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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

白紅に闇

作者: 鏡春哉

 甘酸っぱいものが食べたいとのご所望から、僕は紅玉という種の林檎を買ってきた。真っ赤に熟れた林檎を見て、朱莉は満足そうに口元を緩めた。

 深みがかった赤色。時折見える光沢。掌にすっかりと収まるこの球体。とても美しくて繊細だった。

 高く掲げて恍惚と見上げる。太陽と林檎を重ねて偽りの日食を作り出す。縁から溢れ出た光が眩しかったのか、朱莉は目を細めた。

 飽きたらしく、それを白い皿の上に置いた。何処からか果物ナイフを取り出し、林檎に刃を落とす。中の成分が滲み出てくる。柄に力を加えると、刃渡りの短いナイフはあっという間に林檎の中へ埋もれていった。

 八等分に切り分けた所で朱莉は僕の方を見た。一欠片の林檎をナイフの先端で突き刺して、僕に差し出す。僕はどのように反応すればよいのか躊躇った。ニッコリと微笑んで受け取るか、顰め面をしてこの行為に注意をするか。無表情に見据えられ、僕の思考はますます働かなくなる。

 行動を起こさない僕に痺れを切らしたのか、朱莉は机に手をつき身を乗り出す。そして腕を最大限に伸ばし、林檎を僕の口の中に押し込んだ。

 僕は目を見開いていた。目の前にはゆっくりと抜かれていくナイフがある。下手をすれば唇が切れていただろう。

「おいしい?」

 当の本人はわびられもなくつぶらな瞳で僕を見つめた。

 再び反応の仕方に迷った。

 僕には味覚がない。


 朱莉と出会ったのはおよそ二年と半年前。

 両親と僕を乗せた車両が道路を走っているとき、並列して走行していた別車両の中で彼女を見かけた。

直後、その車両と衝突事故を起こした。僕は何が起こったか理解できていなかった。ただ単に強い衝撃を受け、遠心力の為すままに振り回されていた。シートベルトをしていても、その威力は半端なものではなかった。

 両親は即死、僕は全身にガラスを被り、多量出血。及び頭部に打撲があった。故に、重傷で病院に運ばれた。数カ所の神経に傷が残ったことで、右目の視力、味覚を失い、右手の指が動かなくなった。

 事故の原因は飲酒運転だった。僕らは被害者だった。

 加害者の車両からは男一人と少女一人が発見されたという。いずれも身体に傷を負い、病院に運ばれていた。男は三時間後に死亡。少女は奇跡的に助かった。その少女というのが朱莉だ。

 戸籍からも、遺伝子検査からも、双方は血縁でないことが判明。男が過去に養子を取っていたことから彼女は孤児とされた。

 無論、僕も気付けば朱莉と似たような境遇に立っていた。親戚は叔父が一人いたが、僕を引き取ることを拒んだ。後にそれが母親の家族と絶縁していたことが原因であることを知った。

 生活費及び教育費を払う代わりに、一人暮らしをするということで事態は落ち着いた。叔父は僕に住居を提供して、約束通り仕送りだけをして僕と顔を合わせることは一度もなかった。

 朱莉は孤児院行きだった。


 そして今。朱莉は僕の住む家の中にいる。

 僕らは病院で親しくなった。同じ住居で暮らすことは叶わなかったものの、二年と半年たった今でも仲良くしている。孤児院で暮らす彼女には、多くの自由時間が与えられていた。それ故、高い頻度で僕の家に遊びにやってくる。

「林檎の芯を取らないと。それと、種も」

 飲み込んだところで感想を呟く。

「そう」

 時折朱莉は危険な行為を犯す。それはナイフで林檎を刺して食べさせる事に始まったものではない。

 平気で人の家の屋根をつたって来たり、手に持っていた金槌で開かずの瓶を叩き割ったり、仕舞いには面倒だからと階段で降りることを省いて、ベランダから飛び降りたりした事もある。二階だからと言う理由もあるだろうが、彼女が無傷でいられることには、僕はどうしても慣れなかった。

「編み物をする」

「いいよ」

 最近、朱莉は編み物に挑戦し始めていた。目標はセーター作り。今年の冬で完成させる予定らしい。

 手持ちの赤いバッグから真っ白な毛糸玉と編み終わり間近のセーターを取り出し、僕の目の前に座った。

「でも、せめて果物ナイフは机に置こうか」

 刃先が一本の毛糸にあたり、切れかけていた。朱莉は一旦手を止めて立ち上がり、ナイフを机に置いた。まるで機械仕掛けの人形のよう。一つ一つの動作がぎこちない。

 不器用な手つきで編み始める。作ったループが緩すぎて大きめの穴が空いたり、逆にきつすぎて編み棒が抜けなかったりとなかなかの代物だ。

「この調子だと、後三日くらいでできそうだね」

「悠治に着て欲しい」

「小さくて入らないよ。着るのは朱莉」

「そっか」

 黙々と編み続ける。一段、また一段と同じ動作を繰り返す。

 手伝ってあげたくても右手の使えない僕にはどうしようもなかった。ただ見つめるだけ。とても静かな時間が続いた。しかし、それは優しい沈黙だった。

 短い日の落ちる頃、朱莉は手を止めた。一度天井を見上げて首の痛みを取る。編みかけのセーターをバッグの中に詰め込んで立ち上がった。帰る合図だ。

「気を付けて帰ってね。最近物騒だから」

「あの連続殺人事件?」

 間髪入れずに返ってきた呟きに、僕は瞬きをした。

「知っているの?」

「今朝の新聞で読んだ。無差別に狙うと書かれていた」

「そう、それ。暗くなってきたから本当に気を付けて」

 朱莉は頷き、靴を履いた。爪先を床に当て、踵を入れる。

 僕の方を暫く眺めてから、ドアの向こうへ消えていった。暗闇の中に溶け込んでいくようだった。



 三日後。僕の家にて。

「できた!」

 セーターの肩の部分を持って広げる。真っ白なそれは雪景色を連想させた。

「着るから手伝って」

 些か着替えが苦手な朱莉は、いつも僕の手を借りて着替えをする。特にボタンが苦手らしく、決まって掛け違える。時間をかけて彼女がカッターシャツを脱いだ所で、セーターを着せてやる。白地に漆黒の髪が映えていた。

