朱の翼
セテは反射的に弓を掲げて顔と喉を守ったが、振り下ろされた爪は、薬師の左肩から二の腕に掛けての肉を容赦なくえぐり取っていった。
「っあああ!」
イルアンはとっさにセテの衣服を掴むと、ほとんど投げるようにして獣から引き離した。鮮血に染まる氷上で、大雪虎は愉しむようにゆっくりと爪を舐め上げている。うずくまるセテの脇にリアネスが潜り込み、肩を支えて必死に走りだす。
逃げろ、逃げろ…!
「岸から離れるんだ!少しでも、深い方へ!」
二人を庇うように獣へと正対したイルアンは、素早く懐から火水晶を取り出して打ち鳴らした。面白そうに首を傾げる獣の前で、手袋の表面を巻き込むようにしてイルアンの両手に顔面大の火炎が宿る。
「そうだ、そのまま、こっちを見ていろ。」
しかし、大雪虎がそれに構っていたのは、僅かに数拍の間だけであった。面倒そうに数歩下がって首を振ると、追いすがるイルアンの横をあざ笑うかのように通り過ぎる。
そして、ひと跳び。
先を行くセテとリアネスの前方に躍り出た。着地の衝撃と共に、イルアンの足元まで氷が揺れる。
「…割れてくれ!!!」
イルアンが祈りの声を上げた。どこか遠くからきしむ音が聞こえ、巨獣もそちらを振り返る。しかし。
「割れろよお!」
少年の拳が氷を叩いた軽い音を最後に、静寂が周囲を覆った。足元の揺れが収まるのを待って、巨獣は二人の少女に歩み寄る。
獣の口元から、ぬるい吐息が白く漏れた。
「こっちだって!」
イルアンが叫びと共に投げつけた火を纏った手袋が、毛皮に当たって落ちて氷上で煙を上げた。しかし獣はそれを気にも留めず、腕を振りかぶる。
その腕が、振り下ろされた、その未来が見えた、瞬間。
空から、絶望の象徴のような声が鳴り響いた。
『グァゥオオウ』
首をもたげた大雪虎が、上空から飛来した黒い影に圧し掛かられ、氷上に叩きつけられたと思うと、その首元には既に巨大な鉤づめが深々と食い込んでいる。三人がすぐに視線を上げられなかったのは、白目を剥いた大雪虎の顔に驚いたからだけではない。
目を合わせたら、一突きで命を奪われる。
その恐怖が、稲妻のように場を支配していたのだ。
『ギュァイ』
高い鳴き声と共に、その巨大な猛禽類は翼を広げた。ようやく我に返った六つの目に映る、鮮やかな朱色。
「朱の、審判…?」
鳥だったのか。セテが傷口を抑えながら呟いた。
その巨体から猛烈な速さで繰り出されるくちばしが、瞬く間に大雪虎の首元へと吸い込まれていく。巨獣が瞬く間に生命活動を停止してしまうと、朱い鳥はそのかぎづめをゆっくりほどき、セテを真っすぐに見据えて、グア、とひとつ鳴いた。
「逃げるぞ!」
「え、ええ。」
追いついてきたイルアンが耳元で叫んでくれなかったら、視線を外すことはできなかっただろう。
それほどに朱い鳥は恐ろしく、そして美しかった。
足元を見れば、先ほどの衝撃でついに氷に亀裂が入り、人がすり抜けられるほどの裂け目が生じている。
「下は広いわ、早く!後ろ来てる!」
真っ先に飛び込んだリアネスが、奥の方から端的に状況を伝えてくる。ほぼ同時に、眼前の死神が細い足をこちらへ一歩踏み出した。
是非も無い。
血濡れた嘴が突き出される寸前、二人は文字通り裂け目に転がり込んだ。直後、がつんと頭上から衝撃音が降ってくる。振り向けば、透明な氷に突っかかった凶悪な鉤づめが、イルアンの背後腕一本ほどの距離で押しとどめられている。
あと少し氷の底が浅ければ、今ごろイルアンは上空へと連れ去られていただろう。
「こっちよ!」
リアネスが手招きする方へ、必死に這って行く。
裂け目からの侵入を諦めた怪鳥は、二人の頭上の氷を割ろうと激しく啄き続けている。もっと、深く、屋根の厚い方へ。なんとか立ち上がり、氷の狭間を滑り降りた。
「あっ」
