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少年秘密警察の日常  作者: 家宇治克
夢幻絵画盗難事件
79/109

6話 絵画盗難捜査

 ······ああ、痛いわぁ。


 杏はソファーに寝転がり、目に蒸しタオルを乗せていた。

 目を洗い、顔全体を洗って薬剤を流し切ってなお痛みは引かない。充血した目は掠るそよ風にさえ悲鳴をあげ、タオルで温めれば脈打ち熱を帯びる。

 かれこれ一時間が経とうとしていた。

 杏はショックを受けていた。容疑者にスプレーをかけられたことではない。逃げられたことだ。


「·········足には自信あってんねんけどなぁ」


 そう言ったところで逃げられた事実は変わらないし、逃がしたことは現実だ。

 悔しさを噛み締めていると、控室のドアが開いた。

 疲労が分かるため息が聞こえ、向かいのソファーに腰掛けた。

「スポーツドリンクなかったけど、ひとまず水飲んで。走って疲れたでしょ」

 来場客の避難を終えたひととせは大きく伸びをして、電話をかけ始めた。

「今、鑑識来たよ。楽になったらちょっと来てくれる? ······あ、もしもしお疲れ様です。ひととせですけど───」


 杏はテーブルの上の目薬を探す。ペタペタとテーブルを触り、目薬を見つけると両目に差して体を起こした。

 もらった水に1口つけて、仕事に行こうとするひととせと控え室を出た。ひととせは心配そうに顔をのぞき込んだ。

「大丈夫? 無理しなくていいよ?」

「ちょっと痛いだけや。ちゃんと見える」

 ひととせは「そっか」と言い、前を向いた。


「とりあえず、署の方に連絡したから。長谷ながや警部は来れないけど、別の人が来るらしい」

「せやの? まぁ、事件に詳しいんなら誰でもええけども」


 単なる警備から大惨事になり、疲れが一気にたまったものの、杏たちはスイッチを切り替え現場に向かった。


 ***


 美術館──絵画展示コーナー


 盗難事件現場と化した絵馬専用展示コーナーは既に非常線が張られ、鑑識が調べを進めていた。絵馬はその様子を天井のシミでも見るような表情で眺め、暇そうにスケッチブックにデッサンを残す。

 杏たちが非常線を超え、鑑識の冷たい視線を浴びながら現場入りすると、新戸が指揮を執っていた。


「あれ? 新戸さんが指揮官ですか?」

「そうですが。何か問題でも?」

「いえいえ、警備部の新戸さんが仕切るのは何だか不思議で。てっきり刑事部の方が来ると思ってましたから」

「私も連絡したんですけど、『元刑事部所属だったなら任せられる』という上司のめいですので」


 新戸は『自分は頼れる部下である』と聞こえる言い方をしていた。だが、それは『自分のミスは自分で拭え』という事だ。杏もひととせも意図を理解している。分からない方がおかしいくらい。新戸も分かっているが二人の手前、言いにくいのだろう。

 ひととせは「そうですか」と、一言残すと新戸を横切りすぐ仕事に取りかかった。

 杏も手袋をつけて現場を見渡す。


 絵画の横に警備員が二人。

 目に見える位置にカメラが二台。点在する植木の隙間に隠したカメラが三台。防犯ネットの上に隠したカメラが一台。

 観覧通路に警備員それぞれ二人。

 作動した防犯ネットとセンサーを見て、杏は深く息を吐き出した。


ざっっつやなぁ」


 大事な絵画にケースをつけることもせず丸腰で、警備員は二人だけ。複数犯だった場合を想定していないのが丸見えな挙句、ネットの飛距離もカメラを塞がれることも計算していない。

