聞かなくても良いこと
夜明けと共に崖を下る。
先に進むにつれて足元の雪は薄くなり、やがて青々とした下生えが覗き始めた。
「暑くなってきちゃった。」
リアネスは外套を脱いで、イルアンに差し出した。まるでこのあたりだけは、中央大陸の春に覆われているかのようだ。
「これも竜脈の力なのかしら?」
「ああ、間違いない。」
地中を巡る光の筋は、複雑に絡み合いながら一点へと集約していく。その光の向かう先には、件の大樹がそびえ立っているのだ。
「竜脈が捻じ曲げられているとか、そういう感じはしないな。むしろ不足しているというのが疑わしくなるくらいだ。」
圧巻だよ。そう言って大地から離した右手には、しっとりと水分が付着していた。
やがて木々にも緑の葉が茂り始めると、周囲に獣の気配が立ち込め始めた。飛び交う虫、折れた藪、遠く響く鳥の声…それらは一行にとって糧であり、危険の源でもある。イルアン達は岩窟や登れそうな木を見つけては、いざという時の集合場所を少しずつ更新しながら進んだ。
「鹿か何かの足跡だけど…全然姿を見せてくれないわ。まあ、無理もないけど。」
地面を調べていたセテはそう言って立ち上がり、上空を旋回する怪鳥を見上げた。不満そうな薬師の横で、雛鳥がクククと喉を鳴らす。
この先に巣があるのか、はたまた、ただの気まぐれか。
この雛鳥と保護者はすっかり旅の随伴者となっている。獣たちが姿を現さないのは、時折天から降り注ぐ甲高い鳴き声に恐れをなしているに違いないのだ。
「人間の狩りが成り立つのは、見かけの強さと、実際の殺傷力に差があるからだって、故郷の長老が言ってたわ。」
空の覇者たる朱の翼はあからさまな強者であり、隣り合わせの死を連想させた。
狩りは、諦めよう。
弓を小刀を持ち替えたセテは、イルアン達に踏まれる前の野草を摘むべく先頭に立った。その歩調は何もしていない時よりも寧ろ速いほどで、リアネスなどは追いつくのに必死になる。
「なんだか、ご機嫌じゃない?」
リアネスは息を切らしながら、隣を行くイルアンを振り仰いだ。青年は感慨深そうに顎に手を当てて、薬師の採集を眺めている。
「セテは元々、光すら射さないような深い森で育ったんだ。第一大陸でこんなに緑豊かな森は無かったから、久しぶりの緑が嬉しいんだろう。」
「ふうん」
セテを見つめるイルアンの目は、穏やかで優しい。リアネスはちょっと羨ましくなって、つい、水を差してみたくなる。
「セテのこと、好きなの?」
イルアンが優しい光を湛えたままの目で、リアネスの目を覗き返してくる。それは、わずか数拍の沈黙。しかしそれが続くに連れて、リアネスの中に『やらかした』という念が生まれ、育っていく。やがて気まずそうに視線を切ると、後ろからぽんと頭に手が乗ってくる。
「察しが良いな。」
その声は寂しそうでもあり、どこか懐かしむような色を帯びてもいる。
「聞かなくても良いことを、聞いたみたい。」
イルアンは首を振ると、荷物を背負い直して笑った。
「良いさ。必要なこと以外で口を開かなくなったら、誰もが同じことしか言えなくなってしまう。俺も昔、セテに聞かなくて良いことを聞いた。その結果はどうあれ、ね。」
そう言ったイルアンの顔は妙に清々しくて、リアネスは思わず目を背けてしまった。
連絡船の出航まで、あと十八日。




