沈黙の氷像
ぐう、と腹が鳴った。
体が小さくなっても空腹は変わらず、食欲も変わらない。せっかく狩りを終えてナユタに調理をしてもらおうと思ったのに、なかなか現れない客人のせいでパアラはお預けを喰らっている。
『まだかな。』
『まだっぽい。』
右足裏で水晶の球を転がしながら、パアラは何度目かの愚痴をこぼした。
共に部屋守りを任されたソウマが左隣でもっとおかしな恰好をしていなければ、とっくに床に寝転がっているところだ。といっても、口を開けてよだれを垂らしているソウマの姿は、ナユタの言いつけを忠実に守った結果である。その横でパアラだけが姿勢を崩すというのは、いかにも気が引けた。
『まだかなあ』
何度目かの唸り声に、ようやく眼前の扉が開いて応えた。やっと、この妙な恰好から解放されるのだ。さあ、我らの威風に圧倒されるが良い。
「エマーヴァ…!」
先頭で入ってきた茶髪の少女が、叫びながらパアラとソウマの間を通り抜けていく。
(ん、通り抜け…あれ?)
おい、人間。こうも見事に無視されては、恰好を固めていた自分達が間抜けのようではないか。
そういえばソウマから、一番小さい人間は魔狼の言葉を解すると聞いたな。
『狼の間、通る、死にたい?』
思わず背後を振り返って声を上げるが、少女はそれを気に留める様子もなく、部屋の中央、飛竜を閉じ込めている氷にしがみついて涙を流し始めた。
『おい、おい、人間。』
これでは魔狼の名折れである。パアラは向かいのソウマに目配せすると、少女の後を追いかけて部屋の中央に向かった。背後からもう一声吠えてやろうと思ったのだ。
『おい、人間、こっち。』
声を掛けてみるが、少女は泣き止む気配がない。困った。これでは威厳を保つどころか、認識すらされぬままに終わってしまう。
『おい、悲しい、泣かない?』
パアラの威圧的だった声が、徐々に弱くなる。困りはてたパアラは、ついに薄紫の鼻で少女の背をさすり始めた。優しく諭すように、繰り返し擦り付ける。
『…私たち、怖くない。小さい。』
入口から見て対称の位置に居たソウマも、ついに足裏の水晶を蹴転がして少女のもとへと寄ってくる。二匹の狼に背中を支えられた少女は、やがて腫れぼったい目で振り返って、高い声で応じた。
『ありがとう。私は、大丈夫。』
氷に押し付けて真っ赤になった手で、少女はパアラとソウマの頭を撫でた。心地よい刺激に、二匹は安堵の声を漏らした。
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二つ目の部屋は通用口の他にも大きな搬入口を持つ大広間で、天井は部屋の中央に向かって高くなっている。イルアンとセテはその通用口付近から狼と少女のやり取りを見守っていたが、ようやく零れた少女の笑みに、ふぅ、と詰めていた息を吐きだした。
「これが、飛竜なのか。なんて大きい。」
「ええ。実に荘厳ね。」
伝説の生物、飛竜。
もちろん、実物を見るのは初めてだ。
立ち姿のまま氷漬けにされているそれは、足元に立ったリアネスの体を物差しに測って七倍から八倍ほどの高さがある。それを守護するように台座が対称に据えられており、当初、そこで待ち構えていた狼たちは神々しくさえ見えた。
その神聖な狼たちに脇目も振らず一直線に飛竜へと向かったリアネスはいかにも危なっかしく、二人は直感的に武器を手に取って不測の事態に備えたものだ。
幸い、それは取り越し苦労であったが…
「すごい純度だな。持って帰れば大金持ちだ。」
イルアンは狼が蹴転がしてきた水晶玉を拾って目線まで持ち上げた。拳よりわずかに大きい厳密な真球で、薄い青と紫を湛えながらも透明度を保っている。
「イルアン。竜脈は、やっぱりこの飛竜を指していたの?」
「ん?ああ。」
そう言って、イルアンは懐から青く輝く翼水晶を取り出した。改めて意識を竜脈に集中してみて、確信する。実は、この館に入る直前から竜脈の流れが変わったのを感じていたのだ。上手く言語化できなかったが、この部屋で飛竜と対面して、起こっていることに実感が伴った。
