聖域を犯す者-4
「聖王。悪いが、命を捨てて時間を稼いでくれ」
「何をするつもりだ?」
「それが知りたければ、死なずに時間を稼げ。まあ、時間さえ稼げば、奴を殺す事だけは約束しよう」
「無理だ。私一人では……」
「綺麗に死のうとするな聖王。最後まで足掻いで、その聖典が燃え尽きるまで戦え」
「……」
最早、聖王の聖典魔法はゼノスに通用しない。<聖典魔法 第九十五章>が破壊された時点で、聖王に戦う意志はない。
<聖典魔法 第九十五章>以降の魔法は、今の聖王では使えない。つまり、<聖典魔法 第九十五章>が切り札だった。
プトレオスが言う「聖典が燃え尽きるまで」とは、聖典魔法を全て破壊され尽くされるまで、戦い続けろという事。
聖王は戦士ではない。勝てないと分かった上で、挑み続ける苦しみは理解出来ないだろう。
しかし……。
(それが、我が運命ならば!)
「<聖典魔法 第七十四章> 聖典の翼」
聖典の鎧を身に纏うその背中に、光り輝く両翼が広がる。
光の翼をはためかせ、光の羽が宙を舞う。
人を越えた領域へと足を踏み入れた聖王は、更に聖典魔法を発動させた。
「<聖典魔法 第九十三章> 神よ。天の輝きを灯さんとする人の子に、再臨の慈悲を与えたまえ」
聖王の頭上に、光の輪が出現した。
その瞬間、聖王は完全に人の領域を逸脱した。
頭上に燦然と輝く光の輪。背中から生えた光の翼。聖なる鎧に身を纏い、聖なる剣を構えるその姿は、神の使いたる天使その物。
「それでいい」
「私は私の役目を果たす。だから……約束は果たしてもらうぞ」
「ああ。約束は果たす」
それ以上、プトレオスと聖王が言葉を交わす事はない。
後は、各々がその役目を果たすだけだ。
光の翼をはためかせ、宙を舞う聖王。ゼノスを頭上から見下ろし、その様を見てゼノスは鼻で笑った。
「ふんっ。今更翼を生やした所で、お前に何が出来る?」
「私は私のすべき事をしているだけだ」
「俺に殺される事か?」
「お前に裁きを下す事だ」
ゼノスの頭上から、光輝く剣を振り下ろす聖王。
先程までよりも明らかに高出力な一振りだが、ゼノスは余裕を持って受け止めた。
片腕で受け止め、上から押さえつけられている状態で、ゼノスはそれら全てを押し返して跳躍した。
聖王の魔力量は跳ね上がっている。しかし、それでもゼノスが勝っている。
(くっ!やはり!力では勝てないか!)
「どうした?そんなもんか!」
光の翼をはためかせ、ゼノスの攻撃を何とか逸らした聖王。
しかし、ゼノスの勢いを利用して攻撃を逸らした為、頭上を取られた。
そうなれば当然、ゼノスの刀が振り下ろされる。
聖王に興味を無くしているゼノスは、容赦なく聖王を殺しにかかる。
「<天剣二刀流・武神海割り>」
振り下ろされた一刀は、それを受け止める為に聖王がかざした聖剣をいとも容易く両断した。
勢いを落とす事無く、聖剣を砕いた刀は聖王の鎧へと届いた。
上空からの落下速度に加えて、ゼノスの振り下ろした刀の勢いによって、聖王は大地へと叩きつけられる。
ゼノスの一撃をまともに受ければ、少なくとも致命傷は避けられない。
それは、聖典の鎧を身に纏っていても同じ事。
上空から叩きつけられた聖王を受け止めた大地は、大きな窪みとなって削られていた。
その窪みの中心には、羽が千切れ、鎧が砕かれ、赤い血が周囲へ飛び散っていた。
誰が見ても、聖王の死を確信するだろう。
「これで、聖王は終わりだ。後はお前だ」
「まあ、そう慌てるな。聖王はまだ死んでいない」
「は?今の一撃で、間違いなく死んだ……」
その直後、背後で凄まじい輝きがゼノスを照らす。
光の熱で肌が焼ける感覚に、振り返り様に刀を薙ぎ払うゼノス。
しかし、その刀は空を切った。
それでも、目が開けられない程の閃光の中で、ゼノスは確かに聖王の姿を捉えた。
「確実に死んでいた……まさか、蘇ったのか?」
<聖典魔法 第九十三章>は、発動状態で受けた致命傷を完全修復する魔法。
聖王が息絶える直前、ゼノスから受けた傷は瞬時に回復。聖典の鎧も光の翼も、全てが元通りとなった。
しかし、<聖典魔法 第九十三章>を使えるのはたった一度だけ。
聖王の意志とは無関係に、聖典が姿を現した。
そして、第九十三章のページは、青い炎によって燃え尽きた。
たった一度の神の奇跡。その果てに、聖王は最後の一撃を繰り出した。
「<聖典魔法 第九十章> 全ての悪、全ての闇を払いし裁きの剣よ。今こそ、彼の者に裁きを下したまえ!」
聖王が天に掲げた右手に、これまでとは違う白い光が収束していく。
やがて白い光は、天へと届く柱となって裁きの時を下す。
聖王が右手を振り下ろし、その白き光の柱をゼノスへ落とした。
しかし、ゼノスは一歩も動かなかった。避けようともせず、迎え撃とうともせず、ただ黙ってその光を受け入れた。
「っ!?」
「やはりそうか……この魔法は、悪性が強ければ強い程、相手にダメージを与える魔法だ」
(馬鹿な!?神は、この男が裁きの対象ではないというのか!?)