 どう? と言わんばかりに見つめてくる。僕は苦笑しながら似合っているよと返した。裾の部分が伸びていることは言わなくても良いだろう。

 完成したことが嬉しいのか、上機嫌に動き回る。僕より背の低い彼女の年齢を、僕は知らない。

 ふと、何かを思い出したかのように朱莉は僕の方を見た。

「苺を持ってきた」

 いつもの赤いバックから、パック入りの苺を取り出した。それはルビー色に輝き、みずみずしく並んでいた。

「イチゴミルクが食べたいって事?」

 肯定。これは彼女の好物の一つなのだ。

 僕はキッチンから果物ナイフ、冷蔵庫から牛乳、戸棚から砂糖、食器棚からガラス製の食器とスプーンを二つずつ取り出して、ダイニングテーブルに並べた。

 朱莉は慣れた手つきで砂糖へ手を伸ばし、スプーンですくって器の中に落とす。その間に僕が苺のヘタを取っていく。使えない右手で苺を押さえ、左手にナイフを持ってヘタの部分を切るのだ。

 朱莉が処理後の苺を器の中に入れて、スプーンで潰していく。ある程度原型を失ったところで、僕が牛乳を加える。それぞれかき混ぜて完成だ。

 連携した作業は二年半の経験から。自ずと自分が何をすれば良いのか習慣付いてくる。

 僕らは器具を片付ける前にイチゴミルクを食べた。程良い滑らかさに舌が踊る。味が分からなくても食感で補うことができた。

 器の中は、いつの間にか空になっていた。

「今日のは何処から待ってきたの?」

「食事係の人から貰った。余っているからって」

 恐らくそれは嘘だろう。きっと、朱莉が物欲しそうに眺めていたからなのだと僕は思う。

「そっか」

 状況が分かっても口には出さない。朱莉に言っても、殆ど無意味だからだ。確かに、言われたことは素直にやる。しかし、その行為が無意識の内に出ているのでは治しようがない。

 僕は食器を下げようと立ち上がった。瞬間、朱莉の持っていたスプーンが落ちた。取ろうとする気配がないため、苦笑をしながら僕はしゃがんだ。鈍器のようなものが、机を叩いた音を耳にするのと同時だった。

 僕の体は動いていなかった。指の僅か数ミリ先にスプーンが落ちている。

 朱莉の足が床に着いた。テーブルの下を伺うように屈み込み、僕と目を合わせた。彼女は無表情だった。後ろには、居るはずのない第三者の足があった。黒いズボンのそれはゆっくりと朱莉に近づいていく。

「朱莉!」

 足より上にあるものが動いた。朱莉は僕を押してテーブルの反対側へ倒す。そして、それまで死角になっていた予期せぬ訪問者の顔をしかと見た。

 それは男の顔だった。焦点の合わないどろりとした目。伸び放題の髪。いかにも不健康そうな服装。そして、そんな様子に不釣り合いな綺麗な笑み。まるでこの状況を楽しんでいるかのよう。

 徐に腕が持ち上がった。その先で包丁の刃が光を反射していた。

 僕は奥歯を噛み締めた。鈍器と思っていた衝撃音が、この包丁から出ていたとすると、限りなく強い力でテーブルに打ち込んでいたことになる。 

 もし、僕がしゃがまなかったら。頸動脈云々どころか僕の首が本体とくっついていたかも危うい。

 冷や汗が首筋をつたった。押されて尻もちをついたまま、僕は訪問者を見つめていた。動けない。力が入らない。そうでなくても僕の右手は動かず、片方の目は視界が暗闇なのだ。正常な人のように立ち上がることさえままならない。

 朱莉がテーブルの下から這い出てきた。僕が立ち上がるのを手伝ってくれた。同時に安心感が生まれる。単にそう思ったわけではない。立つことができたからでもない。

 朱莉は素早くテーブルに身を乗り出し、放置されたままの果物ナイフを手にした。相手と間合いを取り、少しずつにじり寄っていく。

 静かに、かつ正確に。男は笑ったままふらりと体を揺らして包丁を振るう。尋常ではない速さで朱莉を襲った。

 確信と同時に、鮮血が僕に降りかかってきた。目の前に立っている少女のセーターは、赤色の斑模様をつくっていた。

 どれ程時間が経ったのかは、僕には分からない。でも、僕が笑っていたことだけは分かる。


 間もなく警察がやってきた。落ち着いた頃に僕が呼んだのだ。

 ダイニングの事態は悲惨だった。テーブルは一部に大きく傷が入り、使いづらくなっていた。そして何よりも、床に広がる血の池が事態の異様さを増していた。

「それで、これはあなたの仕業ですね」

 朱莉はこくりと頷いた。

 床に血をばらまいたのは得体の知れない男の方だった。

 あの時、男が包丁を振るった瞬間、それ以上の速さで朱莉は男の腹部を切り裂いていた。恐らく、何が起きたのかさえ判断もつかぬまま、事切れたに違いない。男は指一本たりとも動かさなかった。

「この男は連続殺人事件の犯人です。逃げ足が速く、此方も手こずっていました。身柄を確保していただき、有り難うございました」

 彼らは揃って頭を下げた。犯人を殺した事へのお咎めを、朱莉にしようとはしなかった。寧ろこれ以上関わるまいと、警察官は颯爽と引き上げていった。

 綺麗に掃除されたダイニング。割れた窓の処理。テーブルが撤去されたこと以外は、イチゴミルクを食べていたときと何ら変わりはなかった。


 朱莉にお咎めがなかったこと、そして孤児院で多くの自由時間を得ていることには理由がある。

 これも二年半前のことだ。

 朱莉と僕は病室が同じだった。だからよく会話もしたし、それを暇潰しにさえしていた。しかし、暫くは双方とも寝たきり状態での会話だった。

 事故から一週間経った日。カーテン越しに医師と看護師の驚きの声を耳にした。事情を聞けば、朱莉の患部はすっかりと完治し、元の生活に戻っても問題ない状態にまで回復していたのだという。

 本来ならば、骨折も含めて全治三ヶ月だった。それを一週間で直すことは、最早奇跡以上に驚異、否、恐怖だった。

 事の異様さに、その病院の医師がこぞって朱莉に様々な検査をした。遺伝子検査もその中にあった。これで判明したことが一つ。

 ――朱莉はヒトの遺伝子と似通っているようで、かけ離れた配列を為していたのだ。また、拍車を掛けるように、彼女は言ったという。「私はヴァンパイアだ」と。

 それからというもの、周囲は大いに騒ぎ立てた。医師達はおろか、事故処理をした警察、警察庁、そして政府までもが混乱した。検査をしている以上、嘘であるとは考えられなかった。

