食べられないために
四つ目の岩に上がったところで、ねずみたちの動きが変わった。二十を超える個体が、互いを踏み台にして上への足掛かりにし始めたのだ。壁沿いに並んだ個体が鳴き声をあげ、それに誘われたものたちが一気に縦に積み上がって行く。
「知恵が回るなぁ。およそ、ただのねずみとは思えない。」
集めた礫を投げつけていくらかの足止めをしたが、最初に登った踊り場がねずみで埋め尽くされるのを防ぐには至らない。歯を剥き出して威嚇してくるねずみたちを前に、イルアンは薬師を振り返って唇を噛んだ。
「ねずみ退治の薬なんて、無いよね?嫌いな匂いとか、何か。」
「あったらとっくに使ってるわよ。もっとも、普通のねずみ用で効くとも思えないけどね。」
「…なるほど、普通のねずみ、か。」
イルアンは鉄梃を荷から取り出すと、壁の隙間にねじ込んで力を掛け、崖から大岩の板を剥離させた。
「それを、どうするの?」
「普通のねずみなら、垂直よりもせり出しているような場所は、登ろうとしないかと思って。ねずみ返しってやつさ。」
イルアンの意を汲んだリアネスが駆けつけ、二人掛かりで下の足場上にせり出すように板を押して滑らせる。根本側に重し代わりの岩を並べてやると、なるほど、一行が登ってきた道をねずみが辿ることは不可能に思えた。
「先の方には乗るなよ。上から乗ったら、簡単に崩れるから。」
リアネスが興奮して言った。
「これで、逃げ切れるわ!」
しかしイルアンは、遥か下になった入口を崖縁から見下ろして眉をひそめた。入り込んでくるねずみの勢いに、変化が無い。まるで無尽蔵に湧き出ているかのようだ。
「最短距離は塞いだけど、すぐに別の道から追いかけてくるさ。後は、ねずみの群れがこの高さを登り切る規模に無いことを祈るばかりなんだけど…」
岩場を登るたび、踏み台代わりにされたねずみはその位置に固定されていく。普通であれば、いつかは次の岩場へ登るだけの頭数が不足するはずなのだ。普通であれば。
「イルアン、こっち!」
「どうした?」
振り返ると、セテが上の方を指さしている。指の先を辿ると、入り組んだ岩の先に、星明りが射しているのが見えた。最下段から見えた明かりは、これが滲んだものだったのだ。
(あと、少しだ!)
あそこにたどり着くまでに、果たして何匹のねずみを相手にすることになるのか。息を詰めたイルアンの肩に、セテがぽん、と手を置いて言った。
「今できることをやるしかない。そうでしょう?」
こんな時だというのに、セテは呆れるほど冷静で、笑顔を絶やさない。すぐに頭に血が上ってしまう自分とは対照的で、イルアンには、それが少し眩しい。
「…そうだね。そうだとも。」
イルアンのねずみ返しも奏功し、三人と一羽は追いつかれることなく最後の岩場を登り切った。星明かりが入り込んできていたのは、下の出入り口と同じくらいの幅を持った割れ目だ。イルアンが先頭になって外に出ると、崖下から吹き上げる風が前髪を乱してくる。眼下には、昨日まで歩いていた森と思しき闇。首を突き出して振り仰げば、崖上まであと体一つと言う高さまで来ていることに気づく。
「これならば。」
イルアンは二人と一匹を手招いて崖上に押し上げると、割れ目の周囲にあった僅かな足場を鉄梃で崩し、ほとんど腕力だけで自らも崖上に這いあがった。
「ああ、この道は、もう戻れない。行き返りの日数は、もう数えられないわよ。」
汗だくになって崖上に上がってきたイルアンに、リアネスが言った。イルアンは盛大にため息をついて、それに応じた。
「俺たちが、ねずみの餌になる所だったからな。リアネスは、奴らを食いたがっていたみたいだけど。」
あの壮大な群れを見た後では、どちらが捕食者であるかは自明であった。イルアンの声に含まれた棘の理由が判らず、リアネスが声を上げようとする。と、それを遮るようにセテが「ふあぅあ」と声を出して大あくびを放った。
「とりあえず、崖から離れましょうよ。風が冷たいわ。」
崖から少し離れると、雪化粧をした木がずらりと生えそろっている。こんな場所でも、豊かな土があるのだ。イルアンは、セテを一瞥して、