<聖典魔法 第九十章>はゼノスの推察通り、その者が悪である程威力を発揮する。
対象が悪かどうかは、使用者が判決を下す訳ではなく、神へと委ねられている。
ゼノスは凄まじい閃光の中で、全身に痛みを受けながらも、余裕の表情を保っていた。
その程度のダメージしか与えられないという事は、神はゼノスを完全な悪だと判決を下さなかった事になる。
それは、聖王にとって最大の計算違いだった。
「俺が悪ではないという、理由が分からないか?」
「……」
「俺はただ、戦いを求めているだけだ。その過程や結果で、命を奪うのは当然の事。そして、戦いは悪ではない。何故なら、お前達も何かを守る為に、戦いという手段を取るからだ」
「貴様は……無関係の人間でも容赦なく殺すだろう。それは紛れもない悪だ!」
「ああ、多分この痛みはその分なんだろうな。ただ、勘違いするな。俺は、純粋に強者との戦いを求めているだけだ!雑魚を殺して、愉悦に浸る悪ではない!」
ゼノスが大地を蹴って、頭上から見下ろす聖王へ跳躍した。
凄まじい速度で迫るゼノスに対し、聖王は聖典を出現させ迎撃の構えに入る。
しかし、それよりも速く、ゼノスの剣が届いた。
「今度こそ終わりにしてやる」
<天剣二刀流・武神天砲>
ゼノスが突き出した刀は、聖典の鎧を容易く砕き、聖王の肉体を貫いた。
腹部に刺された部分から、赤い血が広がる。
口から血を吐き出しながらも、聖王は聖典魔法を発動しようとするが、それはゼノスによって阻止された。
突き刺した刀の手首を捻り、聖王の頭部へ目掛けて切り裂いた。
「がはっ!?」
腹部から首へと切り裂かれた聖王は、盛大に赤い血を噴き出して、地上へと墜落した。
その身を纏う聖典の鎧は砕け散り、光の翼も消え去った。
自身から噴き出す赤い血に溺れながら、聖王は今にも閉じられる眼をプトレオスへ向ける。
それは、自分が役目を果たしたかどうか。その結果を見届けた聖王は、心の中で笑みを浮かべた。
その笑みは、己の役目を果たしたという安心感。
最早痛覚すら機能していない聖王は、その眼に映る光景を脳裏に刻み込んで、眠りに就いた。
「よくやった聖王。後は、あの世で見ておけ」
その時、ゼノスの全身に悪寒が走る。
それは、数多の戦いを経験したゼノスが、過去何度か感じた事のある死の直感。
強敵との戦いの中で、自分の命に届き得る一撃は見逃す訳にはいかない。
その経験から身に付いた危険察知能力。
しかし、それは強者を相手にした時の事。プトレオスは、ゼノスにとって強者に当てはまらない。
自分の感覚を疑いつつも、ゼノスはプトレオスを警戒する。
「何をするつもりだ……」
「言ったはずだ。真の力を教えてやると」
プトレオスを纏う黒い炎が燃え盛り、周囲は黒い火の海と化している。
そして、骨だけとなった細い右手を広げ、ゼノスへと向けた。
「これが、お前では決して辿り着けない境地だ」
眼球の無いはずの髑髏の目の奥に、青い炎が灯され、プトレオスは扉を開けた。
「異界接続……」
「っ!?」
聖なる国を覆う闇の帳。大地を埋め尽くす黒い炎。人の熱を奪う極寒の風。
それは紛れもない死の感覚。震えが止まらないはずの状況で、ゼノスは笑みを浮かべていた。
「まさか!お前がそれを使えるとはな!認めてやろうプトレオス!お前は、退屈しなさそうだ」
「随分と余裕だな」
「五百年前、<異界接続>で召喚された悪魔を見た時から、ずっと戦いたいと思ってたんだ!お前には感謝しないとな!」
「悪魔?お前は私がそんな物を召喚すると思っているのか?」
「は?」
「知っているかゼノス。冥界には、悪魔を超える化物が居る事を」
プトレオスの肉体が、黒い炎によって少しずつ削られている。
これは、プトレオスにとって当然の事。本来、この世界に存在する事が許されていないプトレオスの魂が、冥界の扉を開いた。
