雫水晶
階段を下った先は狭い部屋で、そこから三方へ通路が伸びていた。
三人が迷うことなく正面の通路を選んだのは、階上からも透かし見た淡い光がそちらから漏れてきていたからであり、さらに言えば残る二方向の見通しが全く利かなかったためである。
「まだ、来ていないわ。大丈夫。」
立ち止まって上階の気配を探る。数回もそれを繰り返すと、臆病なリアネスと先を行く二人の間には数歩の距離が出来ていた。だから、先頭のイルアンが通路を抜けた先で呻きを上げたとき、リアネスは訳も分からず身を固くする他なかった。
「なん、だ、これは。あり得ない、こんな…。」
セテ。
セテは、膝を付いたイルアンの肩に手を置いているが、息まで止めているように微動だにしない。
「何が、どうしたのよ。」
そう言って、二人の横に回り込んだ瞬間。リアネスの双眸は、淡く、しかし強烈な意思に射抜かれた。
白い光。
狭い部屋の中で、瞑目した父の姿が浮かび上がる。
ああ、なんて懐かしい。
第十二大陸への旅は、元来は父とその仲間たちの旅であったのだ。幻の中で、父がこちらを向いた。少しやつれて、白髪が増えて…
(これは、何?)
急に心臓が跳ねて、リアネスは思わず目元に手をやった。じっとりと指に付いた汗を、心音を確かめるように胸元で拭う。あんな父の姿は、記憶に無い。
「今のは、離れた場所が見えたのかしら…」
気を取り直して再度光に向き直ると、今度は青く光る。
エマーヴァが、兄を乗せて飛んでいる。リアネスは胸を撫でおろした。
あり得ない。
エマーヴァは、今、階上で氷漬けになっているのだ。まして、兄である。もう数年も見ていない青年を乗せているなど、あり得ない。
この光は、現実の何かを見せているわけでは無いのだ。
気持ちが落ち着いてくると幻は少しずつ遠ざかり、やがてリアネスの目は光源を冷静に判別できるようになった。
小部屋の中央、胸の高さほどまで突き出た透明な錐型。その水晶は、床板を剝いで人の体半分ほどの深さに掘られた場所に直接置かれており、全体でみると雫のような形をしていた。細長く尖った先端は恐怖を感じさせるほど鋭く、数歩離れたところから見たリアネスには、厳密な終端すら判別できない。
「なんて、大きいのかしら。」
そうして見つめているうちにも水晶の発する光は次々に色を変え、その不思議な光に触れるたび、胸の奥をざらついた紙で擦られる。
「リアネス、大丈夫?顔色が悪いわ。」
そう言ったセテも、蒼白な顔をしている。
「全然!ちょっと、変な幻を見て驚いただけよ。」
そう言って、リアネスは左腕を右手で抓った。気を抜くと、うっかり水晶に惑わされそうになるのだ。
これは駄目そうね。
そう言いながら、セテが丸いものを左手に握らせてくれる。何かの、豆に見えるが。
「気付け薬よ。少なくとも十回噛むまでは、出しちゃ駄目。あと、飲みこむと腹を下すから、最後は必ず吐いてね。」
言われるがままに豆もどきをかみ砕くと、強烈な苦みと臭いが奥歯から唇の裏まで染みわたって、リアネスは思わず涙を浮かべた。吐き気をこらえながらなんとか嚙み続け、十回に達するなり即座に袖口を口元に当てる。
呼吸をするだけで苦みが蘇るようであったが、なるほど、もう幻は浮かばない。
「ひどい味だな、これ。」
少し離れたところで、イルアンも同様に目を潤ませている。セテは、
「そうかしら?案外、慣れれば悪くないのだけど。」
と、ただ一人平然と気付けを噛みながら二人の回復を眺めている。
やがて二人が落ち着くと、
「見ただけで幻が浮かぶほどの、すごい力を秘めた魔水晶。これがあれば、海を越えられるんじゃないかしら。」
と言って顎に手を当てた。
「それはもう。こいつを見せたら、海の巨獣も腰を抜かしてしまうだろうね。」
