白の爪、灰の声
目論み通り、天候は持ってくれた。
一行は日暮れ前に湖畔へ着くと、件の木陰がある広間に天幕を張って夜を越した。地面には黒く、エマーヴァの血痕が刻まれている。
「ううぅ、寒い。」
日の出と共に焚火を育てていた二人の元に、天幕から這い出てきた年少者が合流する。
「村の外が、こんなに寒いなんて。」
「ええ、だからこのあたりで裸のあなたを見つけた時は、何事かと思ったわ。」
「目のやり場に困ったとも言うな。」
イルアンとセテが暮らす村は窪地の両端を大岩で封じたような構造になっており、風が抜けにくく熱も逃げにくい。しかしそこから一歩踏み出せば、第一大陸本来の厳しい自然が牙を剥くのだ。
目前の氷湖『霧の母』にしても、氷が融けたという話は久しく聞かない。
「この氷の上を歩いて行けば、エマーヴァのところに着けるのね。」
鼻息を荒くして、リアネスが焼けた美しい兎肉にかぶりついた。
傷ひとつない背肉は、可食部を多く残すため敢えて小さな頭部を射抜くという神業の結果で、小弓の射手はセテであった。
(ただ者じゃないわ。)
一匹目を仕留めた時は『あら、上手く行ったわね』などと言っていたが、二匹目、三匹目と同様にこなしたとあっては、リアネスも誤魔化されない。なぜそんなに弓が上手なのかと問いただしてみると、セテは『薬師の嗜みよ』と涼しい顔で言った。
(いやいや、その言い分は無理があるって)
全ての薬師がこうも弓を嗜んでいては、狩人も商売上がったりである。素人のリアネスから見ても、彼女の腕前は狩りを生業とする友人や、その父兄の遥か上を行っている。
何か特殊な訓練を受けたか、よほどの才に恵まれているか。いずれにしても、ただの薬師の腕で無いのは確かなのだ。
と、その名手が不意に弓を取って矢に手を掛けた。
「昨日より、近づいてきているわね。」
天幕の周りで何やら拾い歩きしていたイルアンが、ゆっくり戻ってきて答えた。
「相変わらずだよ。奴ら、じっとして動かない。不気味だな。」
「え?いったい。」
何が?と聞こうとしたリアネスの声に、狼の遠吠えが被さった。二度、三度と別の方向から沸き起こる応えの響きに肌が粟立つ。
妙だな、とイルアンがセテに視線を送る。
「ちょっと、様子が変わったわね。」
「いよいよ、狩りにくるのかも知れない。出発だ。森の外まで追って来ないことを祈るばかり、と。」
三人は最小限の荷物以外をその場に残すと、湖に向かって慎重に歩き出した。
その直後だった。
背後から一斉に狼の吠える声が沸きあがる。思わず走りだしそうになったリアネスの襟首を掴んで、イルアンが叫んだ。
「離れるな!奴らの方が、ずっと速い。」
リアネスを先頭に固まり、セテとイルアンが半身になりながら小走りに湖へ駆ける。すると、先ほどまで三人が休んでいた場所の奥から、大きな体を揺らして獣が現れた。
四つ足だが、それは狼ではない。
「大きな、猫?」
セテとイルアンの横顔が硬直しているのを見て、リアネスの肩にも力が入る。白い体に黒の斑点を持つ大猫は、残された大荷物を軽く跨ぎ越えると、広間の真ん中で大地を舐め始めた。目算の体高は、イルアンの背丈を優に越している。
「大雪虎、か。飛竜ほどじゃないが、十分おとぎ話に出てくるような獣だ。こんな人里近くで、なぜ」
大雪虎がブルブルと身を揺すったのを見て、警戒したイルアンは声を切った。獣は顔を上げることなく、地面との対話を再開する。
「エマーヴァの血を、舐めているんだわ。」
ぼそりとリアネスが言った。
なるほど。獣の頭は、黒い染みがあった辺りから動かない。
「大陸の奥地に住むと伝えられている獣だが、飛竜の血に引き寄せられて出てきたか。とにかく、音を立てずに離れよう。」
忍び足で逃げる三人をよそに、狼たちは途切れることなく吠え続けている。虎を囲うように鳴り渡るその声は、広間から遠ざかる三人の足音をかき消してくれるかのように思われた。
しかし。
「ひっ」
先頭を行くリアネスが、声を上げて尻餅をついた。あと少しで大雪虎の死角に入ろうかというところで、ついに目の前を狼が横切ったのだ。狼はそのまま森の中へ駆け去ってしまったが、発された音は戻らない。
恐る恐る大雪虎を振り返ると、その青い目は真っすぐに三人を見据えている。
「背中を見せちゃ駄目よ。ゆっくり、このまま下がって」
擦れたような細い声でセテが言った。
来るな、そのまま地を舐めていなさい。
しかし、大雪虎はその首をじっと据えたまま、ゆっくりと三人の方へと足を運び始める。その舌が口の周りに着いた泥を拭ったのを合図に、三人は半身になったまま駆けだした。
「獣除けの香草は!?」
「あんな化け物に効くわけないじゃない!せいぜい普通の猫避けが精いっぱい。狼だって、その気になれば踏み越えてくるわ!」
三人を追ってようやく駆けだした獣が、細い声で鳴き声を上げる。せめて猛々しく吠えてくれようものならこちらも奮い立つのだが、さも用意された朝食をこなすだけというように、その声にはまるで緊張感が無い。
追手の速度が上がるにつれて、三人は誰からともなく全身を湖に向けて疾走するようになっていた。
「湖!だけど、どうするの!?」
リアネスの叫びに、イルアンは前方に指を指して応えた。
「そのまま真っすぐ走って湖に入れ!あいつの重さなら、氷が割れてくれるかもしれない。」
「もし割れなかったら!?」
「奇跡を祈るんだな!」
森を抜けた途端、狼の声が置き去りにされていく。追手は大雪虎のみとなったが、湖と大地の境界を飛び越えた時にはもう二十歩の距離まで近づいてきていた。
逃げきれないと見込んだセテが、走りながら矢をつがえる。
「おい、早まるな!」
イルアンの叫びをよそに、セテは振り向きざまに獣の足元へ矢を放った。正確に前足へ飛んだ矢は、しかしその毛皮を貫くことはできない。獣はその巨体からは想像しがたい身軽さで小さく跳躍して矢を避けてしまうと、二の矢をつがえたセテの前で前足を振りかざした。