 政府で決定されたのは、ヴァンパイアが存在する事実の隠蔽。民衆がパニックを起こしたり、興味本位で朱莉に近づいたりすることを避けるためだ。それ故、民間人で朱莉の事を知っているのは、隣で聞いていた僕だけであるというわけだ。

 彼女に身よりはないらしく、孤児院で預かることが決定されたが、極力近づかないために、多くの自由時間を与えられた。野放しになっているとも言われかねないが、彼女は大きな問題を起こさないため、そこは警察側も目を瞑ったらしい。

 そして今日の出来事。完全に不可抗力かつ、ヴァンパイアを裁く法はこの国に存在しない。また、連続殺人犯を捕まえたとなれば、社会に大きく貢献したことにもなり、尚更警察は咎めることができなくなる。

 それ以前に、彼らは朱莉を避けようとしていた。関わりたくない。変に気に障るようなことをして暴れられたら手の施しようがない。脳内を横切るのはこのような言葉の羅列だろう。

 恐怖の対象とされている朱莉に、唯一好意を示しているのが、この僕だ。事実を知っても尚、彼女が良い子であることには変わりない。少し常識外れの感覚を持ってはいるが、それ以外に悪い所はない。一人で生活することになった僕にとって、誰かが居る、それだけで安心できた。朱莉も僕の家にいる方が楽しいと思っているのか、今のところ入り浸っている。

 警察側も、この事を知っていた。僕に危険がないことを理由に、殆ど委託しているようなものだ。最近になって朱莉を僕の家に引っ越させようという話も出ていたようだが、さすがにそれは流されてしまった。


 朱莉は汚れたーセーターを脱ぎ捨てた。きっと真っ赤に染まったそれは、洗っても落ちないだろう。彼女は冷たい目で眺めた。

「折角出来上がったのに」

 口惜しむその姿に、僕は微笑みかけた。

「また作ればいい」

「また?」

「そう」

 朱莉の頬に赤みが差した。いつにもなく目尻が下がっている。

 類い希なご機嫌の証拠だ。

「うん、次は悠治のを作る!」

 満面の笑みで朱莉は帰路についた。



 僕が退院してからおよそ二年半の間で、家には様々なものが増えていた。人間の習慣や趣味が面白いのか、朱莉はよく色々なものを持ち込んでくるのだ。

 初めは退院祝いからだった。無言でバームクーヘンを置いて去っていった。ほかには料理、裁縫、絵画、スポーツ、読書などメジャーなものから、切手収集や釣り、昆虫採集など、広く浅く興味の惹いたものを手当たり次第にやってみる。飽きたところで次の物に乗り換える。

 そして何処で知ったのか、僕の誕生日に贈り物を持って来たこともあった。箱の中には銀のナイフとレターセットが入っていた。添えられたメモには、文通をしてみたいとの意が書かれていた。

 このような具合で物が増えていった。孤児院の方では管理できないようで、自然な流れで僕の家に溜まっていくことになる。

 編み物もそのうちの一つだ。秋後半頃から初め、完成に至る。

 朱莉は今日も僕の家に来ていた。

「朱莉、この前は有り難う」

 彼女は何の話だと首を傾げる。

「あの殺人犯から助けてくれただろう?」

 思い返せば、朱莉は故意にスプーンを落としていた。彼女にとって、それが最善策だったのだろう。

「あぁ、あの失礼な奴の」

 どういう認識で失礼と言っているのかは、僕には分からない。勝手に家に入り込んできたことだろうか。

「屑の分際で悠治の首筋を狙うなんて、身分不相応も甚だしい」

「い、いや、首は急所のうちにはいるからミスチョイスではないと思うけど」

 噛み合わない会話に、朱莉は頬を膨らませていた。

 あれから、朱莉は新たにセーターを作り始めていた。辺りには白と赤の毛糸玉が転がっている。地道な作業を進めながら、時折色を変えて、黙々と編み続けていく。

 朱莉にしては長く続いているようだった。余程悔しかったのだろう。作業ペースも速まり、一枚目よりも綺麗に仕上がりつつあった。ただ、一つ問題があるとすれば、その模様が赤と白のボーダーであることだ。これでは某絵本の主人公が着ている服のようだ。

 僕はと言うと、ニット帽の作製を頼まれていた。右手を机に置いて固定し、左手を動かして編んでいく。セーターよりは毛糸玉の個数が要らないためか、形になるのは速かった。しかし、両手が使えないという不利な条件下、完成するのは朱莉と同じくらいだろう。

 ドアフォンが鳴った。その音に朱莉は過敏に反応した。勢いよく立ち上がる。拍子に転がっていた毛糸に足がもつれ、盛大にこけた。

「焦らなくても、逃げはしないよ」

 頬を真っ赤にした朱莉の代わりに、僕が玄関のドアを開いた。どうやら配達人のようだった。小さめの段ボールを突き出してくる。

 僕が受け取ると、颯爽と去っていった。印鑑は要らなかったのだろうか、と疑問に思いながら箱を見てみる。宛先は朱莉だった。

 未だもつれたままの朱莉を見て、僕は慌てて絡まった糸から解放してあげた。自由になった朱莉は、小さな段ボール箱に飛びついた。ガムテープを剥がすのに手を煩わせながら、何とか箱を開ける。中から出てきたのは五冊の本だった。

「買ったの?」

「うん。ヴァンプで買った」

「ヴァンプ?」

「ヴァンパイア界で人間の商品を取り扱う業者。宅配サービス付き」

 朱莉は早速本を開いていた。どうやら漫画のようだ。

「便利だね」

「多分郵便よりも便利だよ。ヴァンパイアの移動は速いから。欲しいと思った一分後には届いている」

 不思議な話だった。人間が文化や科学を進歩させているように、彼女らにもまた社会が存在する。何らおかしな話ではない。しかし、どことなく違和感を覚えさせられた。

「そういえば、悠治」

 漫画に夢中になっていた朱莉が徐に顔を上げた。隣には編みかけのセーターが放り出され、毛糸も絡まったまま放置されている。

「最近は此方の治安も不安定になってきている。悠治はあまり出歩かないけど注意はしておいた方がいい」

 いつにも増して真剣な顔で語りかけてくる。

「何かあったの?」

 聞き返していると電話が鳴った。何か言いたそうな彼女に断りを入れ、受話器を取る。警察からだった。

『緊急事態です。用心してください』

「何かあったんですか?」

 どことなく切羽詰まったような物言いに、不審感を抱く。朱莉に関係することだろうか。

『先日引き取った犯人の遺体が忽然と消え去りました。共犯者らしき姿が監視カメラに写っており、あなた達の住むアパートのある方面へ逃亡しました。朱莉さんは事件に大きく関与しています。ですから、再度狙われる危険性があります。我々警察は犯人を足止めすることに最善を尽くしますが、もしもの時のために用心をしておいて欲しいのです』

