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第一話 全てはあの時から

奥館(おくだて) (こよみ)と申します。

本作は春の推理2024という企画で『メッセージ』をテーマに書いた作品です。

総文字数はだいたい25000文字の短編小説です。


限られた時間をこの作品へ割いて頂けることに最大の感謝を——。

「……それでは皆さま。加賀利(かがり)家、引いては我々の未来を祝して——乾杯」

「「「乾杯」」」


 大勢の歓声と共に、あちらこちらでガラスのぶつけ合う音が響き渡った。


 ジリジリと燃え盛るような暑さが際立つ8月のこと。広い空は晴天。湿気の混じった重い風が、開き切った障子を抜けて中庭から室内へと舞い込んでくる。

 庭に生えた松の木にはアブラゼミだかクマゼミだかが隠れており、数匹の鳴き声が幾重にも折り重なって大合唱を繰り広げていた。


「どうしたの優雨(ゆう)くん」


 後頭部から声をかけられ振り返ると、一人の女性と目があった。

 大きくクリッとした黒目に、毛先の揃った長い栗毛。真夏の紫外線にも負けない白い肌には水色のワンピースがよく映えている。


 いかにもおとなしそうな雰囲気を感じさせる女性は不思議そうに小首を傾げてこちらを見ていた。


「なんでもないよ。ただ、今日も暑いなって思って……」


 僕は中庭に目を馳せながら答える。


「そうだね」


 彼女も同意しながら、同じように中庭を見る。


 ——僕と彼女は一昨日の夜、正式に婚約が決まった。



         ******



 彼女の名前は加賀利渚(かがり なぎさ)。年齢は僕の一つ下の24歳。

 大学の登山サークルで知り合ったのが縁だった。



 僕は幼い頃に病気で母を亡くしており、父も僕が大学へ入学とともに亡くなった。

 近しい親戚は誰一人いなかったため、僕はすぐに大学近くに借りたアパートで一人暮らしを始めた。しかしバイトをかけ持ちしながらの毎日は大変で、これといった趣味が何一つできないまま、無為に大学生活を過ごしていた。


 そんな時、大学で知り合った友達がそれでは勿体ないと、あるサークルを紹介してくれた。

 なんでもそのサークルでは去年、恋人関係にあった男性を女性が殴り殺すという事件があったらしい。その事件はニュースで大きく報じられることとなり、サークルに加入していたメンバーも一気に辞める人が続出したのだという。

 これではまずいとメンバーの一人が手当たり次第に勧誘を始め、人から人へと伝達された末、僕に行きついたという経緯である。

 つまるところそれが、登山サークルだったわけだ。


 とはいったものの僕は登山の経験などなかったし、初めは強くお断りしたのだが、結局振り切ることができず加入することとなった。

 道具集めに資金不足など、問題は山積みだったが、サークルの先輩の援助のおかげで活動自体はそれなりに楽しむことができた。

 それにどうやら登山自体は僕の性に合っていたらしく、自然を楽しむという行為自体は僕を新たな山へと導く十分な理由となった。


 そしてその一年後に渚はやってきた。


 登山サークルの新たなメンバーとして紹介された際、僕は最初綺麗な女性だなという印象だけで、特に意識はしていなかった。

 彼女とかわす言葉はせいぜいがあいさつ程度。仕切りに彼女へとアタックを仕かけるメンバーをよそに、僕はずっと次の山のことばかりを考えていた。


 そんな彼女との関係が変わったきっかけは——そう、僕の名前についてだった。


「これ、何て読むんですか?」


 登山に参加するメンバーが次々に名簿へ記入していく中、ふと傍らに立っていた渚が話しかけてきたのだ。


 確かに僕の名前は少し変わっているため、今までにもよくそういった質問をされることが多かった。だからそれ自体はまったく不自然ではなかったし、彼女もそのうちの一人に過ぎないと思っていた。

 しかしそれからというもの、僕は彼女と言葉を交わす機会が増えた。僕から声をかけることももちろんあったが、それ以上に、渚から話しかけられる頻度が格段に増したように思う。


 そんなある日、僕は渚にどうしてこのサークルを選んだのかを訊ねた。

 女性メンバーは少なく、同期は誰一人いない。活動期間も多くはなく、お金がかかるのが難点。

 そんなサークルにどうして入ろうと思ったのか、僕はずっと疑問を感じていた。彼女の袖から覗く真っ白な肌が、登山とはあまりにも不釣り合いに思えてならなかった。


 すると渚は少し恥ずかしそうにしながら、


「実は私、実家が田舎の方にあって、昔から山で過ごすのが好きだったんです。でも大学に入ってからはそんな機会が全然なくて、それで少しでも山に近づきたくて、このサークルに……」


