譲れないもの、要らないもの
(折れる!)
飛び蹴りが水晶の先端に打ち込まれたと確信した瞬間、突然、リアネスは時間の進みが遅くなったような感覚に包まれた。
「あ、れ、れ?」
どうやら、足裏は水晶に届いていない。宙に浮いたまま、リアネスは軽く首を傾げようとした。
と、全身を襲う衝撃と共に、急速に時間が戻ってくる。
「っきゃぁ!」
突如、水晶の周りにあふれ出した青い光が、リアネスを弾き飛ばした。一拍遅れて、イルアンはその光が自身の懐にある翼水晶から発せられたものと気づく。
膨大な魔力。
その最後尾までがリアネスを目掛けて流出し、瞬く間に翼水晶は灰色の粉と化して指の間を抜け落ちた。
「リアネス!」
駆け寄ろうと一歩踏み出したところで、イルアンの足が止まる。透明に近かった魔水晶の先端付近に紫の光が集まり、明滅しているのだ。
一方、翼水晶から流れ出た魔力は、いつの間にかその全てがリアネスの周りで漂っている。
紫と青の光が、互いを試すように強まり、セテとイルアンはその瞬間を同時に感じ取った。
「避けて!」
セテの叫びが聞こえたと思う間もなく、水晶の頂点から紫の矢が放たれた。矢は明確な敵意を持って、真っ直ぐ、リアネスの心臓へと吸い込まれて行く。
「あ、あっ!」
避けられない。本能的に、そう悟った。
触れてはいけないものに、触れてしまったのだ。強烈な後悔と焦りが湧き上がり、リアネスは最期を覚悟して強く目を瞑った。
「逃げろ!リアネス!」
まだ、貫かれていない。まだ、イルアンの声が聞こえる。
恐る恐る目を開けると、白い火花を上げながら、矢が胸先まで腕一本分のところで押しとどめられているのが視界に飛び込んで来た。
「あぶねぇって!」
イルアンに突き飛ばされて矢の軌道から離れ、リアネスは自らの守護者を見た。盾となっていたのは、いつもの青い翼だ。少し小さいが、いつもの、お気に入りの青。
「エマーヴァ…!」
やがて魔力が尽きてその形が崩れると、紫の矢は翼があった位置を貫通して直進し、壁に深々と穴を穿って消えた。水晶の先端は、何事も無かったかのように透明度を取り戻し、もはや光を宿してはいない。
「怪我は無いか?」
無言で頷く。イルアンに肩を掴まれて、初めて自分が震えていることに気づいた。良かった、と息を吐いたイルアンの姿が、ぐわりと歪んだ。
「わたし、わたし、悪くないわ。あんな立派な水晶、見過ごせるわけないじゃ無い!どうしても、海を渡らないといけないのに。」
安堵と罪悪感で、リアネスは溢れる涙を抑えきれなかった。結果的に失敗したが、このままこの大水晶を素通りすることなど、自分には許されなかったはずだ…
真っ赤な目のリアネスに睨みつけられた二人は、思わず身を見合わせて眉根を寄せた。
「リアネス」
やがてセテが、リアネスの正面にかがみ込んで額を付けた。
「反省することを、恐れてはいけないわ。失敗から学んで、身の振り方を考える機会を失ってしまうもの。誰かに期待された動き方に拘り続けるというなら、あなたは使命を果たすための最善を尽くしているとは言えない。そういうのは、使命を託した誰かに媚びているというのよ。」
諭すような声が、額から腹へと落ちてくる。目を閉じて、ゆっくり開く。リアネスの双眸から先ほどの激しさが流れてしまったのを見て、セテはゆっくりと頭を撫でてやった。
「セテは、厳しいわね。」
「耐えられる患者だと思えたなら、苦い薬でも処方するのが薬師の嗜みですから。」
「またそれ?薬師は、色々と嗜みすぎね。」
セテの言葉に苦笑して、リアネスはイルアンに向き直った。
「翼水晶、無くなってしまったわね。」
「ああ。お前さんを守り切ったんだ、本望だろうよ。」
粉々になった翼水晶を皮袋に集めて、セテが差し出してくる。
「あなたが持っているのが良いと思う。」
受け取ると、腕が沈んだ。重い、過ちの証。
「…セテが持っていてくれた方が、役に立つわよ。薬の材料になるかもしれないし。」
そう言って皮袋を押し返すと、
「イルアンが突き飛ばしてくれなかったら、私は死んでいたわ。」
リアネスは少しためらうように顎を引き、やがて小さな声で付け加えた。
「…ありがと、助けてくれて。」
その姿があまりに不本意そうでおかしかったから、イルアンも思わずくしゃくしゃとリアネスの頭を掻きまわしてやる。そうしているうち、いつの間にかリアネスの震えは収まり、三人の呼吸も緩やかになった。
イルアンの手が止まったのを見計らって、セテが努めて明るい声を上げた。