「は、はい。分かりました」

 呆然としながら受話器を置いた。朱莉が此方を見つめていた。まるで事態が分かっているかのように冷然と僕の目を見据え、徐に立ち上がる。僕の体が宙に浮いたのと同時刻だった。

 重力に逆らう感覚。僕は朱莉の背中に収まっていた。

「しっかりと掴まって。狙われているのは悠治」

 窓を開いてベランダに出る。日は既に落ちていた。

「ちょ、ちょっと待って! おぶって貰わなくても大丈夫だよ」

「悠治の足では逃げ切れない。私でも危ういから」

 朱莉は手摺りを飛び越え、隣の民家の屋根に着地した。

 人間を超越した身体を持つ朱莉が何を言っているのだろうか。僕の体重が完全に乗りかかっている今でも、涼しい顔をして走っているというのに。

 僕の脳内にとある考えが浮かぶ。

 思わず唾を飲み込んだ。朱莉の首に腕を回してしっかりと掴まる。ちらりと後ろを振り返ると、電気を付けたままの自分の家が遠ざかっているのが見えた。何となく、大切な物を置いてきてしまっている気がした。

 朱莉は前を向いたまま話し始めた。

「詳しい説明は今のうちに済ませておく」

「えっと、あの犯人って……」

「うん」

 彼女は一呼吸置いた。

「ヴァンパイアだよ」

「知っていたの?」

「知っていたと言うよりも、気付いていた。警察共は奴を鎖にでも繋いでいると思っていたのに。遺体安置所に放置とか、頭が腐っているとしか言いようがない」

 僕自身でさえ犯人は死んだものだと思っていたのだ。何処の誰が、まだ生きていると考えるだろうか。

「まぁ、侵入したのが共犯者と言っている限り、警察側は気付いていないみたいだけど」

 白々しい街灯の照らし出す風景の先に砂浜が見えた。確か、ビーチは隣町にある。数回の言葉のやりとりだけで此処まで辿り着いてしまうことに、僕は場違いにも感嘆していた。

「元々、ヴァンパイアの五感は人間の倍以上に優れている。特に嗅覚の差は著しい。だから理性の制御が難しいの。それで、流血したケースの殺人では飢えた者が暴れ出し、治安が悪くなることが多い。例の連続殺人事件もそう。正確に言うと、飢えた者の居住区としている地域で、一人の人間を切り裂いたことで被害が連続したの。恐らく、犯人は故意に事態を大きくしていると思う」

「本当の目的を悟られないために?」

 朱莉はこくりと頷いた。

「此処まで事態が悪化すれば、ヴァンパイア界でも犯人の目的は掴みづらい」

 防波堤の上に飛び乗り、そのまま走り出す。暗くて視界の下はよく見えないが、かなりの高さがあるはずだ。落ちればただでは済まない。

「もう少し早く気がつけていたら良かった」

「被害が押さえられていたって事?」

「いや」

 彼女は防波堤を飛び降りた。落下速度が徐々に上がっていく。間もないうちにサクッと砂を踏む音が聞こえた。海側の方へ飛び降りたのだ。

「私の聴覚はあまり使い物にならないから」

 はぐらかすような返答。そして、彼女から感じられる微かな焦り。原因は時を重ねるごとに、僕にもはっきりと分かるようになった。

 後方から聞こえる砂を踏む音。だんだんと近づいてきている。

「香しい香り。獲物は逃がさない」

 凜とした声。これが後ろから追ってくる化け物の声だと、誰が思うだろうか。しかし、それは僕の恐怖心を掻き立てると共に、ある種の落ち着きを芽生えさせた。

「奴の真の目的が、これで明確になった」

「え?」

 朱莉は足を止めて振り返った。僕は彼女の首越しに追っ手を見る。

 焦点の合わない目が、僅かな光を反射して怪しげに揺れていた。あの日、家に入り込んで僕らを襲ってきた男だった。

「君の血だよ、悠治君」

 闇から姿を現した男は、薄ら笑って言った。僕に指を差して凝視している。

「三百年に一度と言われる幻の遺伝子。その血数滴で俺は永遠の命を手に入れられる」

 にじり寄る男。朱莉は僕をおぶったまま一歩ずつ後退していった。

 夜の海が月の光で煌めく。

 幻の遺伝子? 永遠の命?

「これが奴の真の目的。ヴァンパイア界で悠治は広く知れ渡っている。奴を先駆者にしてはならない」

 最早僕の耳に朱莉の声は聞こえていなかった。途端にスイッチが切り替わったかのように、恐怖などなくなっていた。僕のやること、いや、やらなければならないこと。

 それを思い出したから(・・・・・・・・・・)

 僕は朱莉の耳に口を近づけて呟いた。

「一旦帰ろうか」

 朱莉の驚く様が見て取れた。この状況下で呟くような言葉ではないことは分かっている。しかし、僕は一度家に戻る必要がある。

「悠治がそう言うなら」

「耐えられる?」

「なんとか」

 朱莉は間合いを取って上方へ飛んだ。防波堤の上に静かに着地する。男も僕らを追ってくる。

「逃げたって無駄だよ。耳が人間並みのヴァンパイアに彼の血を守り通せるわけがない」

 朱莉は唇を噛んでいた。牙が食い込み、一筋の血が流れている。

「大丈夫だよ、朱莉」

 恐怖の無くなった僕には、余裕ができていた。同時に、朱莉を馬鹿にしたヴァンパイアを腹立たしく思った。

「もう少しで家に着くから」

 そう言って、一カ所だけ煌々と明かりの点いたアパートを指差す。朱莉は無言で頷いた。


              *


 家に戻り、窓を閉める。意味はないだろうが、時間稼ぎにはなる。

 悠治は私の手を引いて自室に行き、勉強机の引き出しを開いた。

 窓の割れる音がする。侵入された気配もする。男が悠治の部屋に足を踏み入れたとき、悠治は表情を崩した。状況の変化を感じ取ったのか、男が警戒し始める。私も状況の理解に追いつかなかった。