「日が昇ったら水場を探そう。もしあれば、だけど。」
そうして一行は、崖上の森へと分け入っていった。
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分岐に差し掛かったときは、方角が許す限り谷間に沿うような道を選ぶのが鉄則である。それは、山中を行くよりもなだらかで歩きやすい、水場を見つけやすいと言った種々の理由からなのだが、一行が朝を迎えた岩山の上は、その鉄則から最も離れた場所言って良かった。
イルアンは木に寄りかからせるように張った天幕から這いだして、見張りを務めていたセテの無事を確かめる。
「…暖かそうだな」
膝の上に置かれた青の羽毛を両手で抱えたまま、セテは静かに微笑んだ。
「だいぶ大きいけれど、まだひな鳥みたいね。見て、この柔らかいお腹。これじゃあ、到底飛べないわ。」
そう言って、雛の腹をぷにぷにと押し込める。雛はそれに気づく様子もなく、ぐうぐうと眠り続けている。
「セテ、こいつは連れていけないぜ?」
「うん。でも、もう少し安全そうな場所で離してやりましょう。」
抱きしめる手にセテが力を込めたのを見て、イルアンはやれやれと肩をすくめた。
「出会い方が違えば、俺たちにとっても良い食料になっていたろうに。頼って逃げ込まれると、かえって食べる気が起こらないもんだな。」
その言葉が聞こえたように、雛がもぞもぞと目を覚ました。そのままセテの膝から転がるように降り、不安そうにイルアンを見上げる。
「おや、本気で旨そうだと思ったのが、ばれてしまったかな。安心しろよ、お前を食べてしまったら、セテに恨まれてしまう。それは、割に合わないから。」
雛は縮こまった体を伸ばして、コロコロと鳴いた。その翼を撫でながら、
「だとしたら、今日中には離してあげた方が良いわね。」
いかにも惜しそうに、セテが呟いた。
「良いのか?」
「計算できなくなったとは言うけど、明日引き返し始めれば食料は持つと思っているでしょう?その時にこの子が居たら、リアネスは絞めたがるに違いないわ。」
イルアンは苦笑して頷いた。その考えは、確かにある。丁寧に探せば、崖下へ降りる道を見つけることは可能だろう。だから、リアネスが『計算ができなくなった』と言ったのは、少しでも先へ進みたいという強情の現れであって、確定した事実ではない。
「なんにしても、まずは水場だ。」
葉の落ち切った森の奥には、丘の頂点と思しき岩場が透かし見えている。が、幸いイルアンの感じる竜脈の方向は、その頂点に向かってはいない。
「登る必要が無い坂は、避けて通るのが一番だ。右の方から回り込んで、向こう側に出よう。」
そうと決めて荷を畳み始めた二人の横で、天幕から茶髪の寝ぐせが立ちあがってくる。
「んあ、おはよう。」
まぶしそうに天幕の裾を上げると、リアネスは寝ぼけまなこで呟いた。
「あ、お肉…」
イルアンとセテは、同時に手を止めてリアネスの視線を辿った。件の雛は、青い羽毛を震えあがらせて、『キャウ、キャウ』と鳴きながらセテの陰に隠れた。
「あ、その、違うのよ。ただ、お腹がすいたなあって。イルアン、干し肉ちょうだい。」
真顔のイルアンから肉を受け取ると、それを齧りながら雛を眺める。
「でも、その子も何か食べるのよね。私たち、分けてあげられるお肉なんてないわよ?」
リアネスにどこまでその意図があったかは不透明だが、もとより言葉を解さない雛からすれば『足手まといだ、いつか食べてやるぞ』という雰囲気がすべてである。慌ててセテにくちばしを擦り付けた雛は、その薬師が向けた憐れみの目に絶望の声を上げた。
「まあ、いざとなれば、ねぇ。」
『キャウゥ…』
どうやら、絶対的に自分を庇護してくれる存在と言うのはこの場に居ないらしい。雛は一行が荷を畳み終えるのを待って、高らかに鳴いた。
『キュゥオ!』
自分の身は、自分で守るしかない。決意の雛は、飛べもしない翼をぱたぱたと動かしながら、イルアンを追い越して先頭に立った。
連絡船の出航まで、あと十九日。




