自費出版とレクイエム
自費出版という単語を見ましたね、思い出したんですよ。
そういえば祖父が自費出版をしていたなと。
―――妻の死は悲しくつらかった。娘の死はもっともっと悲しくつらかった。
前書き部分の一節なんですけど、内容は52歳の折に末期の胃癌が発覚し1年4ヶ月の闘病の末、亡くなった妻と
それから1年も経たずして次は再生不良性貧血で後を追うように24歳という若さで亡くなった娘の闘病記、ですね。
2年半で4人家族が半分になるという小説のような実話。
前半部分は祖父の手記、叔母の日記(遺品整理時に発見)からの抜粋や父の手紙。
後半は叔母の付けていた日記やメモ、詩と日記が途切れてからは祖父の手記。
―――二年半に及ぶ妻と娘の闘病は、家族全員の闘いでもあった。
家族一人ひとりが、お互いを思いやり、励まし合って力の限り闘った日日であった。
闘いの中には家族愛と多くの人人の温かい心があり、死には大きな神の愛があった。
この手記は、妻と娘に捧げるレクイエムであり、家族の闘争と心の軌跡の記録である。
―――前書きより抜粋
妻子亡き後、55歳で早期定年退職し東京へ進学していた息子も卒業。就職で福岡へ帰ってきた。
二人、暮らす中で祖父は少しばかりの心の余裕を取り戻し筆をとるにいたったようだ。
当時の祖父は妻へ病名は告げず、胃潰瘍だと伝えていた。
娘も「胃潰瘍の人のための食事」という本より料理を作りつつ看病を。
息子は大学進学へ向けての受験勉強、合格で母を喜ばせるために。
祖母は自分の病気が胃潰瘍ではないと気付いていたと思う。
祖父たちも祖母が自分の本当の病気に気が付いていることに、気付いていたと思う。
でも互いにそれに気が付かないふりをしている。
このような手記である。
闘病は心身ともに一進一退。
気弱になった祖母へ『君が言う「すみません」を「ありがとうに」変えてはどうだろうか?』とは祖父の言。
ここから自分も、できるだけ「ありがとう」を多めに伝えるようしている。
後編。叔母の残したメモ。
―――私、あまり生きないと思います。
持ち時間が少いと思います。
人の役に立ったことがありません。
ですから、せめて私が死んだら腎臓と角膜を提供したいと思います。
少しでも役に立って死にたい。
(誰か早くこれを見つけて下さい)
一九八一年八月二十五日 署名押印
※死亡直後に手帳から見つかり、遺志に応えることができた。
再生不良性貧血、白血病という方が聞き馴染みがあるかもしれない。
当時、治療法は発見されておらず主に輸血が治療だった。
薬の副作用で顔が丸くなってしまったことを見舞いに来た友人から「入院前よりも元気そう」と言われ傷付き嘆く場面がある。
炎症を抑えるべくおそらくはステロイド治療も行われていたと思われ副作用の辛さが窺い知れる。
本文に記載はないが、当時は婚約者がいたとのこと。
喪が明けてから結婚の運びだったのだろうが、病に侵され叶わなかった。
臓器提供も今ほどメジャーではなく、二十代前半…どのような思いで調べ、手帳に書き残したのか。
今でこそ免許証や保険証、マイナンバーカードの裏面に臓器提供の意思表示が記入できるので「はい」のところに◯を付けている。
明るく朗らかで聡明な、母校に教育実習にいけば生徒の人気者となるような人だったと父は言っていた。
骨髄移植があの頃にあれば…血液型は一緒だったからな、との呟きに返せる言葉はなかった。
祖父は晩年、わたしの兄が医師となり白衣を、わたしが結婚式で花嫁衣装を着るのを見るまでは死ねないと心臓の手術を決断した。
兄が五回生でちょうど病院実習にいき、わたしが二十歳のときだった。
実習生と成人式の振袖姿を見て、もう少しといったところだったのだろう。
虫垂炎で受験ができずに終わったかつての自身の目標を兄に、娘の花嫁姿を見れなかったことを孫娘に重ねていたのだろう。
祖父は、その手術で帰らぬ人となった。
―――ありがとう。今は全てに感謝
祖父の手帳に記されていた最後の言葉である。
日付は手術の前日だった。
あれから十五年。
兄は現役の小児科医師として働いている。
最近では小児科に加え、アレルギー科の専門医も取得し子どもも生まれた。
その子どもはおじいちゃんと誕生日が一緒だよ。
わたしはというと…まぁおじいちゃんが生きていたら今年で90歳か…を超えたあたりで存命だったらの歳を数えるのをやめた。
花嫁姿はいつになるやら。
まぁ…あれです。仕事中は有資格者だけ制服の色が白なので、こちらの方でひとつ何とかなりませんかね…。
自費出版の本、およそ100部ほどが親類やお世話になった方々へ配られたとのこと。
家に数冊残っており、そのうち一冊は自室にある。
存命時には寡黙な祖父から詳しい話は聞けないままであり、これらは父から聞いた話になる。
本の中での祖父は雄弁であった。
語彙力も言葉選びも到底、敵いそうもない。