第5話 悪魔の囁き
深夜の工場地帯。
ひと気の途絶えたその場所を、汚れた背広姿の男が走っていた。
片足を引きずる男は、しきりに背後を確認している。
顔は恐怖に歪んでいた。
三十メートルほど後方に拳銃を持つ呉橋がいる。
大股で進む呉橋が発砲した。
放たれた弾は男の後頭部に命中するかと思いきや、不可視の力に弾かれる。
そこに防弾ガラスでもあるかのようだった。
命拾いをした男は悲鳴を上げる。
「んひぃっ」
弾みで転んだ男は、すぐに立ち上がって逃げる。
よほど疲れているのか、呼吸は乱れ切って動きも鈍い。
男は呉橋に向けて怒鳴る。
「も、もう追いかけてくるなよ! しつこすぎるんだよっ!」
「お前が内通者である以上は見逃せない。必ず殺す」
呉橋は冷たく宣言し、またも拳銃を連射する。
いずれの弾も不可視の力に防がれるが、そのたびに男は神経質な声を上げて喚いていた。
攻撃に失敗した呉橋は残念そうな様子もなく、一定のペースを保って後を追う。
両者のやり取りは一週間前から続いていた。
警察署襲撃の内通者である男は、それを突き止めた呉橋に追跡されている。
当初、男は呉橋の抹殺を試みたが、失敗どころか手痛い反撃を貰う羽目になった。
Aランクのサイコキネシスを持つ能力者でも、時間稼ぎと共に逃亡生活を送るのが限界だったのだ。
むしろ呉橋を相手に一週間も逃げ続けられた技能こそ評価されるべきであり、男の優秀さを何よりも物語っていた。
ただし、そんな男も次第に策を失って窮地に追いやられ、いよいよ殺されそうな局面にまで至っている。
男は近くの工場へと駆け込んだ。
施錠をサイコキネシスで破壊し、さらに追跡できないように扉を歪めて固定する。
彼ほどの能力になると、これくらいは容易なことであった。
男は埃まみれの室内に顔を顰めながら進む。
彼は事務室を発見すると、電気を付けずに漁り始めた。
見つけたペットボトルを開けて中の水を浴びるように飲み干す。
ついでにスナック菓子も鷲掴みにして食べた。
この数日間、常に追跡されているせいで満足な飲食ができていなかったのだ。
ストレスを加味せずとも、心身の消耗は甚大である。
肉体に栄養を与えれば、弱った能力も多少は回復するので有効な手だった。
特に男のサイコキネシスはそれが顕著なのだ。
頭が回らなくなるほど精度と力が低下する。
そこまで見抜いた呉橋が、意図的に衰弱させたのであった。
男は暗がりの中で座り込んで舌打ちする。
「ふざけんなよ、くそが……」
膨れ上がる焦燥感が男を苦しめていた。
どれだけ逃げても呉橋が追ってくる状況に絶望しているのだ。
本人は認めたくないが、既に理解していた。
男は優れた能力者であると自負しており、それは実際に間違っていなかった。
一方で過度の能力至上主義者で、無能力者を蔑む傾向にあった。
種という単位で異なる存在なのだと見なしていた。
能力の強弱はともかく、完全な無能力者は珍しい。
全人類の中でも一割未満と言われている。
普段は能力を使わない者も、出力が非常に小さかったり、消耗が大きすぎるという観点から控えているだけに過ぎない。
男はこういった弱能力者をも見下しているので、呉橋などは人間扱いしていなかった。
ところが現在、男はその相手に殺されかけている。
まさか無能力者に追い詰められるなんて。
男は未だに信じられなかった。
自分が本気を出せば、人間など簡単に木端微塵にできる。
同格のAランクでも状況次第で有利に立ち回れる。
攻防自在なサイコキネシスは彼の誇りだった。
その誇りをあっけなく砕かれた。
陰湿な処刑を繰り返す無能力の刑事が、すべて台無しにしたのである。
許し難い事実であるものの、男には報復の手立てがなかった。
だからこうしてその場しのぎに近い行動を取っている。
休息する男は微かな物音を聞いた。
窓が拳一つ分ほど開いている。
男は怪訝な顔をした。
飲食に無我夢中であったが、彼は窓が閉じていることを確認していた。
勝手に開くわけがない。
彼が嫌な予感を覚えたその直後、開いた窓の隙間から手榴弾が投げ込まれた。
男はぎょっとして固まる。
この至近距離だ。
逃げるだけの猶予はなかった。
やむを得ずサイコキネシスによる盾を作り、炸裂した熱風と破片と防ぐ。
「うごっ!?」
爆発で半壊した事務室から男が避難する。
彼は倉庫内の広いスペースを歩いて逃げた。
押さえた腹からは出血している。
今の手榴弾で負傷したのではない。
能力で止血していた傷が開いたのだった。
男がコンテナの陰に隠れると、どこからともなく呉橋の声が降ってくる。