 自分なら容疑者と同じ方法で絵を奪ったと思う。他の方法だって手足の指を全部足しても足りないくらい思いつく。それくらいに厳戒な警備に大穴が開いていた。

 新戸に「ネットはどこいってん?」と聞くと、現場の隅でもがく警備員を指さした。よく見てみると二人いる。



「······ベテランか?あれがベテランなんか?」

「一応十年以上経ってますけど······」



 新戸もさすがに想定外だったらしい。

 ひととせはスプレー缶を拾い、メーカーやタイプをメモにとった。だがすぐ気づいた鑑識官が奪い取ってしまう。

 ひととせは残念だと割り切って、他の証拠品を確認するが尽く邪魔が入り、呆れて首を振った。

「ホント、嫌われてるなぁ。情報が手に入んないや。これじゃあ仕事にならないぞ」

「ほんまそれ。大して仕事出来んくせになんで偉っそうにしてんねん」


 不満を募らせていると、少秘警からの応援が来た。杏とひととせは喜んで振り返ったが、その人物に顔を引き攣らせた。


 少秘警において、殺人であれ盗難であれ、『事件』となると刑事課の担当に切り替わる。だが少秘警全体の人数が少ないため、その場にいた人材に刑事課人員又は、助っ人経験者を導入することがある。故に事件が発生しても安心感があるものの、派遣される人によっては───




「はっはっはっ! 白昼堂々事件を起こすとは、肝が据わったやつよのぉ!」




 ───不安しかない。


 陽炎が手袋をつけながら非常線を越えてきた。杏が綺麗な敬礼すると、「よいよい! 敬礼なぞする必要ないわ!」と頭を豪快に撫でた。強くも優しいその撫で方は父親を連想させ、歯がゆくも嬉しい気持ちにさせる。

 ひととせは一礼し、陽炎に声をかけた。

「お疲れ様です。まさか副署長が来られるとは思いませんでした」

「おぅひととせ! 何じゃ、面倒なことに巻き込まれたもんじゃな」

「ええ、本当に困ってるのは絵馬くんですけど」

 ひととせはチラッと後ろを向いた。そしてぽっかりと口を開けた。

 そこにいたはずの絵馬がいなくなっていた。陽炎も辺りを見回し、「おらんな」と呟く。

「事情聴取くらいしたいんじゃが」と頭を搔く陽炎から杏は離れ、隣の盛大に落書きしていたコーナーに向かった。


 原色系のペンキが彩る壁をじっと見つめる。

 目が眩む色の情報量に混乱するが、目を擦って探した。黄色くなった壁の隅にスケッチブックが投げ出されていた。黄色に一点だけ赤が浮いている。杏が手を伸ばすと、着古されて薄くなった生地に触れた。そのまま人参を引っこ抜く要領で力を入れると、絵馬が後ろにバランスを崩した。