「翼水晶から出た光を辿ると、この飛竜を目掛けて地底から突きあがってくる太い竜脈に合流しているように見えるんだ。この太い竜脈がどこから来ているのかは検討も付かないけれど、まるで飛竜に力を与えようとしているみたいに見える。」
翼水晶を飛竜に近づけるように掲げると、セテが目を丸くしてそれを見つめだした。竜脈の光ではない、可視光が石の内部から発せられたのだ。
「それは、エマーヴァの翼よ。返してあげて。もしかしたら、氷が融けるかも。」
飛竜を背に、魔狼を左右に従えたリアネスが戻ってきて言った。正面を向いて硬直している飛竜は、左翼をほぼ根元から失っている。翼水晶を掲げたまま飛竜に近づくと、それに応じるように飛竜の傷口が発光し始める。直感が、イルアンの腹から喉に抜けた。
「本当に、飛竜の翼だったのか、これ。」
湧き上がってきたのは、驚きと懺悔であった。ここまでの超常現象を目の当たりにしてなお、今この瞬間まで、自分はリアネスの言を信じていなかった。その自らの疑い深さに、イルアンはまるで気づいていなかったのだ。
「ということは、リアネス、君は本当に中央大陸からやってきたんだね。」
イルアンの間が抜けたような呟きに、リアネスは腕を組んでため息をついた。
「最初からそう言っているじゃない。」
「すまなかった、あまりに突飛な話だったから。」
中央大陸だの、飛竜だのと言われても、信じる側から思考が始まらない。それを『冒険家に向いていない』というならその通りだと、イルアンは自嘲した。
「常識に囚われていても始まらない、か。」
ここはひとつ、リアネスの言う通りにことを運んでみよう。すなわち、翼水晶を飛竜の左翼に『返そう』と試みるのだ。
大広間の隅に転がっていた丸太を飛竜に立てかけて登り、傷口と同じ高さで翼水晶を氷塊へ押し付けてやる。しかし。
「…駄目ね、光が強くなっただけ。傷口の方も、変化は無いわ。」
最後に登ったセテが先の二人と同様の見解を述べると、三人は揃って肩を落とした。リアネスが呼びかけても、イルアンが他の水晶で活性化させてみても、翼水晶と飛竜の傷口はただ光るだけで、それ以上何らの変化も見せてくれない。
「他の手を探すか、何か考えないと、っと。」
丸太を降りながら見据えた明かり取りの窓の向こう。セテは、橙に輝いていた霧が急激に暗くなるのを見た。日没だ。
「いったん、地下へ戻りましょう。この館で、夜は過ごせないわ。」
「…そうだな。」
名残惜しそうに頷いたイルアンの腕に、リアネスが飛びついて首を振る。目の前に居る友を、あと少しで救えるところまで来ているのだ。
「エマーヴァがいれば、こんな湖なんてひと飛びで逃げられるのよ?軽く、ひと飛び。夜なんて、怖くないわ!」
「そうは言ってもな。」
何か二人を引き留める手は無いか。リアネスは、目まぐるしく広間中を巡回した。
イルアンが手離した真球の水晶は、無秩序に転がったまま。二頭の狼は、台座に戻って退屈そうにあくびをしている。半球状の天井は飛竜の体高を包んでなお高く、板張りの床は東西の向きに整然と並んでいて…
「あれ?」
違和感。狼たちが座っている台座の手前の床。妙に短かったり、細かったり、板目の様子が違う。ほとんど這うようにしてその真上までたどり着いて、ついにリアネスは叫んだ。
「何かある!」
室内に点々と浮かんだ光源と板目の間に自分の体を据えて影を作り、さらに直上から覗いてようやくわかる程度だが、床板の下からは確かに光が漏れていた。
日暮れ前に部屋を出ていたら、きっと見つけられなかっただろう。リアネスに促されるまま、イルアンも床に顔を貼りつけて板目の先を探る。
「本当だ。弱いけど、青白い光が来ているね。それ以上は、何も見えないけど。」
顔を上げたイルアンが、扉に近づいて帰路の側を伺っているセテに視線で問い掛ける。もう少し、このまま調査を継続するか、否か。
「…まだ、何の気配もしないわ。」
リアネスとイルアンは目を見合わせて頷いた――続行だ。