 何故悠治が笑っているのか、と。

 動かないはずの右手には一本のナイフ。開かないはずの右目は血のように赤く、妖しく男を見据えている。口角は尋常ではない位置まで上がっていた。

 あの日男がしていたように、彼はナイフを大きく振り上げた。人工的な光を反射して、銀色に光る。

「君のことを、飛んで火に入る夏の虫って言うんだよ」

 赤い目を大きく見開く。目の細胞がバラバラに引き裂かれているのが見て取れた。

 声を立てて笑いながら、ナイフを振り回す。その速さは人間の域を脱していた。男は辛うじて避けるものの、彼の速さにはついて行くことが出来ていないようだった。

「欲に溺れ、満たすために奪い、単に命を燃やしている。ただただ意味もなく生き続けている奴のために、犠牲者なんて必要ないだろう?」

 切り裂き、突き刺し、引き抜く。同じ行為を繰り返し、鮮血を振りまいていく。それは殺風景な部屋を、真っ白な彼の肌を、赤く染めていった。

「俺はそんな屑を誘き寄せるための餌だ。そして捕食する猛獣だ」

「まるで食虫植物のようだ」

 男は余裕を作り出そうと口角を上げたが、引きつった笑みは逆効果でしかなかった。彼は治癒能力のあるヴァンパイアでさえも回復に間に合わなくなる程、何度も何度も何度も何度も斬りつけていく。

「少し違うよ。俺は道具だから」

 彼は優しく微笑んでいた。



 三百年に一度、幻の遺伝子を持つ子供が生まれるという。それは自然の摂理を壊す愚者を取り締まるために、選ばれた生命の魂。命尽きれば回り回って再び生を与えられる。

 自然が美しく生きていくために。次世代へと生を繋げていくために。まるで生命が進化するかのように自然も悠治を作り出した。それは必然的な存在で、彼もまた自然の道具であることを当たり前のようにして、愚者を誘き寄せては始末する。しかし、この世界に存在するためには、ただの殺人鬼であっては生きられない。世の中というものの中に、溶け込まなければ消されてしまう。

 だから、幾つもの生を経て、彼もまた進化してきた。無条件に愚者を狩っていた兵器から、徐々に人間の社会に溶け込む能力を備えていき、ついにはそれ自身が人間であると思い込むようになった。否、人間であると信じて疑わなくなったのだ。それは同時に、愚者に対して格好の獲物になるようなものだった。

 食虫植物。愚かな男は、確かそんな事を言っていた。

 甘い蜜を餌に、のこのことやって来た虫を捕らえ、糧とする植物。一方で、自らも光合成を行い、栄養をも作り出す植物である。

 彼の揶揄は、あながち間違ってはいなかった。

 悠治が人間として生活をしている裏には、愚者を引き寄せて始末する、道具としての彼が存在しているのだ。それは生き物が呼吸をすることと同様に、本能に植え付けられた使命であった。彼はその二重性を内に秘め、意識的には(・・・・・)本能を知らないまま生きている。

 それが、彼の現段階での進化の状態である。恐らく、これからも幾つもの生を経て、進化していく事だろう。如何なる状況をも生き延び、より多くの愚者を捕らえるために。

 かく言う私も、愚者の一人だった。

 人間を殺すことはなかったが、彼の血を欲さんがために多くの人間を魅了し、支配してきた。人間に隠れて生きるなど、言語道断。ヴァンパイアとして生を受けたからには、そのヴァンパイアとしての能力を思う存分に発揮すべきだと、当時の私は考えていたからだ。

 ヴァンパイアは持ち前の寿命が人間よりも長いとはいえ、人間の持てる知識と技により、簡単に屈してしまう弱い存在でもある。しかしその反面で、人間よりも強靭な肉体と運動神経、それから美貌を併せ持っている。仲間内にはヴァンパイアである事を隠し、人間として人間の法律に従って生きている者もいるが、私にはそれが耐えられなかった。

 何故、我々に劣る人間に、何も知らない人間に、媚び諂って生きなければならないのか。或いは避けて生きなければならないのか。

 私には分からなかった。だから、永遠の命、もとい完璧な生を求めて、ヴァンパイア界に流れる噂を辿り、人間を使って悠治の居場所を突き止めたのだ。それが、二年半前に起こった事故より、半年前の出来事だった。

 私はどのようにして悠治と接触しようかと、考えあぐねていた。噂によれば、彼は如何なる生物をも凌ぐほどの兵器であるからであった。しかし、彼を観察しているうちに、とある恐怖に苛まれるようになった。

 それは、彼が人間として生活を営む姿であった。この姿に、何人のヴァンパイアが騙されたことか。私の知る限りでも、指の本数を裕に超えてしまうくらいには夥しい数が始末されている。その後には、あたかも何事もなかったかのように、彼の元に日常が戻ってくるのである。

 私は、生まれて初めて恐怖というものを体験した。続けて、ヴァンパイアの存在意義について懸念を持つようになった。

 果たして我々は、生きていて意味のある生物なのだろうか。

 ふと、そのような考えが私の脳裏を過ぎった。自然の摂理を壊す愚者とは、ヴァンパイアそのものではないかと思ってしまったのだ。それほどまでに、始末される対象はヴァンパイアが群を抜いて多かった。

 勿論、その他にも始末されるものはあった。周りに外敵がいなくなり、異常なほど増殖した外来種であったり、生命絶滅の危機をもたらしそうになったウイルスであったり、仲間内で愚かにも殺し合う人間であったりと多種多様であり、決してヴァンパイアに限る事ではなかった。

 それにもかかわらず、だ。

 私は切実にこう思った。まるで、ヴァンパイアが何かの副産物として、偶発的に生まれてしまった異物であるかのようだ、と。それを、自然の免疫機能が自己ではないと判断し、排除にかかっているのではないか、と。

 私は本来、存在すべきものではなかった。

 私はという生命は、要らないものであった……?

