庇護の残滓
イルアンたちが見守る中、親鳥は雛を翼で囲み、やがて全身から白い光を放ち始めた。すると、弱々しかった雛の声に、僅かばかりの生気が戻ってくる。光が収まって翼が開かれると、中から這い出してきた雛が、一歩、二歩と進んで、駆け寄ったセテの腕へと潜り込んだ。
「…さっきより、火傷が軽くなっている。」
ひとしきり雛をまさぐり倒して、セテはそう結論づけた。リアネスが興奮して叫ぶ。
「奇跡、いや、魔法だわ。朱の審判は、魔獣だったのよ!これからは、飛竜や黒獅子、双頭蛇の解説の横に、朱鷲も並ぶことになるんだわ。大発見よ!」
しかしイルアンは、我が子を見下ろす怪鳥の視線に確かな悲しさを感じていた。火傷は深く、親鳥の力を持ってしても治しきれなかったのだろう。怪鳥はわずかに鳴き声を上げると、早く行けとばかりに尾羽を振っているように見える。
イルアンは、鉄梃から手を離して怪鳥に背を向けた。
「なあ、リアネスは魔法に詳しいのか?俺は、さっきのを入れても片手の指で収まるくらいしか見たことがないんだが。」
イルアンの沈んだ声に戸惑いながら、リアネスはううんと片手で頭を抱えた。
「ほとんど毎日のように見てはいたのよ。親が魔術師の子が友達に居たから、その練習相手になったりとか。」
雛が、違和感のある歩き方のまま、親鳥の元へと戻っていく。イルアンに視線を向けられて、セテがゆっくりと首を横に振った。少しでも助けようとしているのか、親鳥が雛の足回りを突き、舐めまわしている。
「どうしたら、助けてやれる?」
イルアンの問いは明快だったが、専門家でもないリアネスが答えるには、だいぶ難しい。
「治癒魔法は、自分の体に蓄えられた竜脈を、相手に渡すのが基本なんだって。だから重症の相手を治療しようとすると、すぐに自分が空になってしまう。もう、あの親鳥は空っぽなのよ。」
親鳥はなおも雛を舐め回していたが、やがて意を決したように再び翼を閉じて、雛鳥へ治療を施し始めた。そしてまた雛の足回りを舐め取っては、治療を施すことを繰り返す。何度も、何度も、繰り返す。
「…見てられないな。」
イルアンは、目元を手で覆った。
治療の効果は最初に見たものが最大で、二回目以降は雛の体調に明確な変化は見られなかった。それでも親鳥は、雛の足元を気にしては治療を試みることをやめない。親鳥の白い光は徐々に弱まっていき、ついに、翼を閉じても何の変化も起こらなくなった。
そのとき。
「セテ?」
薬師の少女がすっと立ち上がり、背嚢の中をガサゴソとあさりはじめた。
「ああ、やっぱり破れてた。」
そう言って腹の破れた小さな皮袋を取り出すと、穴を抑えながら親子の方に数歩進んだ。ためらうように振り返ったその目が、リアネスに止まって揺れる。
「あなたが受け取らなかったのだから、私の好きなように使うわよ。」
そう言うと、両手で抱えた小さな皮袋を親鳥の前に差し出して、中身を地面に盛った。あれは、
「翼水晶の、残滓…!」
良いのか、と問うように、親鳥がセテの前で頭を傾けた。その嘴を撫でながら、セテは言った。
「きっと貴重な素材よ。だから、ちゃんと治してあげて。」
鳴き声と共に親鳥の舌がぐりんと伸びて、巻き取るように粉末の山をこそぎ取った。数拍を経て、 翼の内側に白い光が脈動し始める。親鳥は再び雛に覆い被さると、これまでよりも強く、長く、治癒の光を雛に与えた。やがて翼の中から漏れ始めた元気な鳴き声に、セテはほっと息を吐いた。
「良かったねぇ。」
親鳥の翼が開くと同時に、雛がひと跳びでセテの胸へと飛び込んでくる。あまりの勢いに押し倒されて、セテは泣き笑いしながら雛を抱きしめた。
「ねえ、あの子。ちょっと大きくなってない?」