 案の定、その手には筆が握られていた。

「何してんねん」

「······修正?」

「事情聴取あるんやで。あっちに来てくれな」

「事情聴取?······面倒くさそう。帰る」

「帰すかぁ!」

 感情のこもっていない声を出す絵馬を無理やり引きずり現場に戻ると、陽炎は「そこかぁ」と笑って絵馬の頭を撫でた。

 杏は深いため息をつき、口頭で事のあらましを報告する。


 午前十一時三十八分

 展示ブースにおいて不審人物がスプレー缶にて何らかの薬剤を散布。絵画を強引に剥ぎ取った後に逃亡。規模はこのブースのみで、怪我人はなし。


「容疑者はどうした?」と陽炎が問う。

「催涙スプレー使われまして···」と杏は申し訳なさそうに答えた。

 陽炎はうんうんと頷いて笑った。



 ──やるのぉ。犯人。

 ──褒めんといて下さい。捕まえる相手です。



「避難は誰の指示じゃ?」

「あ、俺です。すぐそこの避難口から」

「よしよし! ようやった! 迅速な対応実に結構!」

 陽炎はひととせの頭をひとしきり撫で回すと、絵を飾っていた壁に近づいた。

 しかし、鑑識官の一人がささっと壁の前に立ち、絵のあった周りを調べ始めた。

 仕方ない、と諦めて床に散った鉄錆色の粉を拭き取ろうとするが、これも鑑識官が先に採取して持って行ってしまった。



「嫌な餓鬼がきじゃのぉ」



 陽炎は頬を膨らませ、嫌味を吐いた。

 そして辺りをもう一度見回し、新戸の横に立った。新戸はあからさまに嫌な顔をしたが、陽炎はお構い無しに話しかける。

「警視庁警備部の新戸殿とお見受けした。今回の指揮官はお主じゃろう。指示か否かは問わんものとして、部下や同僚のあの態度をどう思われる?」

 新戸は平然として答えた。



「至極正しいと思います」



 ──しばいたろうかな。

 杏が拳銃に手をかけると、察したひととせがそっと手を払い除ける。目配せで「副署長なら大丈夫」と言い、見守るように促した。


 大丈夫? 何が大丈夫だと言えるのか。相手は少秘警の副署長だというのに、警察は汚物でも見るような目で誰よりも腐り切った口で悪意を垂れる。それを陽炎がどう出来るというのか。

『虎穴に入らずんば虎子を得ず』とは言ったものだが、杏は別にここまでして仕事に介入したいとは思えなかった。むしろ諦めを抱いていた。


「説明しただろ? 僕らは弾倉で、新戸さんたちは弾丸なんだって」


 ひととせはニッコリ笑って陽炎に目を移す。陽炎は笑っていながら穏便に仕事を出来る環境を整えようと策を練っていた。

 首を傾げては左手で右頬を撫で、爪先で床を叩いては腕を組み直す。

 新戸と言葉を交わしながら陽炎は絶えず考えていた。杏は陽炎の背中に父を見る眼差しを向けた。


「じゃがなぁ、わしらも仕事でここにいる以上、警察だけに任せることは出来んのじゃ。職務怠慢だけでも罰せられてしまうからのぉ」

「知りません。理由がなんであれ、罰せられて困ることも無いでしょう」

「そりゃわしに限った話じゃがな。それにあの態度は『人』が取るべき態度とは思えんぞ。年上には敬意を払えと習わんのか」

「相手が『化け物』であるが故の態度です。あなたは芸も出来ない犬畜生に肉を与えますか?何らおかしな点はありません。しかし、化け物が道徳を問うとはユーモアを解しているようで」

「はははっ! 褒められるとは嬉しいなぁ!」


 ──大丈夫か? コレ。

 杏はチラッとひととせに視線を送った。ひととせは頭を抱えて独り言を念仏のように唱えていた。

 予想外の展開に進んで落ち込んでいる。

 三徹目を迎えた社会人のように虚ろな表情で絶望を語るひととせに杏は手持ちの飴を握らせた。


 ──とっておきのレモンの飴ちゃんやで。

 ──ありがとう。もう副署長に期待しない。


 感情を共有し、個々のやり方で仕事をしに行こうとすると、新戸は陽炎に更に噛みついた。


「お得意の恐喝じみた説得でもなさいますか? それとも悪戯と称して残虐極まりない犯罪でもなさいますか? お宅の真面目な部下でもうちの同僚数人を蹴り飛ばして病院送りにしましたよ。そんな犯罪組織と言っても過言ではない集団を束ねる副署長なら、どんな悪質な行為を働くんでしょうね」