 身震いがした。不要、と言う言葉に、これほど心をきつく縛られるとは、一昔前の私には知り得ない事だった。人間よりも優位に立っていると思い込んでいた頃の、私には。

 私は一ヶ月ほどで観察をやめ、悠治の傍を離れた。以前に魅了して養子にしてもらった、男の元で人間として生活をすることに決めたのだ。この時、私のように人間として生きることを決めた同胞たちは、私と同じ経験をしたに違いないと思った。そうでなければ、ヴァンパイアがすぐ目の前にある甘い蜜を、まざまざと取り溢すはずなど、あるわけがないのだから。

 人間としての生活は、思ったほど苦ではなかった。食事以外はさしてヴァンパイアの生活と変わらなかったからだ。種族にもよるが、私の場合は日中に出歩いても問題はなかったから、生活リズムを夜型から昼型に変えればそれで済む話だった。

 人間の文化や技術にも、この頃から興味を持ち始めた。里親を介してそれらを知る度に、学ぶ度に、以前の私を突き飛ばしてやりたい気分になった。私が自分よりも劣っていると思っていた生物がこれ程までにも面白いものを作り出しているのに、何故そうも私は人間を毛嫌いしていたのか、と。そんな人間を知ろうともせずに優位に立っていると思い込んでいた自分を、憤りながらも恥じた。

 それから二か月ほどして、ヴァンパイア界で人間の商品を取り扱っている、ヴァンプと言う業者が存在している事を知った。それまでは密かに里親の血を分けて貰っていたが、これを機に、人間の医療用輸血パックを買い込み、それで食事をとるようになった。

 輸血用血液の鮮度はわりと高く保たれており、申し分のない食事であった。ただ、なかなか手に入らない代物である故に、食事は週に一回、悪くて月に一回程度に減っていった。

 だが、私はそれでもかまわなかった。それよりも、人間でいう趣味とやらに没頭する方が、食事という本能的な行為よりも、数万倍面白かったからである。

 そうやって、平穏な日々がつれづれに続いていった。さすがに学校という公共機関にまでは足を運ばなかったが、人間の子供がする勉強というものも、独学ではあれど里親にさせてもらった。特に興味深かったのは、化学や物理で出てくる原子の仕組みである。現存するものを素粒子レベルにまで分解することは非常に難しい事だろうが、人間もヴァンパイアも、同じ粒子で出来ていると思うと、どこか親近感を覚えた。

 では、何が違うのか。私はそんなことも考えた。それはゲノムの塩基配列の違いだろうかと思ってみたりもしたが、ヴァンパイア自体を研究対象とすることはこれまでになかっただろうから、その時は分からずじまいであった。

 このような日常に終止符が打たれたのは、言うまでもない、二年半前のあの日である。あの日といえども、その日は私にとって、いつものように過ぎるべく日常だとしか思っていなかった。

 私は午前中は勉強に熱中し、午後からは街の方へ遊びに出かけて行った。里親が会社に出勤している間はどう転んでも自由であったし、自分の足一つだけで遠方への移動が可能だったから、直々遊びに出かけていたのだ。

 いつもは里親の帰りに会わせて先回りして家に帰るのだが、その日は里親が務めている部署勢での飲み会があったため、長らく街をぶらついていた。店のネオンサインが妖しく輝き、夜なのに人々が往来している。私は、こればかりは理解不能だと幾度も思っていた。

 人間は、日中に活動する生き物である。それにもかかわらず、日が暮れても街が活気にあふれているとは、如何な事か。まるで、人間から睡眠という名の休息を奪っているかのような光景だった。

 対して、ヴァンパイアは大抵、昼に眠り、夜に活動する。その体内時計は無理矢理変化させる事がない限り、崩れることはなかった。それ故に、ヴァンパイアの身体能力は人間よりも勝っているのではと、私は少しばかり思っている。

 夜の街の散策に飽きてきた私は、帰ろうと自宅の方向を見遣った。その視界の中に、見覚えのある車を見つけたのである。もとより私が出歩いていた先の近くで飲み会があると聞いていたから、その車がすぐに、里親のものであると分かった。私は何を思ってか、今夜は彼と一緒に帰ろうという気になった。本当に、その時に何を思ったのか、私には分からないし、知りようもない。生物の思考は偶発的産物を常時量産しており、何故そうした思考回路になったのかということを説明することは難しい。故に、単にそんな気分になったとしか言いようがないのである。

 その日の夜、里親が飲み会に車で赴いたということには、飲酒をしないという裏の意味があった。人間の世界に来てまだ日の浅い私にはそれを知る由もなかったし、勿論飲酒運転が禁止されている事も知らなかった。故に、気の弱い彼が上司命令に逆らえず、少し飲酒してしまっていたことに気が付いても、私は何も言うことなく彼の車に乗り込んだ。それよりも、夜遅くまで遊んでいたことに対して怒られたことの方が、よっぽど頭の中を支配していた。

 この時、私がいなければ彼が終電を逃すことはなかっただろうし、少し遠くてもバス停を探していたかもしれない。財布の口が堅い彼がタクシーを拾うという選択肢を取ることはなかっただろうが、せめて誰かの車に乗せて帰ってもらっていたかもしれない。

 この夜、私は、自然が偶然の産物を如何に恐れていたのかを、痛切に味わった。私にとってそれが恐れとして現れたわけではなかったが、それでも、偶発的な産物に対して驚くほか、私には為す術がなかった。

 いつもより、男の運転が荒いとは思っていた。しかし、男にこっぴどく叱られた時の映像が頭に焼き付いて離れず、私は憤って暗い窓の外を見詰めるばかりだった。

 異変に気付いたのは、車が大きく左右に揺れ動いた時だった。車両はそのまま左隣を並行して走っていた車両に衝突した。私は暫く人間として生活していた故に、咄嗟の受け身を取ることが出来ず激突と共に、負傷した。時間差で割れた窓ガラスが上から降ってくる。男からは、呼吸の音が聞こえてこなかった。

 それから何時間が過ぎたのかは、私には分からない。遠のく意識の外は、まだ暗かったように記憶している。私は何者かに潰れた車の中から優しく救出され、白い車の中に運び込まれた。五分ほど白々しい蛍光灯を眺めた後、寝転がった状態のまま薬品の臭いに塗れた建物の中に入り、痺れる薬やら包帯を巻きつけられるやら何やらされ、最後に一つの病室に寝かされた。その隣からは、規則的な呼吸音が聞こえてきた。

 ここで、私の意識は急激に覚醒した。いつもより耳が聞こえないから、という理由ではない。私の嗅覚が感知した空中の化学物質中に、私の知るにおいが混じっていたからである。

