1話 スパイ映画のワンシーン
ビルの中を赤いランプが点滅する。
耳を劈く警報音に混じって警備隊の叫び声が聞こえた。
男は後ろから聞こえてくる声に笑みをこぼし、廊下を軽快に駆け抜けた。
「止まれ!止まらないと撃つぞ!」
警備隊の一人がそう叫び、威嚇射撃をした。だが男はそれに怯まず、廊下を右に曲がった。
手前から別の警備隊が男を足止めした。催涙ガスを投げ、取り押さえようと突進してくる。
「馬鹿じゃないのか」
『男』はそう吐き捨て、口元を袖で覆うと警備隊の上を飛び越えて逃げた。奪った催涙ガスを投げつけて距離を稼ぐ。
警備隊のなんと弱いことか。
敵を嘲笑うかのように翻弄し、逃げ続けていると、壁一面ガラス張りの廊下に出た。
しかし、先回りしていた警備隊が銃を構えて待っていたのだ。
右も左も警備隊に囲まれ、退路を絶たれた男の前にイギリス人の男が立った。
「やぁ、コソ泥さん。もう逃げ場はないぞ」
「あぁ、ジェフ。今日も紳士的な振る舞いだな」
ジェフは優しく微笑み、手を差し出した。
「さぁメモリを返したまえ。そんなものの為に命を捨てるのは惜しかろう」
皮の厚い手をさらに突き出して「さぁ」と男を急かす。男はガラスの向こうの景色を眺めた。
地面は車のライトや街灯で淡く輝きを放つ。海の水面の如き夜景を三日月が揺蕩う、実に見事な夜だ。
男はメモリを持ってジェフの元まで歩み寄った。だが警備隊は銃を下ろす素振りを見せない。
男はメモリをジェフの手に置こうとした。警備隊は男がメモリを手放す瞬間を見逃すまいとした。
ジェフは勝ち誇ったような表情をしていた。
男はもう一度三日月を見上げた。そして口角を上げる。
「いい月だな。満月じゃダメだ。新月なんて以ての外。三日月だからこそ『いい月』だ」
ジェフは眉をひそめた。男の言っている意味が分からなかったのだ。
男はやれやれと首を振った。
「分からないやつだな。頭のネジはちゃんと閉まってるか?」
「なんだと?」
「海で溺れたら死ぬが、『船』があれば助かるだろ?」
男はそう言うと、メモリをしっかり握って窓に体当たりした。
派手な音を立て、月光に煌めくガラス片と共に落ちた。紳士は青ざめて駆け出した。
恐る恐る地面を覗き込むと、一瞬の閃光が視界を包み、強い力が眉間を貫いた。
あまりの衝撃に体は仰け反り、ジェフはそのまま気絶した。
警備隊が慌てふためくビルから離れた路地裏で、男は痛そうに腰をさすった。
男は苛立ち、被っていた帽子とカツラをゴミ捨て場に投げ入れた。厚い特殊メイクのマスクをはがし、口内の変声機を取り出すとかかとで踏み潰した。
金髪のミディアムヘアをなびかせ、千切れたワイヤーを捨てた。
「やっぱ古いもん使たんが悪いんやな。ちゃんと新しいもん買うてもらわにゃ」
盗んだメモリを月に照らし、満足げに笑った。
ビルの上層部で忙しなく動く男たちを少女は鼻で笑った。
「セキュリティ甘いわぁ。うちを『男』て思うてる時点で虫歯出来そうや。警備やったら少秘警に任した方がまだ安心やで」
少秘警諜報課所属、雷蝶杏は舌を見せて暗がりに消えた。
遠くから救急車の音が聞こえる。




