もう、二月ですね。
二月六日。せっかくの日曜日も、彼氏もいない独身女性には、仕事疲れがずっしりと染み付いているだけで、嬉しさのかけらもない。
冬の朝特有の、ぱりっと冷えた空気の中で身体を起こす。思わず布団にくるまり直すのだが、スマホのアラームがそれを止めた。十二時だった。
午後まで寝っぱなしは、さすがになぁ……。
このアラームをセットした時と全く同じ見栄が顔を出して、わたしは身体を起こす。枕元に畳んでおいた半纏を羽織って、寝ぼけ眼で歩いた。キッチンで顔を洗う。化粧水を顔に馴染ませて、乳液は――まぁ、いいや。
最低限のギリギリ下をいく身だしなみを整えて、ようやく意識がはっきりする。しん、とすっかり冷えていく肌の感覚。
「そういえば」
一息ついたところで、思い出したものがあった。この前の節分で使わなかった豆を、SNSの教えに従ってハチミツ漬けにしたのだった。
冷蔵庫をあけ、ラップをかけたお茶碗を取り出す。豆まきをし忘れた結果、豆は茶碗でちょうどいいくらいに余ってしまったのだ。
「おぉ……」
黄金色をしたハチミツは、どろりと重い。それに氷づけにされたような豆たちは、ちょっとハチミツを吸って太ったようでぷっくりと薄皮を破っている。
たまにはSNSもいいことを言うものだ。
わたしはついでに缶ビールを取り出して、キッチンの水切りから箸を抜き取り、リビングへ。ローテーブルに持ってきたものを並べると、座り込んでテレビをつけた。当たり障りのないバラエティが流れる。
立派なパフェを目の前にするなんとかという女性リポーターを眺めながら、豆を口に運ぶ。噛み締めると、中からじゅわりと甘みが染み出してきて、なるほど、これは美味しい。カシュッとビールを開けて、喉の奥へと流し込む。
「ぷはぁ」
窓から覗くからっとした晴天が、「寝てなくても結局ズボラじゃないか」と責めているような気がしたが、知ったことじゃない。次の豆へと箸を伸ばす。
するとそこで、スマホの画面が通知を届けた。
『もう、二月ですね』
ゆみというアカウントからのメッセージで、それでもう、彼女がこの一言で伝えようとしていることがわかった。
実は、彼氏のいない私には、代わりに彼女がいる。
あれは初詣の日だった。気の置けない友人であった由美と一緒に出かけたいって、賽銭を投げ、甘酒をもらって帰った。紙コップに入ったそれは冷え切った指先をじんわりと温めてくれて、猫舌な私はそれをちびちびとやっていた。
そうしたら突然、一緒にちびちびやっていた由美が、甘酒をぐいと飲み干すではないか。彼女も私と同じに猫舌であったはずで、実際ちょっと涙目になっていて。一体どうしたんだと驚くうち、彼女に告白されていた。
「アタシ、実は先輩のこと、ずっと好きでした!」
「そりゃ、私も好きだけど」
「そうじゃなくっ! 恋愛的な意味です!」
中学生の頃、先輩後輩として知り合って、それ以来の仲であったけれど、全くもって青天の霹靂だった。当時の私に同性愛というものは、自分ごととして考えにものぼったことのないものだったから、咄嗟に返事ができなかった。
そしたら、それをどう解釈したのか。由美は言ったのである。
「もし、抵抗があるのなら、一ヶ月でいいんです。一ヶ月だけお試しで、付き合ってもらえませんか?」
すでに空っぽの紙コップを投げ捨てて、私の腕に縋る由美。甘酒がこぼれそうになるのを気にする私を、それでも真摯に見つめてくる。
……まぁ、一ヶ月なら。
「いいよ。付き合おう」
「えっ、いいんですか?」
「一ヶ月でしょ。別にいいよ」
その時の由美の表情ったらない。アサガオが日の出とともに開くのを、早回しに見せられた気分だった。おかげで、私は自分がとてもいいことをした気持ちになっていた。久々の甘酒に機嫌が良かったから、というだけなのに。
そして、今は二月六日。一ヶ月は余裕で過ぎている。テレビの中の芸人は呑気に、「まだまだ春の陽気は来ないですねぇ」と言っていた。
私は「そうですねぇ」と呟きながら、スマホの通知を指ですっとずらして、見えないようにした。
別に、楽しくなかったわけじゃない。むしろ、由美とカップルとして過ごす日々は、新鮮で甘々だった。
なにせ、私と由美の仲だ。中学時代から社会人たる今に至るまで関係が続いているのは、単純に気が合うからである。その上で由美は私を惚れさせようと、私の好みを的確についてくる。
新しいコスメが出たんですよとウインドウショッピングに連れ出されたと思えば、それは彼女の肌色には合わない、私向けのものだった。
デートの最中にふと、今日はイタリアンの気分だなと呟いたら、いつのまにかイタリアンレストランに入っていた。
彼女の家で映画を観て、その時用意されていたのはコメディ風味のライトなものばかりだった。
私は兎にも角にもチヤホヤされて、それが別段嫌な気分でもなかった。適当な私だから、もう少ししたら本当に、由美に惚れてしまうだろう。
けれども。私は箸を置いた。思考の穴埋めにひょいひょい食べ続けたハチミツ漬けの甘さが、喉に張り付いてジリジリとする。ビールでぐいと洗い流したところで、もうこれ以上食べようとは思わなかった。
どうしよう、これ。
お茶碗の中には、まだ結構な数の豆が沈んでいる。食べきれるだろうか。毎日ちょこちょこ食べるには味が単調すぎるし、しばらく冷蔵庫で寝かせておいたら、そのまま存在を忘れそう。私はそういう不誠実な性格をしている。
しばらくバラエティ番組をぼーっとながめていた。そうしていれば、どこかで投げやりな自分が現れて決断してくれるかと思ったが、ハチミツでいっぱいの茶碗が目の前にあると、こぼしてしまった時が怖くて落ち着かない。
なら、捨ててしまおう。
どうせ、節分用のやっすい豆だ。ハチミツだけはもったいない気がしたけど、それはあれだ、豆だけ捨てた後、コーヒーにでも溶かして飲めばいい。
私はスマホを手に取った。捨てるとはいえ、なにもゴミ箱に食わせなければいけないわけでもない。
『うち来る? 美味しいスイーツがあるんだけど』
返信はすぐに来た。
『行きます』
ずっと画面を見ていたのだろう。ずっと私に期待していたのだろう。今頃、大慌てで外行きの服を引っ張り出して、準備しているのだろう。
「なんで私なんか好きになるのかね」
ローテーブルに手をついて、重い気持ちごと立ち上がる。ハチミツの甘さを中和するほどの、とびきり苦いコーヒーを淹れるのだ。