伝説の続き
乾いた鈴の音に、エマーヴァは目を開いた。
今度の気配は、リアネスのそれではない。数拍を経て内扉から現れた白髪の少女に、もはやエマーヴァは瞬きを隠さなかった。
『あー、まどろっこしいのう。狼の言葉を話すあやつを見れば、おぬしの言葉もわけなく通じそうとは思わんのかえ。』
言葉とは裏腹に、面白がるように微笑を浮かべている。実に白々しいが、エマーヴァはこの少女がその態度に値することを既に知っていた。
『これで、良かったのです。』
言語化した思念を乗せて、魔力を放射する。かの少女なら、これで十分意図を汲んでくれるだろう。
『私が氷の中で身じろぎでもすれば、きっとリアネスは何とかして私を助けようとする。しかし、それで手負いの私を連れ出したところで、あの子が背負った使命の役には立ちません。停滞の日々は、やがて大きな後悔に変わるでしょう。これで、良かったのです。』
体を覆う氷は、当初こそ密着して身動きを封じるようなものであったが、日を経るにつれてわずかな隙間が生じてきている。しかしエマーヴァは、リアネスを前に彫像と化すことを選んだのであった。
『しかし、童どもには困ったもんじゃ。補水晶の力を、たっぷり数年分も持って行きよってからに。』
左右の台座で退屈そうに寝転がった狼たちの大きさを戻してやりながら、少女はくつくつと笑った。
『矢のように、魔力が飛ぶのを感じましたが。』
『あんなものは、せいぜい数日分の力を放出しただけじゃ。本命を攫って行きおったのは、あの小僧よ。ずいぶんと補水晶に気に入られたと見える。かの水晶は我が魔力を軸に竜脈を結晶化させたもの故、その性格はわらわの思念をよく写しておるでな、その水晶が気に入った小僧とあれば、わらわも一目会ってやっても良かったのじゃが…』
高揚した様子で狼の首に手を回した魔女は次第に元気を失うと、やがて恨めしそうにエマーヴァをじとっと見つめた。
『おぬしが入れ込んでおる娘が、胸底でわらわに会いたがっておったのじゃ。もう、明確にそれとわかる雰囲気でな。この、果報者めが。』
『それは、まあ、何といえば良いか。申し訳ありません。』
魔女の子供じみた拗ねっぷりに、思わず苦笑の思念が魔力に混ざる。この少女の正体がエマーヴァの想像通りだとすれば、齢百をとうに過ぎたエマーヴァなどよりも、よほど年長であるに違いないのに。
『だ、れ、が、年増じゃと?』
その気になれば、容易く心まで読まれてしまう。沸き起こった純粋な畏敬の念は、頬を膨らませた少女の顔を複雑に歪ませた。
『請われて応じることは、許されんのじゃ。それは、わらわも、その生き写しの補水晶も同じ。じゃが、望んだ力だけが未来を拓くとも限らん。』
エマーヴァは、氷の中で頷いた。リアネスは魔女の書物を得、イルアンは竜脈を辿れるようになった。結果を見れば、自発的には望まれない、あるいは彼らの思いもよらない形で、この偉大な魔女は一行に好意的であった。
まどろっこしいのは、この少女の方である。そう、きっと――この迂遠さには理由がある。
『先ほど、初めてあなたの名前を聞きました。その狼が口走っていたので。』
じろり。
少女が振り返ると、青毛のソウマが腹を見せて降参の意を示した。
『ナユタ。我が故郷に謳われる古の巫女と同じ名を持つ、小さき魔女。』
もしも、彼女が本当にそれだとしたら。
『あなたこそ、良ろしかったのですか?』
大いなる力が一方に与することは、他方の反発を招き、戦乱の火種となる。竜神教の歴史の中でただ一人、意思を持つ巫女と呼ばれた『ナユタ』は、それを嫌って歴史の表舞台から姿を消した――伝承は、長い年月に揉まれて元の色を掠れさせていく。だが、それに続きがあるならば、きっとこの少女のような振る舞いをしているに違いない。
ナユタは「ふん」と鼻を鳴らすと、口うるさい飛竜の意識を暗闇に落としながら呟いた。
『かつて目を瞑った火種が起こした騒ぎじゃ。後片付けに肩入れするくらいは、理の内じゃろう。』
例えその結果、この平穏な暮らしが終わりを迎えることになろうとも――そう胸中で付け加えて、ナユタは寂し気に微笑んだ。
「さて、と。」
飛竜の思念が途切れてしまうと、ナユタは足元の干からびた大雪虎に目をやった。
「エマーヴァから聞いたとおりじゃ…フェイヴェどもが餓えるほどに、配分が絞られてしまっておるとは。」
小さい魔女は青毛のソウマを手招きすると、元の見上げるような体躯に戻してやりながら呟いた。
「あの気高い森の護り手は、わらわの助けなど求めてはおらんじゃろ。ゆえに、わらわは好きにできる。」
とん、と尻を押されたソウマの前で、外につながる扉がひとりでに開いた。紫を振り返って小さく吠えた青は、次の瞬間、風と化して館を駆けだしていった。