あと数歩で合流できる。そう思ったところで、リアネスが息を呑む音が聞こえた。それに続いて、背後から何かが軋むような音が追いかけてくる。
「崩れる…」
轟音と共に怪鳥は足元の氷を崩し切ったが、結局氷の下に入り込むことはできず、むしろ動くほどにその通路を塞いでしまう。
怪鳥はしばらく他の場所を叩いたり突いたりしていたが、やがて恨めしそうな鳴き声を残して、東の空へと飛び去ってしまった。
「…大丈夫か?」
「ええ、そんなに深くは無いわ。本当は傷を洗った方が良いのだけど。」
セテは微笑して強がったが、頭上の厚い氷越しに降り注ぐ陽光は容赦なく額に浮かんだ汗を照らし出した。傷口に当てられた布には、どす黒く血が滲んでいる。
「リアネス、どうだ?」
崩れた通路の氷に手を当てていた少女が振り返り、首を振った。
「だめね、びくともしない。閉じ込められたみたい。」
「そうか。」
周囲を見渡せば、滑り降りてきた『通路』の終着と同じ高さに、遥か彼方まで氷の空間が続いている。空間の高さはイルアンが手を伸ばせば天井に届くほどで、ところどころに太い氷の柱が立っている以外は遮るものも見当たらない。
「イルアン、見て。動いてる。水だわ。」
足元を指して、セテが言った。膝を付いたイルアンが表面を叩くと、刺激を受けた光が揺らぐのが見えた。
「外から見えている氷の表面と、実際の水面との間にこんな空間があったのか。」
イルアンは外套から毛をむしり取ると、頭の高さまで掲げて落とした。ふわりと浮かんだ毛は、元来た『通路』から遠ざかる向きに流されて氷上に散らばっていく。
「空気の流れがあるってことは、他に出口があるのかしら。」
腕への応急処置を終えたセテが、気丈にも立ち上がって言った。
傷の具合は心配だが、まずはここから出ないことには村へ戻ることもできない。しばらくは、セテの体調については触れまい。イルアンが心配だと繰り返したとて、治るものでもないのだ。
「やってみてから言うのもなんだが、これだけじゃ判らないな。さっき穴が空いたばかりだから、空気が入り込んできているだけかも知れない。もう少し、ここから離れたところでもやってみよう。」
三人は通路から離れたところで何回か同じことを試した。二回目、三回目と繰り返すうち、徐々に空気の流れは崩落した裂け目と無関係の方向に変化していく。しかし、その変化の仕方は三人にとって好ましいものとは言えそうになかった。
「岸に向かってないな。沖の方に向かって、常に流れている。つまり、さっきの『通路』みたいな無数の隙間が空気の入口になっていて、大きな開口が沖の方にある、と。」
岸に戻れないかと湖畔に沿って氷の間を歩いてみたが、一定の距離まで岸に近づくところで空間は終わり、行く手を氷壁に阻まれてしまう。その終着点でもなお気流はその氷壁の向こうから染み出してくるようで、さすがにこの僅かな空気穴を脱出路として当てにするのは筋が悪いように思われた。
「沖へ向かおう。これだけ気流が集まっていく先だ、人が通れるくらいの隙間があるかもしれない。それに。」
イルアンは懐から、飛竜の翼だった青い球体を取り出していった。
「いったん村に戻るのが最優先と思っていたから黙っていたのだけれど、実は、気流の向かう先と竜脈の指す方向が一致している。さっきからずっとね。リアネスの飛竜も、きっとこの先に居るに違いないよ。」
リアネスがはっと目を輝かせて、直後に戸惑ったような視線をセテに流した。その意図を察した薬師は、小さい少女を手招きして、頭に手を置いてやる。
「大丈夫。猛獣に襲われて怪我をするなんて初めてでもないし、歩きながらでも治せると思うわ。」
「でも、悪くなってしまったら。」
なお心配そうにしているリアネスに、セテは苦笑して付け加えた。
「駄目な時は、ちゃんと駄目って言うわ。それも、薬師の嗜みだから。」