「それで、どうしましょうね。」
調子を取り戻したリアネスが、悪戯っぽく言う。
「海を渡る、別の手立てを探すのよ。ねぇ、イルアンなら、この水晶から別の竜脈が見えたりするんじゃない?」
すっかり当てにされてしまっている。
イルアンは両手をリアネスの頭から、光を失った大水晶の頂点へと移した。セテが、少し身構える。
「…大丈夫?」
「ああ。水晶の中には近づいただけで火傷してしまうような攻撃的な物もあるけど、これは優しい部類だと思う。実はさっきまで、俺も砕こうと思えば砕けると思っていたんだ。あんな自己防衛の力があるなんて、判らなかったからね。」
「竜脈は?」
「光の線は、見えないな。ううん、これは、そうなのか?ちょっと不思議な感じだ。セテ、試しに代わってみてくれるかい?」
イルアンはセテに場所を譲り、その手を水晶に触れさせてみる。
「何これ。地底から真っすぐに、何かが上がってきている感じ…」
「俺も同感。となると、単純に膨大な力があって、それを感じ取っているだけだ。俺だけが見える何かというわけじゃない。」
リアネスも、と目配せを受けた少女は、ぶんぶんと首を振って水晶に近づきたがらなかった。
「もう、害意は無いだろう?水晶もほら、この通り落ち着いたもんだ。」
イルアンは再び水晶に触れてリアネスを促したが、
「恨みは残るものよ。私がその石だったら、向こう十年は触られたくないわね。」
リアネスは壁に張り付いたまま嘆息すると、上階を窺うように視線を上げた。早く、海を渡る手立てを見つけたかった。
「ねえ、もう少しこの館の中を探ってみない?翼水晶みたいに、きっかけになる物があればまた竜脈を辿れるかもしれないし。」
上階は静かで、再度外出した家主が戻ってくる気配はない。だが、イルアンはゆっくりと首を振った。
「なあ、リアネス。竜脈が見えることなんだけど、俺は呪いだと思っている。前回は散々振り回された挙句に連絡船送りで、今回も危うく仲間を失うところだった。だから、もう竜脈を辿るのは止そう。それに六年越しで、翼水晶なんて突飛なものを使ってようやく見えた竜脈を、新たに探し出すというのは筋が良いとも思えない。」
「でも、その力を使わないで海を渡る水晶を見つけたことも無いんでしょう。だったら…」
「リアネス、ここは魔女の館だぜ。まずは、手前の部屋にあった書棚を検めてみよう。もしかしたら強力な魔水晶を見つけるだけが、海を渡る方法では無いかも知れない。」
君なら、あそこの本が読めるんだろう?そう言って、イルアンはリアネスの二の句を押しとどめた。
静寂の中、水晶に置いた右手から突き上げてくる魔力だけが荒々しい。その力に抗うように、イルアンは胸中で唱えた。
(竜脈を見る、呪われた力など要らない。生まれつきの特別な力なんてものは、視野を狭めて、努力にケチをつける。もっと地道に、もっと自力で、俺は海を渡ってみせる。)
強く念じて、目を閉じた、その時。
「イルアン!」
セテの声に打たれて目を開けると、水晶に乗せていた手が白い光を帯びている。慌てて水晶から飛び下がるが、手のひらの発光は腕に移動し、肩に入り、やがて胸の中心で弾けた。
「ぅぁぁぁぁ!」
とっさに左腕を噛んで叫び声を抑えた。熱い。胸の中心から四肢へと閃光が走ったかのようだった。
心臓が脈打つたびに襲ってくる激しい頭痛に耐え切れず、イルアンはついに床へと倒れ込んだ。セテが頭を打たないように添えてくれた腿が、口から垂れた血で染まった。
「セテ、は、熱く、ない、のか?」
「熱くないわ。白い光も、少しずつ収まってきている。大丈夫。もう少し経てば、大丈夫よ。」
セテが、上になった右腕をさすってくれる。
リアネスが、左腕の歯形を抑えて止血してくれる。
二人に抱かれながら、イルアンは冷静を取り戻した。頭痛は続いているが、こうして呼吸している間にも少しずつ和らいできた。先ほど感じた熱さは、既に無い。
「もう、大丈夫、みたいだ。」
そう言って、立ち上がろうと右手を床に付いた。
「イルアン?」
それは、彫像のようだった。青年は息を止め、微動だにしない。
「イルアン、どうしたの?」
二人が代わる代わる声を掛けると、やがて、イルアンは絞り出すように呟いた。
「これが…これが『ひねくれの魔女』の所以か…!」
それは怨嗟のようであり、試練への決意のようであった。
水晶工の目には、大陸深部に張り巡らされた巨大な竜脈網が浮かんでいたのである。