黒い炎は、プトレオスの魂を本来あるべき場所。冥界へと連れ戻している。
(それでいい。あいつを召喚すれば、全て終わる)
「<冥将タルタロス>」
プトレオスの背後に、巨大で重厚な黒い扉が出現した。
その黒い扉を目にしただけで、ゼノスは全身から悍ましい程の嫌悪感を感じた。
この世界に生きる一つの生命として、黒い扉に対して拒絶反応を起こしている。
「何だ……あれは!?」
しかし、その黒い扉はあくまで扉でしかない。この世ならざる、冥界の存在を呼び寄せる為の扉。
その黒い扉が開かれ始めた。扉から漏れ出す黒い風を浴びた瞬間、ゼノスの全神経は死を直感した。
このままでは、確実に死ぬ。全身から発せられる危険信号を受けても、ゼノスは体を動かす事が出来ない。
そして、その黒い扉が完全に開かれた時、それは姿を現した。
「なっ!?」
「終わりだゼノス。お前の戦いは、ここで終わる」
それを悪魔と呼ぶには、あまりにも常軌を逸していた。
悪魔を越えた存在。全身を闇の鎧に包んだその巨体は、優に十メートルを超えていた。
だが、体が大きいだけでゼノスは恐れない。それでも震えが止まらないのは、生命としてその存在に抗えないと本能が訴えているから。
決してこの世に存在してはならない、絶対的な死の象徴は、右手に持つ巨大な黒い剣を振りかざす。
そして、ゼノスは理解した。その剣が振り下ろされた時、自分は死ぬのだと。
(ふざけるな!これは、戦いじゃない!俺が求めている戦いは……)
絶対的な死の直感。それを前にすれば、多くの者が絶望と共に諦めて死を受け入れる。
しかし、それはゼノスに当てはまらない。
「何をしても、お前は死ぬ」
「俺は認めねえ。これは、戦いじゃない」
「いいや、これも戦いだ。まあ、お互いこの世からいなくなるんだ。あの世で会おうじゃないか」
「お前一人で、あの世に逝ってろ!」
死が満たす空気を肺に取り込んで、大きく息を吐いた。
全身を震わす死の恐怖を、怒りと精神力で上書きし、刀を強く握り締める。
「<天剣二刀流・奥義>!」
死の剣を振り下ろさんとする存在に、正面から立ち向かうゼノス。
生涯最後と覚悟した一撃は、迫り来る死の剣に放たれる。
あと一歩、ゼノスと死の剣が振り下ろされる直前、突如としてゼノスの眼前が閃光で埋め尽くされた。
「「っ!?」」
ゼノスとプトレオスは、突然の出来事に理解が追い付かない。
しかし、その光が消えたと同時に、プトレオスが召喚したはずの<冥将タルタロス>は姿を消していた。
そして、それと同時に聖なる国を覆う闇の帳が弾け飛び、死の空気が完全に消え去った。
「な、何が……」
「そうか!やはりお前だったのか!」
「っ!?」
プトレオスの声に反応して視線を向けると、黒い炎に燃やされ灰となろうとしている状況で、空を見て笑っていた。
あと数十秒もすれば、完全に消滅する。ゼノスを殺す事も出来なかった。
それにも関わらず、プトレオスは歓喜を露わにしている。
「何を言っている?」
「ふはははは!そうだ。お前には理解出来ない。あの瞬間、誰が、何の為に、何をしたのか。お前では決して、辿り着けないだろう。それが、私とお前との差だ」
「……」
「喜べゼノス。お前は死なずに済んだ。つまり、お前の勝ちだ。そして、私も勝利を得た。聖王との約束は果たせなかったが、最後の最後に、この世界の真実へ辿り着いた。私はそれで満足だ」
プトレオスの細い骸骨の体が、黒い炎によって燃え尽きようとしている。
黒い炎が首元まで燃やして、最後には髑髏を炎で覆った。
その魂が冥界へと誘われる感覚に浸りながら、プトレオスは幸福に満ちていた。
(やはりお前だったか……エリオ・リンドハルム)
そして、黒い炎が完全に燃やし尽くし、プトレオスの遺体は消滅した。