 私ははやる鼓動を押さえ、仕切られたカーテンを開いた。そこには、一か月間観察し続けた、悠治の姿があった。しかし彼は、日常に見せる顔から程遠い歪んだ笑みを浮かべていた。

「やぁ、ヴァンパイア」

 彼の方から、声を掛けてきた。私は驚愕故か、或いは恐怖故か、そんな事を区別できなくなるほど混乱していた。口から出てくるのは意味もない母音だけで、ただただ彼を見詰めることしか出来なかった。彼は自ら包帯を解き、紅に輝く瞳で私を見詰め返してきた。その目は細胞がズタズタに引き裂かれ、本来なら目を開けることもままならないほどの状態であった。

「ゆ、ゆ、悠治」

 名を呼ばれた少年は、顔を顰めた。

「やめてくれないか。俺は八重だ」

 唐突に何を言い出すのか、すぐには理解できなかった。彼が名を名乗った事だけは分かったが、しかし、別の名を名乗った理由が分からなかった。

「ゆ、悠治ではなかったの?」

「いや、それは俺の中の別人格だ。あいつには仕事は務まらないし、そもそもこの仕事を知らない」

「じゃあ、八重が兵器なの?」

 八重と名乗る少年は、不気味に口角を広げた。

「君さ、半年くらい前に、俺らの事を見張ってたやつだよね」

 私は口を閉ざした。よもや、気付かれているとは思いもしなかったからだ。それ程、悠治、もとい人間としての人格を持つ彼の顔は、平和な表情をし続けていた。

 私は冷や汗を掻いていた。始末されてしまうのではないかと、慄いていた。

「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。あの時あのまま姿を現すようだったら始末するつもりだったけれど。君は改心したらしいからね。あぁ、ちょっと違うか。気付いてしまったって、言った方が正しいね。君は、自分自身が偶然の産物であることに気付いてしまったんだ。そんな哀れな君を始末する程、俺は非情ではないよ。そもそも、無駄な殺生はしない主義だしね」

 八重は軽く笑って言った。それでも、私から不安の要素が取り除かれることはなかった。

 偶然の産物。

 彼は確かに、そう言った。簡単に言えば、ヴァンパイアというものが本来は生まれてくるべきものではなかったことを、暗に示しているのだ。

「やっぱり、私たちは要らない存在なの?」

 その問いにも、八重は笑ってみせた。

「要らない生命なんて、この世には存在しないさ。自然の中で偶然生まれてしまったものが、そのまま不要物になるとは一概には言えないからね。そんなことがまかり通ってしまえば、今のこの生態系は成り立っていない。なんと言ったって、生物の進化は至って偶然の産物だからね」

 彼の言葉で、私も漸く理解することが出来た。同時に、安堵と嬉しさが込み上げてきた。

「つまり、ヴァンパイアも、何かからの進化だということ?」

「うん、そう。人間からの進化だよ。まぁ、正確に言えば、突然変異体なんだけれども」

 私は息を呑んでいた。それまでの価値観が、一気に崩壊してしまったような感覚に陥った。

 人間からの進化。それ即ち、我々ヴァンパイアはもとは、人間だったということに他ならない。何がどうなって、或いはどのような環境下に置かれて進化するに至ったかは知れないが、とにもかくにも人間ありきでのヴァンパイアなのである。もっと言えば、人間がいなければ、ヴァンパイアが存在するような事象は起こらなかった。

「だから、ヴァンパイアを沢山始末しているの?」

 私の呟きに、八重が満足そうに唇を広げた。

「そうだね。人間が祖先であるとも知らずに愚かにも殺戮を繰り返すなど、笑止千万の至りだ。君たちの主食が人間の血液だという事実は食物連鎖の悲劇としか言いようのないものなのだが。それも度が過ぎれば、それも本能ではなく故意にやっているのだとすれば、自然を破滅させる行為と同義になる」

 彼は右腕を上げ、掌を天井に向けて開いた。その腕には、白い包帯が固く巻き付けられている。

「一昔前は、人間も同じくらいの対象だった。寧ろ、ヴァンパイアよりも始末する回数は多かった」

「自然破壊をしていたから?」

 私は最近仕入れた人間の歴史の知識を思い出しながら、相槌を打った。八重は薄く笑う。

「自然の中に身を置く人間共は、自然がなければ生きていけない事に気づいたんだろう。知能が発達している事で他の生き物より欲深く、横着な事には今も変わりないが、彼らの脆弱さが己に警笛を鳴らしたんだ」

 八重は腕を下ろし、呆然と天井を見ながら言葉を続けた。

「その反面、知的にも体力的にも優れた種であるヴァンパイアは、身一つだけでも己を保身出来る故に、その横着さと欲深さが肥大化していった。収拾なんて、つくはずもない。つけられるような奴がいないからだ。そういうのは人間にもいるけれど、両者には比べてはならない程の差異があるかな」

「だから、主な始末対象が、ヴァンパイアへとシフトした」

 八重が、赤い右目をころりと転がし、私を見据えた。

「君は賢いよ。数ある同種の中でも、己の存在意義に気づく程度には」

 そして、優しく笑うのだった。

「ねぇ、君の名前は?」

 唐突な問いに困惑しながらも、私は「朱莉」と端的に答えた。八重は満足そうに「朱莉ね」と反復する。

「朱莉、君さ、悠治を構ってやってくれない?」

 これはこれで、唐突な頼みだった。私は何も言えずに目を瞬いていると、八重が勝手に話を進めていく。

「俺の家の事情を考えたら、悠治の奴、一人になるんだよね。この歳で一人になるのは、社会的にもだけれど、精神的にもいろいろきついでしょ。だからさ、誰かについてて欲しいんだ」

 彼は、少年のような笑みを浮かべていた。自然が遣わした兵器である彼が、だ。

「ほら、俺たちって偶然事故って、偶然同じ病室に運び込まれた仲でしょ。加えて、そのお相手が以前にも見かけた事のある偶然の産物のヴァンパイアで、自分は偶然兵器に選ばれた生命体だ。これも何かの縁だと俺は思うんだよね」

