柱が徐々に細くなり、消える。あたりには元の薄暗さが戻り、さらにそこでとどまらず、闇の濃さを増していく。上空を振り仰ぐまでもない。イルアンは口笛をもう一つ、今度は音を立てて宙に放った。
「水が来るぞ、逃げろ、逃げろ!」
半狂人と化した青年は、走りながら高らかに笑った。他にどんな感情も浮かんで来ない。もはや間に合うかどうかを考える余裕も、その必要もない。目の前の細い退路に全力を傾ける他に、選択肢など無いのだ。
後ほどリアネスから聞いたところによると、大熊の爪が顔の横を通り過ぎても気づかず、リアネスの呼び掛けにも答えず、不気味に笑いながら戦場をすり抜け、件の根に飛びついたのだという。我ながら、いざとなると周りが見えていないものだ。
『上、水!』
根に達する寸前、リアネスの吠える声が聞こえた。声の切り方で、なんとなく単語二つと判る。上、水とか、水、来るとか。そんなところだろう。距離をとったのか、魔狼と大熊の方から聞こえていた争いの音がぴたりと止んだ。
そうだ、いかにかの巨獣たちと言えども、この大樹の幹には傷ひとつ付けられやしない。俺も、お前たちも、ただこの大樹の気まぐれに耐えられるかを試されるだけだ。
「竜脈が導くままに」
水底へ降りるか細い根を掴んだイルアンはそう言って、直上を走る比較的太い根を屋根に見立てて下に潜りこんだ。
(雨宿り、と。)
これから降りてくる水量は、雨などと言う生ぬるい水量では無いが、これで直撃を避けられないか。魔狼が首を上げ、盛大に吠えたと思うと、ついに大熊に背を向けて走り出す。大熊はそれを追いかけることもなく、頭を守るようにその場にうずくまった。そうだ、あの大熊ですら、この水量を叩きつけられれば無事では済まない。
パラリと足元に水滴が落ちたと思った、次の瞬間。
水の塊が、上から降りて来た。水位が上がっていくなどという悠長な現象では無い。水の中に、一帯が丸ごと取り込まれたのだ。頭上を根に守られたイルアンの周囲は、一瞬だけ水に飲まれるのが遅れる。狙い通り、そう思う間もなく、濁流は左右から回り込んでイルアンの頭上までを覆い尽くした。
濁流の渦中を、細い根をたぐって水面へと向かう。何とか根を千切らずに最上部まで辿ると、意を決して手を離し、泳いで太い根の上を目指した。泥が舞い上がった水中はとても目を開けられるような状況では無かったが、イルアンはこれを幸いだと思った。この泉の捕食者たる怪魚たちもまた、この視界の悪さは同様なのだ。
「っはあ、はあ!」
水上に出て、根の上側へとよじ登る。顔を洗って目を開けられるようになると、そこには先ほどまでの澄んだ泉の面影はなかった。赤茶色に濁り、怪魚たちの動く気配もない。泉の出口たる南の川へ目をやれば、水面が揺れ動くのに合わせて、濁水が大きな音を立てて流れ出して行っている。その壮大な光景に、イルアンは思わず息を呑んだ。
(泉の真ん中に大樹が生えたんじゃない。水が落ちる範囲が窪んで、あとから泉ができたんだ。)
泥だらけの衣服を可能な限り絞ると、イルアンはよじ登った根をつたい、ついに南岸へと生還を果たした。朱の審判の影響か、火柱の影響か。大ねずみ達の気配は無い。
「イルアン!」
川の下流から、セテが駆けあがってくる。
「すまない。せっかくの水晶を割ってしまった。」
薬師が飛びついて来て、びしょ濡れのイルアンに抱擁を与える。すぐに患者の背嚢を受け取り、左の肩を差し出して、負傷した足が地に付かないようにする。
「さすがに、手際が良いな。薬師の嗜みってやつで。」
「軽口はいいから、隠れ家へ戻るわよ。命があっただけでも、良しとしないと。」
最後に振り返ったイルアンが見たものは、大樹に向かって恨めし気に吠えるずぶ濡れの大熊と、水面に浮かんだ仲間の死骸を喰らう怪魚たちの姿であった。ソウマの姿は、見えない。無事に逃げられていれば良いが。
「結局、収穫無しか。」
イルアンはそう呟いて、絶望の泉に背を向けた。




