リアネスの旅立ち - 勇者の、友の、その娘 -
喉のあたりから始まった震えが膝に伝わり、力が抜ける。そのまま座り込みそうになるところを、強い手で肩を支えられ、声を掛けられる。
「ここで腰を降ろせば、待っているのは竜の牙だ。死にたくなければ、気を抜くな。」
やっとの思いで頷き、体を支える。
足に力が戻ると、マイキーに背を押されて次の木へ、次の木へと必死に走った。飛竜の翼が風を切る音を何度も掻い潜り、十を超える木々を駆け抜ける。ついに遮るものが無くなって大樹の根本が見えたとき、リアネスは高ぶる気持ちを振り絞って叫んだ。
「おじさん、見えたわ!」
「…そうか。」
そのとき、背を押してくれていた力が、すっと弱まった。耳元に寒気がまとわりつくような、違和感。
「おじさん?」
風切り音がしたと思うと、それはリアネスの直前で衝撃音に変わり、マイキーは体を揺らして片膝を付いた。とっさに一つ前の木陰に転がって戻ると、マイキーの右足に二本の矢が突き立っている。
「な、いつから!?」
慌てて傷口に手を当てると、衣服越しにどろりとした感触があり、着衣の表側まで赤が染み出してくる。
「三本目の木に駆けたところまでは当たらなかったんだが、飛竜に気を取られてな。四本目に行くところで射抜かれてしまった。あの白装束の女、なかなか良い腕をしている。」
マイキーはそう言って、突き立った矢の中ほどに力を掛け、器用にへし折った。軽く膝を屈伸させ、動きを確認する。
「いいか、リアネス。ここから先に身を隠すところが無いのは、奴らも一緒だ。お前の背中は、俺が必ず守ってやる。」
そう言って、懐から飛竜の鱗を取り出し、リアネスの胸に押し付ける。
「行け。振り返らず、ひたすら駆けるんだ。エマーヴァと共に北の城塞へ入れば、きっと道は開ける。」
「おじさんは、どうなるの?」
マイキーは少し考える風にして、ニヤリと笑った。
「この程度の出血であれば、死ぬことはあるまい。走るのは厳しいが、捕まりがてらに奴らと共闘すれば、中型の飛竜から逃れることくらいはできるだろう。だから。」
そう言って、マイキーは立ち上がった。リアネスが止める間もなく、幹を回り込んで追手の前に姿を露わにする。
「出てこい。俺は、もう隠れるのをやめたぞ。」
マイキーが朗々と告げると、十人ほどの追手たちが木々の合間から姿を現すのが見えた。
「…死んだら、嫌よ!」
リアネスはマイキーの背中に小さく呟くと、追手に気づかれないよう、静かに、しかし急いで、中央の大樹へと駆けた。
『ケケッ』
飛竜たちは面白がるように鳴き声を上げたが、そのまま上空をくるくると旋回するばかりで、一向に降りて来る気配はない。
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振り返ったのは、一度だけだった。
リアネスの後ろ姿に気づいた追手の一人が、こちらを指さして声を上げたのだ。
(向かってくる!)
そう思った刹那、手負いとは思えない速さで進路上にマイキーが立ちふさがり、追手の腹に一撃して悶絶させるのが見えた。そのまま追手の体を盾にして、白装束の女に向かって手招きをしてみせる。
(行かなくちゃ)
そう自分に言い聞かせて、振り払うように大樹へと首を向けた。いつの間にかマイキーたちを取り巻く飛竜は十を数え、拳闘の試合でも見るかのように鳴き声を浴びせかけている。
(飛竜を、追手を、おじさんが引き付けてくれているうちに…!)