雰囲気に呑まれたリアネスが、セテの邪魔をしないように小声でイルアンに耳打ちした。
「言われてみれば。」
弱々しかった足元は皮が張り裂けんばかりに膨れ上がり、目は少し切れ長になって鋭さを増している。
「…大丈夫か?」
地面から起こしてやろうとセテの背に手を当てると、雛は翼を広げてトン、とセテの上から飛び降りた。そのとき翼の先に一瞬見えた赤が、イルアンの網膜に焼き付いて仕方ない。改めて見直せば、なるほど『朱の審判』の雛である。しかし、つい先ほどまでは確かに無邪気な羽毛玉でしかなく、親鳥の面影からは程遠い生き物であったのだ。
「私たちが竜脈とか魔力とか呼んでいる力が、翼水晶の粉には残っていたのね。」
セテが背嚢の底に残っていた僅かな粉末をイルアンに差し出して、そう言った。右手で受け取ったイルアンが、左手に移し、地面に撒いて改めて右で触れてみる。しかし。
「駄目だね、何にも判らないや。俺に与えられた力は、大地を流れる力を見ることしかできないみたいだね。実際にこの粉で、朱の審判は魔力を補給したとしか思えないけれども。」
セテが背嚢内に残った粉末をはたいて出してしまうと、雛が嬉しそうにつつきに来る。一心に大地を捉える姿に、セテが何かを思い出したように眉を上げた。
「ああ、これ、一緒だわ。」
「一緒?」
「大雪虎よ。あれも、飛竜の血を舐めていた。それも、あんなに人里近くまで降りてきて。」
朱の審判、ひねくれの魔女、大ネズミの群…色々あり過ぎて遠い昔のことのように感じるが、そう言えば全ては大雪虎に湖上へ追い立てられたのが始まりだった。今思えば、飛竜の血を舐めていた大雪虎は、不足していた何かを補給していたのかもしれない。そして。
「魔力の補給を終えたところを朱の審判に襲われて、仕舞いには魔女の館で敷物にされてしまった。しかも、血を抜き取られたみたいな姿でね。てっきり魔女が血抜きをしたのだと思っていたけれど、そうじゃなかった。魔力に満ちた虎の血を、さらに朱の審判が吸い上げたのよ。」
セテの推理に、イルアンとリアネスは思わず目を見合わせた。竜脈を通して旅を振り返れば、いくつかの異常現象に説明が付く。気づけば三人は、誰からともなく東の大樹に視線を移していた。
「なんで今になって、人里近くまで来て竜脈の奪い合いが繰り広げられているのかしら。もう長い間、大陸の奥地でやり合っていたのに。危うく死んでしまうところだったわ。」
リアネスのこぼした愚痴を、イルアンとセテは問いとして受け取った。奪い合いの強者である朱の審判ですら、魔力に餓えている。つまり、絶対量が足りていないのだ。
「まさか、中央大陸の工作員がこの大陸にも入り込んでいて、既に竜脈を弱める作業に取り掛かっている、とか。」
イルアンが首を傾げると、セテが息を吐いて微笑んだ。
「それ、この子たちが黙っていると思う?」
振り仰いだ先で『グガァア』とたくましい声が響く。いかに訓練された戦士であろうと、この怪鳥の爪を掻い潜って水晶まで辿り着くのは至難の業に思えた。
「たどり着いて呪符か何かを貼るくらいなら、やってのける奴もいるかも知れない。リアネスは、六部族たちがどうやって竜脈を曲げようとしているか、知っているかい?」
ええと、確か。そう言いながら、リアネスは耳をつまむようにしてマイキーの言葉を引っ張り出した。
「数十人規模の魔導士で陣を組んで、大水晶に流れ込む竜脈の流れを大地の奥底からへし曲げる。そうすると防護も弱まるから、再び竜脈が集まって来ないように大水晶自体も砕く。海を渡れる工作員はごく少数だから、彼らは目的の大陸に着き次第、まず仲間集めから始めないといけない。ゆえに、我々は多少遅れても間に合うのだ、だったかしら。」
低い声の男を真似たリアネスの言葉に、セテが腕を組んで頷いた。