 新戸は陽炎の心臓を食い破ったつもりだった。

 陽炎に赤っ恥をかかせたつもりだった。

 だがそれは大きな間違いだった。

 新戸の体が限りなく天井に近づいた。一瞬遅れた強風が新戸の体を壁に叩きつけ、磔にする。

 窓が割れんばかりに揺れた。非常線は裂け、座っていた者さえ転がって壁にぶつかるほどの強風が吹き荒れた。

 その直後には照明が青白い閃光を放ち、電圧に耐えきれなくなったLEDライトが弾け飛んだ。

 一つ爆ぜればもう一つ、更に爆ぜれば──と拡大し、連鎖していく。微粒子レベルにまで砕けたライトが館内に降り注いだ。

 その場にいた何人かは、雷に撃たれたように身体を震わせ細かく痙攣けいれんして倒れた。

 新戸は今起きた状況を把握出来ずに体を起こした。足に力は入らず冷や汗を滝のように流し、顎をカチカチと鳴らす。

 そしてブルブルと小刻みに揺れる両の目で、警棒を構えるひととせと、拳を壁に叩きつけた杏と、哀れんだ眼差しで見下ろす陽炎を映した。

 陽炎は腕を組み、新戸の側でしゃがみ、幼子に語りかけるように言った。



「警察庁特殊能力者友好条約五章第四十一条」



 よく分からない、長ったらしい一言に新戸から血の気が引く。陽炎は知っているだろうが、とその条約内容を暗唱した。

「『非能力者による悪質な妨害及び攻撃があった際、能力者は一度その行為を受けた後であれば能力の使用を許可するものとする』──。警察に入る者にはこれは必修科目じゃ。今回はちゃんと当てはまっておるなぁ。部下もわしも、お主たちに非道な扱いを受けた故」

「······まだ、能力を使う気か?!」

「わしとて使いとうないわ。じゃが、まだ『悪質な妨害』を受けるのならば、わしは子らを守る義務があるで」




「容赦はせんぞ」




 地獄の底から這い上がるような殺意を感じた。杏は無意識に拳銃を手にしていた。

 陽炎は地面を行き来する蟻でも見るかのように新戸を見つめた。

 新戸は一度拳銃を手に取ったが、陽炎がゆっくり顎を指でなぞると、大人しく最寄りの鑑識官に指示を出した。喘ぐようにか弱い声で「情報を、開示せよ。彼らに、従え」と。

 陽炎はそれを聞き届けると、いつものあっけらかんとした笑みで「すまんのぉ! 恩に着るぞ!」と新戸の肩を叩いた。

 重苦しい空気は一瞬にして消え去った。

 陽炎は腰を伸ばすなり、鑑識が集めた証拠品に手をつけ始めた。

 ひととせは警棒を力なく下ろした。だがその瞳は新戸をまだ許していなかった。

 床に散った破片を蹴って別行動をとった。

 杏は陽炎を手伝いながら、さっきのことを聞いてみた。


「副署長、さっきうとった特殊なんちゃら条約って何ですのん?」

 陽炎ははぐらかしもせずに答えた。

「警察庁特殊能力者友好条約じゃ。人権を奪った代償に警察全域に結わえた『契約るーる』じゃよ」

「······『契約ルール』?」

 陽炎の目の奥に懐古の念がチラついた。陽炎は苦笑いで語る。

「自然の力は恐ろしいものじゃ。抗うことの出来ん神の気まぐれ。恵も厄災も共にある。勿論もちろん人の生来持つ力とて侮れん代物じゃ。五感、第六感、個々の才能から思考の果て、そして約束──」

 陽炎はそこまで言って止まった。

 面倒な話は嫌いじゃろう、とまた笑った。


「······二年前に少秘警を去った二人を覚えているかのぅ?」


 ──覚えている。

 署長と揉めて辞めていった二人を。署長と揉めたことも、辞めたことも前例がなかったから。


「先輩達ですか?」

「情処課の方の奴じゃ。六年前、能力者は少秘警に入らん限り劣悪な扱いを受けておったがの、彼奴あやつは少秘警入るや否や、灯の護衛の際に警察庁長官に『契約』を結ばせたんじゃ。いやぁー報告を聞いて胃に穴があいたのは初めてじゃ」

「············え、先輩が?」

「ああ。そのお陰で能力者は人権こそ奪われど、ある程度の自由が許された。わしらがこうして仕事を得られることも、『人間』に楯突けるのもその『契約』があるからじゃ」


 ──初耳や。

 杏の脳は入ってきた情報の多さに止まりかけていた。

 先輩の偉業というか狂気、危険なまでの絶対的善心。仕事柄、表に出ない先輩が年端もいかない子どもの頃にお偉いさんにルールブックを作った。署長と喧嘩なんてまだ可愛いものだ。下手すれば自分の首が物理的に飛ぶところを──


 突然大きな音がした。

 驚いて尻もちをついた。

 見上げると、陽炎が手を合わせて立っていた。


「さぁ雑談はここまで。仕事の時間じゃ」


 杏は気を引き締め直す。

「はい!」

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