最初の張り出した根を踏み越えてから大樹の幹までは、実に五十歩ほどもあった。全力で駆けたリアネスは妨害を受けることもなく幹までたどり着いたが、束の間の安堵と共に込み上げて来たのは、強烈な焦りである。
「で、エマーヴァはどこにいるのよ!?」
周囲を含めて、大型の飛竜が隠れられそうな物陰なども無い。早くエマーヴァと接触しないと、マイキーの献身が無駄になってしまう。
「いたっ!」
落ち着きなく幹の周囲を水平に半分ほどを駆け回ったところで、リアネスは根につまづいて転んで鼻を打ち付けてしまった。
「もう、なんで根っこの間に隙間があるのよ!」
と、そのときふと、真夜中の森が脳裏に蘇ってきた。
(まさか…)
リアネスは冷静に幹から少し距離を取ると、隆々とした大樹の根が幾筋も地上に張り出しているのに気づいた。根と根の間にはところどころ隙間があり、その奥は暗く、良く見えない。だが、土が避けられたその独特の雰囲気には、見覚えがあった。
(不自然に形作られた、根っこの天井)
意を決して隙間に身を滑り込ませる。衣服の裾を破き、根を歪めながら進むと、なんとか期待した通りの広大な空間にたどり着くことができた。不思議なことに、根はその空間内に張り出しておらず、よく見ると出入り口と思しき光の窓が一方向にぽっかりと開いている。
それは大きさこそ違えど、昨夜転がり込んだ空間と酷似したものであった。
『グァアラァ』
暗がりで巨大な緑の目が光り、鳴き声が響いても、不思議と恐怖は無かった。それは、知的な色と響きだった。
(ああ、昨夜の空間は、小型の飛竜が営巣した後だったに違いないわ。)
ぼんやりと、そんなことを思った。
夢の中にいるような浮遊感と共に、闇に輝く瞳の方へと歩み寄ると、懐からほんのりと熱が上がってくる。淡く紫に光る鱗を取り出すと、露出された鱗はその熱量を一気に高め、表面の血をパラパラと風化させて大地に返した。本来の色を取り戻した鱗は徐々に熱を失い、純粋な光源となって瞳の主を煌々と照らし出す。
巨大な、青い鱗の飛竜だ。
体を丸めているから体高は判らないが、目前に降ろされた頭部だけで、既にリアネスの身長より大きい。
『グゥア』
たしかに、何かを語り掛けられた。それは判ったのだが、リアネスには飛竜の言葉が判らない。飛竜は一瞬寂しそうな色を瞳に浮かべたが、間髪入れずリアネスの持つ鱗を爪先で指し示した。
「…これ?」
リアネスが差し出した鱗に飛竜が触れると、鱗は青白い球体となって宙に浮かび、そこから発せられた光が空間を包み込んだ。光の中で、どこからともなくクレーベルの声が響いてくる。
『エマーヴァ、我が友よ』
それは聞いたことの無い言語であったが、不思議と意味を理解できた。光の中で、飛竜の耳が立つ。
『我が種の内部争いが発端で、周辺大陸の大水晶が破壊されようとしています。これを彼の地へ報せ、止める手助けをするため、信頼できる勇者を派遣したい。彼を助けてもらえませんか』
エマーヴァは、値踏みするようにリアネスへ視線を移した。
(いやいや、それ私じゃないから!)
『竜脈は、いつも私たちを繋いでくれています。また、会いに行きます。私の感覚ではだいぶ先になるとと思いますが、あなたの感覚では『近々』ということになるでしょう。』
クレーベルの声が消えると、球体は宙に浮いたまま光を失い、そのまま粉となって風に紛れてしまった。
巣の出入り口から差し込むわずかな光を集めているかのように、エマーヴァの目だけが爛々と闇の中で光り、リアネスを見つめ続けている。その圧力に後ずさりしそうな気持ちを抑えて、リアネスは逆に一歩踏み出しながら叫んだ。
「助けて。仲間が危ないの!」
自分の心音が聞こえる。目前の獣がその気になれば、その爪でリアネスの命など一瞬で抉られてしまうだろう。先ほどまでは気になっていなかった汗が額を伝い、頬に垂れてきた。飛竜は、瞬きもせずリアネスの全身をねめつけてくる。その視線を受け止め、真っすぐに返す。数拍ほど意地を張っていると、やがて飛竜が先に視線をずらし、
『グゥア』
と、小さく鼻を鳴らした。
(いま、笑った?)
リアネスが、そう感じた次の瞬間。目を閉じたエマーヴァの全身から、ゆっくりと淡い光が立ち昇り始めた。




