珍事の発端は。
島から離れて半刻も歩くと、三人はすっかり元気を取り戻した。
「もう、大丈夫ね。」
濃い霧の壁に囲まれた真ん中で、二人の患者に向き合ったセテが安堵の息を吐いた。霧に包まれている、という感覚になっていないのは、頭上には霧が存在せず、星が覗いていたからだろう。一行が歩みを止めれば霧の輪も動きを止め、一行が動き出せば再び霧の輪も動き出す。意思を持つかのような霧は気味が悪く、その不愉快さを打ち消そうとするように自然と口数が増えた。
「それにしても、地下で食べた猛烈に不味い豆は何だったんだ。初めて口にしたけど。」
決してたどり着かない十歩ほど先の白い壁を眺めながら、何度目かの会話にイルアンが誘った。
「あ、それ、私も気になってたの。もう思い出しただけでも吐き気がするというか。」
リアネスが待ち構えていたように声を上げる。暗い霧の中を歩くには、気晴らしが必要だった。
「…乾かした、黒蛇の糞よ。」
薬師に告げられた真実に、患者である二人は口をゆがめて目を見合わせ、やがて声を上げて笑いあった。
「知らなきゃ良かったわ。もう、今からでも吐きたいくらい。」
リアネスが舌を出して、嘔吐の仕草をしてみせる。その姿は、いかにも年相応の小さな少女だった。
(知らなきゃ良かった、か)
霧に沈む声は戻ってくることはなく、瞬く間に静寂が帰ってくる。
そうして何度か会話と静寂を繰り返すうち、ついにリアネスの足が上がらなくなった。もう、ずっと腰を下ろしていない。
「今日はここまでだな。館からは十分離れられただろう。」
荷を降ろし、氷の上で野営の準備をする。
毛皮の上に間隔を置いて荷物を配置し、天幕用の布を掛けて高さを出す。そこに身を寄せ合って頭から入り込めば、三人くらいならなんとか呼吸ができた。
足先が冷たいと駄々をこねたリアネスが入口を器用に折りたたんでみせると、毛皮と布の間にできた空間はすっかり暖かくなった。互いの汗が少し臭うが、この状況で文句を言う者は居ない。
「朱の審判は、夜でも火を目掛けて飛んでくるのかしら。」
明かりが直上に漏れないよう、イルアンは天幕の下でもなお上部を覆って光水晶を活性化させる。それを受け取ったセテは、さらに薄布を巻くようにして光を得た。天幕の外からあの巨大な猛禽類に啄まれるなど、想像したくもない。
「それについてなんだけど、少し引っ掛かっているんだ。」
「引っ掛かっている?」
頷いて、イルアンが布を押し上げるように指で天を突いた。
「セテも、俺も、これまで散々この湖の周りを歩き回ってきたし、野宿するときは焚火を当然のように使ってきたよね。だけど、これまで一度もあんな怪物に出くわしたことも無かったし、村の伝承にしても朱の審判と言うのは漠然としすぎている…つまり、数世代にわたって本物の朱の審判を見た者が居ないということなんじゃないのかな。それくらい、あの怪鳥が現れるのは珍しい出来事なのだと思う。」
二人に挟まれたリアネスが、おずおずと目配せをする。
「じゃ、じゃあ、もうしばらくはアイツに会わないで済むのかしら。」
そう言うことじゃない、と言いながら、イルアンはリアネスの頭を撫でた。
「なあ、リアネス。そろそろ、俺たちを信用してみないか?」
三人の頭の中間地点で、薄布を被った水晶が一瞬明るさを増した。少女の動揺が竜脈を通じて光を揺らしたことを、イルアンだけが把握している。
「伝説のひねくれの魔女に、朱の審判。大雪虎にしたって、こんな人里近くでの目撃事例なんて聞いたことも無い。そこに現れた、これまた伝説の飛竜に乗った女の子。さて、これはその少女が背負った使命とやらと無関係なのかな?」
薄暗がりの中でも、イルアンの目は強く、真っすぐにリアネスの心を射抜いてくる。思わず振り返ると、今度はセテと目があった。その微笑は優しいが、芯は硬く、ぶれない。
視線の逃げ場に困ったリアネスは、目を閉じてゆっくりと呼吸した。
ここまで、二人には沢山助けられてきた。どちらか一人でも欠けていれば、とっくにリアネスの小さい命は凍り付き、引き裂かれ、貫かれて消えていただろう。今やリアネスは、二人のことを信用し、信頼していることを自覚していた。
使命について語ったところで、身の危険はあるまい。
それはもう、判っているけれど。
「一晩、考えさせて。どこから話せばいいものか、まとめる時間が欲しいわ。」
いざ話そうかと考えた途端、リアネスの背を冷や汗が伝った。
(もしも、この二人を失ったら。)
今の自分にとって、使命を伝えることは全てをさらけ出すことに等しい。見定められ、見限られるかもしれない。その恐怖は腰帯に落ちて浸み込み、夜を通してリアネスの腹を冷やした。