イルアンは冴えない声で、このまま持ち出せればな、と付け加えた。ざっくり見ただけで、三人の体重を合わせたよりもよほど重い。
「上の細いところを折って、持って行けば良いんじゃない?」
あっけらかんと、リアネスが言った。
「それとも、ここまで来て、まだ魔女が怖いのかしら。」
イルアンは首を振りながら、魔水晶に改めて正対した。見たことも無いような魔力密度の結晶が、見たことも無い大きさに美しく成長している。
(こんなものを隠し持っている魔女が、怖くないわけがないが。)
肩で息をしながら、一歩魔水晶に近づき、手をかざす。セテが、心配そうに言った。
「欠けさせてしまっても、力は失われないものなの?」
「ああ。リアネスの言うように、この先端だけでも海を越えることは叶う。」
少しだ。あと少し、手を前に出せば水晶の先端に触れられる。
浮かした手の表面から水晶の冷気が流れこみ、イルアンは目を強く瞑った。
(この先端に力を掛けるだけで、念願が叶うのだ。)
二人の少女が固唾を飲んで見守る中、しかしイルアンは、ゆっくりとその手を下ろして息を吐いた。
「…折れない。折れるわけがない。」
両手を優しく水晶に預け、自分に言い聞かせるように続ける。
「これは、人が加工して良いものじゃない。この大きさになるまでの神秘を想像しただけで、気が遠くなる。俺は、自分の懐郷のために、これは折れない。魔女が怖いとか、そう言う問題じゃないんだ。」
この奇跡を汚したくない。
そう呟いて振り返ったイルアンに、リアネスが目を丸くして詰め寄った。
「待ってよ、じゃあどうやって海を渡るの?エマーヴァの竜脈を辿って、ようやく見つけた希望なんでしょう?他に心当たりなんて無いはずだわ。」
「それは、これから考えるさ。今年の船が出るまで、まだ時間はある。」
「でも」
さらに食ってかかろうとする肩を、後ろからセテが抑えた。
「他の方策を探してみましょう。ここ最近は伝説みたいな話と触れることも多いし、ね。」
まずは、ここから抜け出す方法を考えないと。そう言ったセテを、リアネスは身をよじって振り払おうとした。
その時。
ガタン、と階上から音が鳴り響き、三人は一斉に身をすくめた。リアネスを離したセテが、足音を殺して階段の方へと向かう。イルアンが追い付くと、二人は扉の両脇で息をひそめた。階上から、カツ、カツと靴音が響いてくる。ひとり分。
それと、
『ンミャ』
猫だ。
先ほど、隣室に居た個体だろうか。その声に応えるように、聞き覚えのある二頭の足音が部屋から駆けだしていく。やがて、強く床をこするような音を連れて狼の吐息が戻ってくると、擦れる音が止んでから数拍をおいて、白々しくも幼い声が降ってきた。
「いやぁ、重い、重いのう。老骨には堪えるわい。」
イルアンとセテが目を見合わせて、無言のまま扉に耳を近づける。カツ、カツと鳴る靴は少しずつ遠ざかり、やがて扉が閉じる音と共に上階に静寂が戻った。
「…行った、のかな。」
「判らないわ。隣の部屋にまだいるかも知れない。」
セテの言葉が終わらないうちに、遠くから高い金属音が響いた。出入り口の鈴が鳴ったのだ。それを合図に、イルアンは扉の鍵を外して振り返った。
「行こう。今なら逃げられる。…リアネス?」
一人、扉から離れていたリアネスが、数歩後ずさりして呟いた。
「壊れてしまえば、もう守らなくて良いのよね。」
怪訝に思ったセテが手を伸ばすが、それを軽くかわして身を翻すと、少女は躊躇なく水晶の元へと駆け戻っていった。慌てて追いかけた二人が水晶の部屋に入ったときには、リアネスはもう部屋の向こう側、水晶の裏へと回り込んでいる。
「確かに綺麗だと思うわ。でも、私には使命がある。」
「おい、よせ!」
イルアンの静止にいたずらっぽく笑みを浮かべると、リアネスは足裏を見せて水晶に飛び掛かった。