 と応えた。


 山に登る理由など人それぞれ。別に変だと思うことはなかったが、頬を赤く染めて語る彼女の表情を見て、僕はこの時初めてドキッとしたのを覚えている。


 それからというもの、僕たちの関係は完全に登山仲間となった。

 大学を卒業したあとも、お互い暇を見つけては一緒に山へ登った。近くの山をあらかた登り尽くしたあとも、ネットでそれなりの山を見つけては少し遠出をして自然を楽しんだ。

 場所によっては一泊することもあり、別にやましい気持ちがあったわけではないが、資金を少しでも浮かせるために同室を選ぶことも多くあった。

 そして次に登る山を二人で相談し合いながら、お互いの身の上話もその時語った。


 彼女の家系はとても歴史が古く、自分たちの家柄にとても誇りを持っているのだという。

 そのためか、よその人間に強い警戒心を抱いており、この家にふさわしくないと判断されれば誰であろうとすぐに追い返してしまうらしい。

 渚の同級生もそれが分かっているせいか、彼女に対してだけは一定の距離を保って接するようになった。クラスの友達とも学校で軽く話す程度が限界で、お互いの家に遊びに行ったりという経験も、彼女にはないのだという。

 そんなこともあり、渚はこれまでに一度も恋人ができた試しがないと語った。


「クラスメイトが羨ましいと思ったことは何度もあります。でもそれは、仕方のないことだということも理解しています。——これは、私の宿命だから……」


 彼女は少し寂しそうな顔でそう呟いた。


 他人のせいではなく、これは自分が生まれる前から決まっていたことであると彼女はいった。

 運命や巡り合わせとも違う。宿命であると……。


 僕はそんな彼女の姿を見て……。


 ——かつての自分に似ていると感じた。


 幼いころに母を亡くした僕は父と二人で暮らしていた。父はいつも深夜遅くに帰り、家ではいつも僕一人だった。

 朝起きると机には二千円が置いてあるだけで、父の姿はどこにもない。学校に行けば友達はいるが、持っていないゲームや漫画の話になると、いつも疎外感を感じていた。

 でもわがままをいうわけにはいかなかった。父が朝いないのも、夜遅くに帰ってくるのも、それは全て僕のためだとわかっていたからだ。


 そんな父も、もういない。

 長年の苦労が堪えたろうことはわかり切っていた。

 父は僕を一人社会へ送り出すと、少し早い休息を迎えた。


 今思えば、父がどれほどの思いで僕を育てていたのかがよくわかる。……いや、本当はかけらも理解していないのかもしれないが、想像くらいはできるようになった。


 ——でも、当時の僕にはそれができなかった。

 だから本当は思ってはいけないことなのに、どうしても頭の片隅には重く、ドス黒い感情が累積していた。

 もし父と母が生きていたら、もっと普通の家庭に育っていたらと何度想像したことだろう。何度友達に対して、醜い嫉妬心を燃やしたことだろう。

 今だからこそわかる。その深い嫉妬こそが、もっとも自分を苦しめていたという事実に……。


 そんな気持ちが、今目の前に座る女性ととても酷似していると思った。

 渚もまた、一般的な家庭とはかけ離れた暮らしをしてきたはずだ。友達もまともに作れず、寂しい思いをしたに違いない。

 だから僕は——。


 自然と彼女の手を握っていた。


 ほとんど無意識だったと思う。

 ただあの時は少しでも、彼女のために何かしてやりたいという気持ちがあったことは間違いない。子供のころを取り戻すことはもうできないけれど、今をより良いものに変えることくらいはできると、僕はそう信じた。

 だから僕の右手は勝手に、彼女の手に触れていた。


 しかし、とうの渚はあまり驚いたふうではなかった。それどころか、これをどこか待ち望んでいた様子さえ感じられた。

 僕はそれが彼女からのOKサインだと受け取ることにし、こうしてその夜、僕たちは初めて一つの布団で朝を迎えた。



 そして付き合い始めた数日後、僕はこれまでにない緊張感を強いられることとなった。


 この日も肌を焼き尽くすほどの暑い日だったことを覚えている。

 手に持ったハンカチが手放せないほどに、汗が体中から噴き出してくる。それが暑さのためか、緊張からくるものかなど、もはやどうでもいい。


 僕は彼女の実家へと挨拶にやってきた。

 彼女の話ではとても厳しい家系だと聞いていた。気に入らないと、早々に門前払いさせられるとも……。

 僕はとてもではないが格式がある人間とは言い難い——が、恥ずかしいとも思ってはいなかった。

 父と母はもういないけれど、僕が今こうして生きているのは間違いなく、二人のおかげなのだから。


 僕は深く息を吐くと、加賀利家の呼び鈴を押した——。

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