日常の担い手
使命を託され、送り出されてから丸三日。
野宿が続いて嫌だったから、明かりを見つけたときは考えるより先にエマーヴァの背を叩いていた。少し離れたところでエマーヴァと別れて訪れたのは、大陸中に巡らされた道の終端に位置する辺境の宿場町だった。
『酒場には近寄るな。誰が敵かもわからん。』
野太い忠告の声が胸をよぎったが、好奇心と空腹に負けて酒場の戸をくぐる。喧騒と好奇の入り混じったむさ苦しい空間は、すぐにリアネスを仲間に入れてくれたように思えた。
いま思えば。
ひとり送り出されて、私は心細かったのだろう。
酔っ払いたちの武勇伝に気分よく付き合っているうちに、うっかり油断してしまった。
『世界の空を巡って、きっとたくさんの人を救って見せるわ。』
その時は、口が滑ったとすら思っていなかった。
翌朝を待たず宿を包囲する追手を見て、初めてリアネスは自らの迂闊さに気づいたのだ。機転を利かせて暴れ回ったエマーヴァのおかげで何とか切り抜けられたものの、その代償に彼の飛竜は翼に火槍を受けてしまった。
※
苦悶の咆哮が、耳から離れない。
もう、何日も続けてエマーヴァの夢ばかり見ている。
目覚めが良いというよりは、眠りが浅いのだろう。未明からとうに頭は冴えていたのだが、朝日が顔を照らすまでは体を起こさず、体力の回復に努める。
「待っててね、エマーヴァ。」
この診療所で迎えた四度目の朝は、イルアン達が旅立ちと決めた日だった。
イルアン。
ちょっと怖い、水晶工の青年。
『第十二大陸まで一緒に行くかどうかは、飛竜探しの後でもう一度考えるさ。だけど、六年待ってやっと見つけた希望だ。小さな女の子を怖がって逃すには、惜しい。』
数日前に聞いた言葉が耳によみがえって、リアネスは軽く身震いした。
「そりゃあ、そうよね。」
命を救われたあげく、理由も言わずに命がけの旅に連れて行ってくれと頼んだのだ。利用してやると明確に言われたことは、いっそ清々しい。
「ここからよ、ここから。」
リアネスは寝台から降りると、乱れた寝具を丁寧に整えて隣部屋への戸を引いた。
「おはようございま、す?」
「おや、おはよう。」
そこにいたのは、年老いた女であった。ふと横に目をやれば、旅支度を整えたセテが微笑んでいる。
「こちらのおばあさんは?」
「老ティムソエーナ、ここの先代薬師よ。と言っても、私がお願いして働き口を譲ってもらっただけなんだけど。」
ティムソエーナと呼ばれた女が、皺の寄った目を細めて笑う。
「驚いたよねぇ、十歳かそこらの女の子が、立派に草木の声を聞いて薬を作るんだから。お陰で、わたしゃあ安心して引退させてもらったさ。」
「またそんなこと言ってる。おばあちゃん、最初のうちはずっと私の隣で口出ししていたくせに。まあ、おかげで色々勉強になったけど。」
じゃあ、お願いね。そう言ったセテに、老女がゆっくりと頷いた。そう言えばイルアンも、旅支度の最中に留守中の備えについて話してくれたっけ。
『もし今回の船に乗れなかったなら、もう一年この村で過ごすことになる。もちろんそれだけが理由とは言わないけど、俺たちが不在でも村が困らないようにしておくのは、悪いことじゃないだろうさ。』
きっとセテが不在の間、診療所を任されるのが彼女なのだ。なに、今回の旅は往復でも二十日程で、さして問題は無いだろう。
(あれ?)
リアネスはふと、心の隅に痛みを感じた。
「火は、木陰で焚くんだよ。朱の審判に見つかったら、命は無いからね。」
繰り返される、旅の無事を祈る言葉。それに片手で応じて、二人は診療所を出た。イルアンとは村の出口で待ち合わせをしている。
「ねえ、セテ。聞いて良い?」
「なあに?」
リアネスの慎重な言い回しに、セテが優しく答える。この問いは、セテを困らせることになる。そう直感しながらも、リアネスは言葉を止めることができなかった。
「あなたが故郷へ帰ったら、この村にはその、先代様しか薬師がいなくなっちゃうの?」
ひとたび浮かんだ光景は、頭から離れない。もし数年後、ティムソエーナが倒れてしまったら?セテが居れば、助かる人もいるかもしれない。セテが居れば。
ぽん、と肩に手を置かれて、リアネスは耳の高さまで肩を強張らせていたことに気づいた。苛立って手を上げられても仕方ないような内容を聞いている、その自覚があったのだ。
「リアネス、あなたはとても優しい。それでいて、とても矜持高いのね。」
「矜持?」
うん、と頷いて、セテはリアネスの頭をくしゃくしゃとかき回した。
「私は、おばあちゃんを信じているの。もちろん村のことは心配だけど、故郷に帰りたいと言えば、きっと理解してくれる。私が村のために残るなんて言ったら、恩着せがましいって嫌がられちゃうわ。」
「でも、あとで困るんじゃ。」
セテは首を横に振った。
「おばあちゃんなら、きっと跡継ぎを見つけてくれるわよ。何もかも自分のせいにしようとするのは、よく言えば矜持高い。だけど、困り事はみんなで分担して乗り越えないと。他人の分までそれを背負ってあげようなんて傲慢だし、横取りよ。もちろん得手不得手はあるから、両方が納得できる範囲で助け合うのは素敵なことだけれど。」
何度となく自問を繰り返していたに違いない。まるで決まった台本を読み上げるように口を動かすセテに、リアネスはそれ以上何も言えなかった。
黙ってしまったリアネスに、「ま、故郷にいた長老の受け売りなんだけどね。」と舌を出してセテが誤魔化しに掛かる。合わせるように無理やり笑って、リアネスはなんとか肩の力を抜いた。
「珍しいな、俺より遅いなんて」
村はずれに着くと、大岩に持たれるようにして待ちくたびれた風のイルアンが声を掛けてくる。
「おばあちゃんに、あんまり早く来てもらうわけに行かなかったの。そっちは?」
「まあ、何とか大丈夫かな。元々水晶工なんて村ごとに居るもんでもないし、火とか、光とか、最低限の蓄えは村長に渡しておいた。」
旅慣れた二人が前触れもなく歩き出したから、少女の旅立ちは数歩遅れた。二人の上半身を隠した大きな背嚢に、思わず自分に任された小さな荷袋を振り返る。
自分に取っては、これでも十分に重い。
「ほら、置いて行っちゃうわよ?」
体ごと振り返ったセテに頷いて、歩きだす。
一方的に助けられて、この旅について行く。腹の芯に落ちてくる無力感は、リアネスの気持ちをひどく焦らせた。
(矜持高い、傲慢、か。)
荷を公平に分担したいなど、非力な側からはとても言いだせない。一方で手ぶらで良いと言われても、侮辱と感じるだろう。この不公平に、なぜ自分は納得しようとしているのか。
「…私、自分で自分を子供だと思ってる。甘えているわ。」
村の内外を分ける岩の裂け目をくぐると、護りを失った体に冷たい風が吹きつける。
自嘲して見上げた空は、快晴。
イルアンが雲の流れを読んで決めた、絶好の出立日和であった。
連絡船の出航まで、あと二十六日