「サイコキネシスは脳を酷使する能力の代表格だ。したがって疲労に伴う精度の低下が著しい。一週間の追跡で極度の疲労を負ったお前は、防御壁の常時展開も困難になっている」
「うるせぇッ!」
男は叫んで能力を行使した。
事務室が真上から圧縮されて鉄とコンクリートの板と化する。
まるで恐竜にでも踏まれたかのような状態だった。
さらに男は手当たり次第にサイコキネシスを発動し、壁や天井やコンテナを次々と吹き飛ばしていく。
姿の見えない呉橋を狙っているようだが、収穫は無いようだった。
その証拠に別の場所から呉橋の声が発せられた。
「傷の処置に能力のリソースを割かざるを得ない。だから正面切っての戦いでも強気には出られない。派手な攻撃だが、大雑把すぎて無意味だな」
男は即座にサイコキネシスで声の方角を破壊した。
フォークリフトが宙を舞って巨大な機材が回転して壁に突き刺さる。
しかし、そこにも呉橋はいなかった。
男は腹を庇いながら怒鳴る。
「卑怯者が! 姿を見せろ!」
「一週間で何度も負傷させた。サイコキネシスで押さえるのも限界だろう。苦痛で動けない身体も能力で動かしているな。お前に当てた弾には微量の毒を混ぜていた。意識が朦朧とするのは疲労のせいだけではない」
「うおおおおおおああぁぁァァッ! ふっざけんなァッ!」
激昂した男が滅茶苦茶に能力を乱発する。
工場全体に破壊の波が広がろうとしたその瞬間、男の腹と胸に穴が開いた。
飛来した銃弾が命中したのである。
サイコキネシスの防御は機能していなかった。
浮かんでいた物体が一斉に落下して超常現象が止まった。
男は呆然とした顔で崩れ落ちる。
苦悶する彼は流れ出す血液を懸命に食い止めにかかった。
体内に残留する弾丸をサイコキネシスで排出しつつ、同様に傷を塞いで固定する。
どちらも繊細な制御を要する作業だが、男は無事にやり通してみせた。
そこに呉橋が現れる。
工場内に入ってきた彼は、複数の小型スピーカーと拳銃を持っていた。
男が休息する間、スピーカーを各地に設置しており、そこから声を発することで居場所を曖昧にしていたのだ。
極限状態の男にはその簡単なトリックが見破れなかった。
呉橋は男から十メートルほどの距離で足を止める。
一週間の追跡にも関わらず、彼は疲労とは無縁だった。
それどころか、どす黒い狂気的な気迫が漲っている。
常軌を逸した執念深さは、彼の消耗を打ち消していた。
無表情の呉橋は辛辣に指摘する。
「攻撃の瞬間は防御が疎かになる。この系統の能力者の典型的な弱点だ」
拳銃の照準が男を捉える。
呉橋の瞳は、殺害の意志によってぎらついた光を宿していた。
同時に確かな冷静さも兼ね備えており、男の観察にも費やされている。
観察の結果、呉橋は確信をもって告げる。
「応急処置のリソースで精一杯になったな。これで攻撃も防御もできない」
「ま、待ってくれ! 呉橋、あんたにいい話がある」
男は早口で言う。
脂汗を垂らしながら、彼は震える声で提案した。
「あんたをクラウンに紹介するよ。警察よりずっと向いているはずだ。しかも遺伝子操作で後発的に能力者になれるんだぜ。無能力者のあんたにはぴったりだろう」
男は笑みを浮かべてそう主張する。
呉橋は無反応だった。
拳銃が下がることはない。
それを見た男は慌てて付け足す。
「クラウンに来たらすぐにでも幹部対応になるだろうな。警察みたいにお前を疫病神扱いすることはない。なあ、能力者殺しの功績をもっと良い組織で活かさないか。きっと歓迎されるはずだ」
男は荒い呼吸で必死に説得する。
彼は懇願するように尋ねた。
「……どうだ?」
「断る」
即答した呉橋が拳銃を発砲した。
弾倉内の弾がすべて男の頭部を速やかに破壊する。
これでサイコキネシスの暴発を防ぐことができるのだ。
死に際の能力が最も強力であることを呉橋は知っていた。
呉橋は男の死体に近付き、背広の裏から端末を取った。
それをしばらく操作した後、自前の端末でどこかに連絡を取る。
相手はワンコールで応じた。
『クレちゃん、どうしたのさ。一週間も無断欠勤なんて』
「水上さん、データを見ていただきましたか」
『面識のない同僚の人から来たけど、これってクレちゃんが送ったの?』
「はい。至急、暗号の解読をお願いします。クラウンに繋がる重要事項です」
呉橋は詳細を説明せずに伝える。
水上は呆れに近いものを覚えつつ、彼を称賛した。
『君は本当に行動派だよね。ちなみに解読した分は上に提供しても大丈夫?』
「ええ、警察が駆け付ける前に終わらせますので」
通話を切った呉橋は、倉庫内で武器となる物を集め始める。
彼の思考は、クラウン壊滅の段取りへと移行していた。