「小型の飛竜ではたどり着けないこの大陸で、こんなに早く工作が始まっているとは思えないわ。じゃあ、他の何かが。」
三人は大樹を観察し続けながら議論を続けたが、やがて『ぐう』とリアネスの腹が鳴った。天上の泉を発ったのは真昼頃だったが、気づけば既に日が傾き始めている。幸いなことに、目の前には大量の新鮮な肉が転がっている。
「ねずみの丸焼きと、ねずみの姿焼き。どちらがお好みかしら?」
セテの微笑に、空腹のリアネスが目を輝かせて応じた。
「いちおう聞くけど、どう違うの?」
「生きているときの姿で焼くのが、姿焼きかしら。皮を剝がないで焼くから、毛が焦げちゃうかもしれないけど」
セテが提示した二択は威勢の良いものであったが、結局、三人の夕食はどちらにもならなかった。火水晶を使い切ってしまった都合、一頭を丸ごと覆うような大きな火を維持するのが難しく、細かく切り分けて良く炙る他なかったのだ。火打ち石から火花が飛ぶと、少し離れたところから怪鳥の親子が警戒の唸り声を上げてくる。
「大丈夫。私たちは、森を燃やさないわ。」
セテがなだめると、怪鳥は首を地面に落として瞼を閉じた。恩人の振る舞い故、見て見ぬ振りを決め込んでいるようで面白い。森の守護者であるがゆえに火を嫌っているが、話が通じない相手ではない、というのが、セテによる朱の審判評であった。
「一度火水晶を使ってしまうと、もう火打石に戻りたくなくなるわね。」
とは、その面倒な火打石での着火を成功させたリアネスの談である。殊勲の少女は率先して、塩を擦り込んだねずみの肉を焚火にくべていく。
対峙していたときはあれほど大きく見えていたのに、いざ食べるとなると、ねずみ達は骨と皮ばかりで可食部は少なかった。三人と一羽を狩ることへの異様なまでの執着は、それだけ森の獲物が少ないことを示していたのだ。
「これは、ひどいな。」
ねずみの胃袋を開いたイルアンが、中からくすんだ石の塊を取り上げて眉根を寄せた。水晶のようにも見えるが、力はすっかり失われているようだ。胃袋以外の内臓は、用心深く熱して食卓に並べる。痩せているとはいえ等身大のねずみだから、一頭分を平らげたところで三人の腹は十分に満たされた。
セテが継続して二頭、三頭と切り分けて火にくべているのは、念願の保存用だ。村で作った燻製には劣るが、それでもこの極寒の中であれば数日は腐らずに持ち運べる。
「いっぱいになったわね。うんうん、これでもうしばらくは火を熾さなくて済みそうだわ。」
すっかり日が暮れるころ、リアネスが腕を伸ばして深呼吸した。イルアンとセテの背嚢に詰められた保存食は、必要と思われた二日分を遥かに上回る量だ。リアネスの水は戦闘の中で使い切ってしまったが、セテとイルアンの水袋には十分な余力がある。
「今日は、二人が先に休んでちょうだい。私、もう少しこの子たちとお話ししたいから。」
セテがそう言って、火の番を引き受けながら怪鳥の首を撫でる。
「明日は、ついにあの大樹に向かうのね。昨日までは、あそこに何があるかも知らなかったのに。」
張り切っているリアネスは愛らしかったが、敢えて水を差してやろうとイルアンが口を開きかけた、その時。
『グゥオオオオオオォォ』
闇を食い破る咆哮が、遥か彼方から響き渡った。森がざわめきたち、風が不気味な渦を巻く。その慌ただしい世界の中、ただ一つ怪鳥の首だけが、東を指して動かない。まるで、声の主が現れることを警戒しているかのように、体を強張らせて臨戦態勢を取っている。
「大丈夫よ、あんなに遠いのだから。」
怪鳥の首筋を撫でてやる自分の手が震えているのが判り、セテは苦笑を漏らした。
今はまだ、遠いけれど。
私たちは間違いなく、あの声の主と相対することになるのだ。




