6話 警察と万引きとおっさんと 2
──ありえない。
物が音もなく、忽然と消えるだろうか。
一つ消える。もしくは一つずつ消える。それならまだ理解は出来た。全て消えるなど、それもほんの一瞬、瞬きする間があったかどうかの一瞬で。
───狐につままれたようだ。
ほうけている間にも口論は悪化する。
店長が少年に掴みかかったところに薫が仲裁に入った。
───珍しい。
薫の考えを尊重し、見守ることにしたのだが余計なことを連ねに連ね、店長をさらに怒り狂わせている。
理由は知っている。
最初の一言の仕返しだ。
半分を今ぶつけているのだ。
少年と一緒になって笑ったりからかったりして楽しそう。
店長が全身を震わせ始めたあたりで止めに入ろうとしたが、それよりも早く店長は薫を強く突き飛ばす。
薫は少しよろめいたが転倒することは無かった。
興奮する店長の矛先が、少年から薫に変わった。
「さっさと逮捕すればいいのに貴様はっ!!」
薫は黙って話を聞く。
「ガキのクセに偉そうにしやがって! ······お前ら『少年秘密警察』だな? 知り合いに警察がいるから分かるんだ。『化け物警察』だってこともな!」
心臓が強く脈打った。
気づかないようにした。
店長の言うことを聞かないようにした。
それだけが精一杯の努力だった。
「人権持たぬ化け物が、よく顔を上げて道を歩けるものだな!
人にもなりきれん奴らがワシら人間様に口をきけるなどありがたいことなんだぞ!本来ならば地べたに這いつくばって靴を舐めるが関の山よ!」
腸が煮えくり返るような怒り。
既に限界を超えた理性。
何度言葉を飲み込んだか。
何度警棒・拳銃に伸びる手を抑えたか。
調子に乗った店長はこの上ないほどの罵詈雑言を容赦なく浴びせ続ける。
プチッ──何かが切れた。
「いい加減に······」
「いい加減にしなよ! おっさん!!」
少年が怒鳴った。
隼の怒りは少年の声に持っていかれてしまった。
だが、助かった。何をするか自分でも分からなかった。
店長はキョトンとして少年を見つめる。少年の表情はこの場の誰よりも怒りに満ちていて、誰よりも恐ろしいものだった。
「おっさんの方がよっぽど化け物だよ!」
口論していた時よりもずっと強い口調で、ずっと大きく威嚇するような声で二人を庇った。
少年は強く拳を握っていた。
「黙れっ!!貴様、化け物諸共······」
「おっさん」
先程まで黙っていた薫が口を開いた。殺気を放ち、静かにレジからバーコードリーダーを手に持って。
──マズイ。あいつ殴る気だ!
薫はバーコードリーダーを高く掲げる。
「待てっ······薫!」
隼の静止も聞かず、薫は───店長の頭にそれをかざした。
時が止まったような気がした。一秒にも満たないような短い時間が、とてつもなく長く感じる。
誰も動かなかった。誰も動けなかった。
「···························って! 読み込めるわけねぇだろ!」
ピッ! 反応した。
「読み込んでんじゃねぇよ!」
レジに浮く電子の文字に皆が注目した。
『そっぷるたん 一円』
少しして、店長以外が盛大に笑い出す。
謎の文字が店長を釘付けにする。それが余計におかしくて、腹がよじれるほど笑った。
少年は涙が出ているし、薫は呼吸困難になりかけている。一人ポカンとしているのは店長だけだ。
数秒経って店長がタコのように真っ赤にした怒り顔で声の出る限り叫ぶ。笑い声はすぐ止んだ。
おそらく「ワシをバカにしてるのか!」と叫んだ店長が薫に殴りかかる。少年が「危ない!」と叫んだ時には薫の顔の数センチ先に拳があった。しかし、薫は全く動じない。
(あのバカ······)
隼は横から手を伸ばし、風のような速さで拳を自分に引き寄せる。体が正面に向いたあたりで襟を掴み、引いた腕を背負い、ほんの少し怒りを込めて脛を蹴って投げた。
呻き声をあげる店長を裏返し、腕をねじり上げて動きを封じる。店長が、自分が押さえつけられていることに気づいたのは三秒後だった。
「隼、もういい。少しときめいた」
「気持ち悪い」
店長を見下ろし、強い口調で言ってやった。
「店長さん、万引きされて怒るのも、薫にからかわれて怒るのもわかります。あいつウザイし」
「おい」
「それでも言っていい事悪い事の区別はつけて下さい。あなたが先程おっしゃった『化け物警察』は蔑称です」
「ハッ!事実だろうが」
腕をねじ上げる力が強くなる。
骨はミシミシと音を鳴らし、店長は悲鳴をあげる。
ドアは閉まっているはずなのに、風が店内を吹き抜けた。
歯を食いしばり、怒りを抑えても体が言うことを聞かない。
「隼怒らすとか、おっさんスゲーな」
薫の声で我に返る。腕の力を緩めると吹いていた風も止んだ。
薫はケラケラと笑いながら店長の前にしゃがんだ。
「久々に見たわ〜。確かにおっさんの性格クッッッソ悪いからなぁ」
笑いながら隼の顔を見ているが、その目は「しっかりしろ。らしくねぇ」と言っているように思えた。
「おっさん友達いねぇだろ。どーせ四十代で独身で部屋汚くて?肌着にステテコ・ワンカップでテレビ眺める寂しい生活してんだろ?」
「何で知ってる!?」
マジかよ。当たりかよ。
この反応は薫も予想外だったらしく、二人仲良く頭を抱えてため息をついた。
地雷を踏んだことにフォローを求める薫から顔を逸らした。こればかりはフォロー出来ない。
「んー···どうすっかなぁ? 証拠ないんじゃ連れてけねぇぞ」
「家に帰すか?」
「いいけどよぉ、調書どうすんだよ」
「車で書け」
薫が珍しいものでも見るような目で「マジかよ」と呟く。
レジを見上げ、首を傾げて何かを見つめる。
「じゃあ、隼の言う通り家に帰すか。
おっさん、次は常識持ってこい」
「職務怠慢か!? 万引きしたんだぞ!」
「盗られたもんがないんじゃあ、どうしようもねぇだろ」
「大人の言うことを聞けクズ共!」
「うるせぇ。こちとら警察だぁ。公務執行妨害で逮捕すんぞ」
滅多に出さない警察手帳を片手に鋭い目つきで店長を見据える。仕返しの残り半分が今来たらしい。
隼の記憶では、薫を怒らせて無事ですんだ者はいなかった。
蛇に睨まれた蛙······なんてよく言ったものだが、薫が蛇で済むはずもない。より恐ろしい存在に見えているはずだ。
店長は小刻みに震えて動かなくなった。知らぬ間に店長の下から水が湧き上がっている。
「うわっ! 汚っ! ·········気絶した?」
「みたいだ。ちっせぇな、器も膀胱も。じゃーな、そっぷるたん店長···って、聞こえてねぇか」
下半身に水溜りを作って気絶する店長を残し、少年を連れて外に出る。
川ができそうな程に降っていた雨は止んでいて、雲間から光が差し込んでいた。