 彼は楽しげに話す。私はそんな彼を見て、どうしても拭いきれない思いで溢れかえっていた。

「じゃ、じゃあ、八重はどうなるの?」

 彼は不思議そうな表情をした。何を言われているのか、理解できていないようであった。

「俺は今まで通り、自然の道具として働くだけだよ。もとより、その為の命だからね」

「そんな。自分が道具であるって、割り切っちゃってもいいの?」

 私の言い分に、彼は訝しげな表情をして見せた。

「割り切るって、俺は道具以外の何物でもないが?」

「それでも、魂を与えられた生命なんでしょ?」

 ここで漸く意を汲み取ったのか、八重は控えめに声を立てて笑った。

「何だそれ。君は変な子だね」

 笑っていた八重は傷に障ったのか、二、三度咳をした。それでも笑い続ける。さすがの私も癇に障り、自分の思いを彼に言い返した。

「折角与えられた命なんだから、思う存分に生きるべきだよ。存分に生き過ぎてる私が言うのもなんだけれど、それにしたって、八重は使命を全うし過ぎてる。そんなんじゃあ、生を受けた意味がない!」

 私の言い分に、八重は息を吐いた。些か、寂しそうな顔をしているようにも見えた。

「さっきも言ったけど。俺は使命を全うするために生を受けているんだ。それをせずに、俺の生きる意味なんてないよ」

「あるよ!」

 私は体に痛みが走るのも厭わずに、ベッドから上半身を乗り出した。八重は大きく目を見開いていた。紅の瞳が、室内の光を反射して煌めく。

「生きてるってだけで、生きる意味になるんだから!」

 八重は引きつらせていた表情を徐々に解き、呆れと共に息を吐き出した。

「本当に、変な子だね。言っている事が意味不明だよ」

 けれども、彼の口の端は嬉しそうに上がっていた。

「でもいいよ。君には参った。好きにするといい」

 それだけ言って、八重は目を閉じた。

 私も、相当馬鹿な事を言っているのは分かっていた。けれど、引き下がれない自分もいた。

 私はかつて、愚か者であった。それは、紛れもない事実で、私もそれを認めている。だがそれは、自分自身を知らなかった故の愚行であることに、今の私は気付いている。

 ならば、彼も。

 愚か者だ。

 隣から静かな寝息が聞こえてきた時、病室のドアが開かれた。中に入って来た人間は、私の里親の臭いを纏っていた。彼は里親を治療した医者らしく、私が起きている事を確認すると、残念そうな表情を浮かべてこう言った。

「残念ながら、お父さんは、お亡くなりになりました」

 私は淡白に返事をした覚えしかない。彼に思い入れがないわけではなかったが、それ以上に、私の中に発現した使命感が、一気に燃え上がっていたからだ。

 ――彼を自然の法則から解放してやること。

 もしかすると、私には手に負えない事なのかもしれない。自然がそれを許さないのかもしれない。それでも私は、悠治の、そして八重の傍に居続けることだろう。必然的な存在と、偶発的な出会いにより、繋がった縁なのだから。自然はその時、私を殺さなかったのだから。聴覚を低下させるだけに留まったのだから。

 たった、それだけのこと。

 それだけのことが、何とも狂おしく嬉しかった。

 目覚めた悠治に、声を掛けてみよう。そうして、自分がヴァンパイアである事を打ち明ける。医者を使えば、証明くらいはできるかもしれない。彼が退院したら、何をしようか。手始めに、退院祝いでも送ろうか。私の広く浅い趣味でも披露してみようか。彼に手伝ってもらうのもいいかもしれない。それから忘れてはいけないのは、誕生日プレゼントだ。これは、八重にも使えるものを渡したい。

 そう、これでいい。間違っているかどうかなんて、誰にも分かりはしないのである。たとえそれが自然であるにしても。法則に当てはまらない偶発的な出来事なんてものは、この世に満ち溢れているのである。

 ならば、とことん偶然の産物を量産してしまえばいいだけのこと。そうしようと自分自身が決め、自分自身がその決定に了解したのなら、それは正解以外の何物にもなり得ないのだから。

 

 そう、これが。



「お前の血は、とても不味いね」

 ナイフに付いた血を嘗めながらぼやく。

「まぁ、俺の仕事を思い出させてくれたことには感謝するよ」

 八重は銀のナイフを男の胸元に突き刺した。

 奴は完全に事切れていた。


              *


 気が付けば、息が上がっていた。部屋中は真っ赤に染まり、僕自身にも血がべっとりと張り付いていた。目の前にはあの男が転がっている。何十回に渡って切り裂かれた痕があり、無惨な姿になっていた。一度生き返った例があるため僕は一瞬警戒したが、あまりにも動かないそれに、どことなく永眠していることを悟った。

「朱莉がやったの?」

 勉強机の近くに突っ立っていた彼女に訊く。しかし、彼女ではないことが僕にも分かった。朱莉は返り血を浴びていなかった。一方で、僕の場合はどうだろうか。体は血に汚れ、動かないはずの右手にはしっかりと銀色のナイフが握られている。

 どう考えても僕がやったとしか考えられなかった。記憶の何処にもその事実が刻まれていなくとも、それが僕だと示していた。

「悠治、着替えようか」

 朱莉の手には赤白のボーダー柄のセーターが握られている。今日の昼間に放棄されたものだった。

「さっき完成したの。ほら、そのままでは嫌でしょ」

「うん」

 腕と顔にこびりついた血を水で洗い流し、差し出されたセーターに着替える。趣味の悪い柄をしているが、毛糸で編まれたそれはとても温かかった。

「私、悠治を守らなければならないと思う」

 突然呟かれた言葉に、僕は戸惑った。

「えっと、どういう事?」

「悠治は自然の言うことを聞いて、私たちを守っている。なら、悠治を守るのは一体誰だというの?」

 僕は朱莉が何のことを言っているのか分からなかった。ただ、それが僕をとても安心させてくれることは理解した。

「たぶん、私と出会った理由はそこにある」

 微笑みがこの空間を支配した。

「でも、それは永遠である必要があるの」

 朱莉は僕に抱きついた。

「だから、貰ってもいい?」

 僕は無言で頷いた。僕の中にあるものが、それを許したような気がしたからだ。

 首筋に朱莉の息がかかる。彼女は壊れ物を扱うかのように、そっと僕の首筋に触れた。一瞬だけ痛みが走る。

 この時僕は、朱莉は本当にヴァンパイアなのだなと思った。


どうも、鏡春哉です。

今回は短編小説に挑戦です。最後まで読んでくださった方、はたまた、これから読もうとしてくださっている方、どうもありがとうございます。

小説には、どうしても人外を入れたくなってしまいます。

中でも、ヴァンパイアは一番好きです。

あの妖艶な美貌と血をそそる姿は、想像を掻き立てられて止みません。

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