他に、当ても無いから。
他に何も無いから目立っていたが、いざ歩いてみるとその大岩はなかなか近づいてくれなかった。ようやくその全容が掴めるようになったのは、イルアンの目算通り日が傾いた頃だった。
「気を付けて。ここから、下ってる。」
先頭を行くイルアンが振り返って言った。
目前の氷の床は、数十歩の距離に渡って下り坂となっており、その先にある岩壁へと接続している。一方で頭上を覆う氷の天井は水平に延びているから、結果として岩壁に向かって広がる大空間が形作られていた。周囲には地面から無数の氷柱が立ち昇り、氷の天井を支えている。
「あれ…あったかい?」
リアネスが首筋を掻きながら言った。イルアンが正面の壁を指して、その理由を考察する。
「たぶん、表面が水晶で覆われている。あの表面を伝って光がこの閉じられた空間に溜められているんだ。それで、ほら。」
坂を半分ほど下ったところで、三人は一日半ぶりに澄んだ青を見た。
空だ。
氷の天井は、岩に触れる寸前で垂れさがるつららに変わり、地上への隙間が空いている。
地上に戻れる。三人は抱き合って歓喜の声を上げ、坂道を走り出した。
ところが。
『ォオン』
あと数歩で坂を下り終えるというところで、何かの唸り声が響いた。先頭を走っていたリアネスが、その声に打たれたように背筋を反らす。
「や、止めて!戻って!」
悲鳴に近い声を上げながら氷の坂を滑るリアネスの襟を、とっさにセテが右手で捉えた。さらにそのセテの体に手を回したイルアンが、ほとんど倒れ込むようにして二人を引き戻した。
間一髪。
静止したリアネスの前で、坂道は体半分ほどの落差と共に終わっており、その下は岩場まで平坦な氷が続いているようだった。危うく、滑り落ちるところだった。
「いまのは、狼の声かしら?」
セテの言葉を追うように、岩壁の窪みの影から一抱えもありそうな獣の顔が覗いた。
陽光を受けた毛皮は、ごく薄い紫色。
狼に見えるその獣は窪みから歩み出てゆっくりと三人と正対すると、下り坂の終点から十歩ほど離れたところで、わざとらしく前足を掲げて一歩先を踏んだ。すると、頑丈そうに見えていた氷が抵抗することなく揺れ動き、すぐ下から水がしみ出してくる。
「あのまま進んでいたら、今頃俺たちはずぶ濡れだったぞ、と言うわけかな?狼くん。」
イルアンの問いかけに、
『ォオン』
と再度狼が唸り、今度は勢いよく音を立てて水面を打った。途端、空間内に呻き声のような不気味な音が鳴り響き、次いで水底からいくつかの黒い塊が浮上してくる。
「気を付けろ。」
セテの腹に回していた腕に力が入り、無意識に後退りする。
その瞬間。
ついに水面の上に飛び出してきたそれは、鋭い牙を露わにしたまま大きな弧を描き、不気味な鳴き声を上げながら一瞬静止して三人の方を睨みつけた。
蛇のように胴の長い、赤い目を持った魚だ。鋭く生えそろった歯は、比較的大きな獣が相手であっても、部分的に食いちぎっていく光景を容易に想像させる。
そう、例えば人間のような、丸のみが難しい大きさの獣であっても。
「…あのまま進んでいたら、今頃命は無かったぞ、と言うことらしいわね。狼くん。」
狼はセテの言葉を肯定するかのように喉を鳴らすと、付いてこいとばかりに半身になって岩の左手へと三人を誘った。なるほど、遠目にもその方向の氷は厚くなっており、人間の重さを掛けても崩れない安心感がある。
「行こう。」
三人は互いから手を離すと、導かれるまま狼に示された氷を渡った。
先頭で岩場に立ったリアネスが、文字通り小躍りして回る。
「滑らない、滑らないわ!もう氷の上はまっぴら!ああ、岩ってなんて良いものなのかしら。」
リアネスが鼻歌を奏でれば、セテも、ほっとした表情を見せた。
「水自体は、綺麗ね。ようやく傷が洗えるわ。」
氷の縁取りと岩との間には液体の水が露出している箇所があり、浅い場所を選べば危険も無さそうに思われた。三人は久方ぶりの大地に腰を下ろし、束の間の休息を得たのだった。
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改めて確かめるまでもない。
気流は頭上に空いた氷の裂け目に抜けているし、竜脈の方向も岩壁の奥、島の中心方向の地下深くを指したままだ。イルアン達の向かうべき先は、この岩壁を登った先に違いない。
「そういえば、さっきの狼はどこへ行ったのだろう。ここで暮らしているわけでも無いだろうし、あいつの後を追えば、地上への道が見つかるかもしれないな。」
近づく過程で島幅を目算してきたイルアンは、この島自体が相当に大きいことを知っていた。
左右を見渡す限りよじ登れそうな場所は見当たらないが、島を一周して登りやすい場所を探すとなれば大仕事で、今夜も氷の下で眠ることになる。そもそも、登るのに都合良い場所が存在するとも限らない。
「困ったなあ、あと少しなんだけど。狼くん、狼くんやい、出て来いよ。」
自棄っぱちになったイルアンが狼の鳴き声を真似てみる。
「残念ね、もう少し上手ければ出てきてくれたかも知れないのに。」
全く上手くない。セテが苦笑したのも無理からぬことであった。が、その時。
『アオォン』
すぐ近くで沸き起こった狼の鳴き声に、イルアンとセテは飛びあがった。振り向きざまに距離を取り、その視線をさらなる驚嘆をもって少女に向ける。
声の主は、リアネスであった。
「ええと、『どっち?』って。」
「リアネス、君、狼の言葉が」
『ォオン、ォオン』
驚いたイルアンが問い終えるまもなく、右手の方から応えが上がる。
「こっちだよって、教えてくれている。行こう。」
間もなく現れた狼は、先ほどの個体とは違って青みを帯びた毛並みを持っていた。体高はイルアンの肩ほどで、こちらは先ほどの個体同様ふつうの狼に比べて相当に大きい。
適度な距離を保ちつつ、後を追うこと半刻。導き手の狼が姿を消したと思った窪みに、それはあった。
「ここと判っていなければ、見逃していたに違いないや。リアネスの声に、狼が応えてくれたんだな。」
「自然の洞穴、じゃないわね。明らかに人の手が入った通路だわ。」
セテの言は、おそらく正しい。
岩壁の奥へと続く横穴の入口は全周を縁取るように石で補強してあったし、足元には飛び石のように平坦な箇所が設けられている。
「青の狼に導かれ、穴に入る、か。罠でなければ良いが。」
通路内に明かりは無く、奥は見えない。深い闇を前にしたイルアンのつぶやきに、リアネスが肩をすくめた。
「他に、当ても無いでしょ。」
ごもっとも。
イルアンは瞑目して息を溜めると、懐から取り出した光水晶を翼水晶に軽く押し当てて横穴の内部を照らし出した。




