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昇竜滝登り伝説「白龍と呼ばれた男」  作者: ぺんぺんぐさ食べ男
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私は一匹の鯉だった

自分が子どもの頃、なぜ神という存在が目に見えないか不思議だった。

ミッション系の幼稚園に通っていたから無条件に神の愛を信じるように教えられた。

子供でもわかる聖書の絵本を読んでなんとなく物語は知っていたが肝心の神の姿は

描かれていなかった。どうして見えないものを信じられるのかが分からなかった。

父親に聞いても母親に聞いても、納得のいく答えはついぞ得られなかった。

寝床につくと、宇宙について、生きているということについて、自分が自分であることについて

とめどなく考える。幼い頭なので難しいことは考えられなかったが、それがかえって何時までも想いを巡らせることが

できたのかもしれない。段々眠くなる中で、最後はきまって神の存在について考えていた。

神を侮辱する言葉を頭で考えたことがある。

(神様のばか)

でも神が本当にいたら?自分は酷い目にあうだろう。

あわてて否定の言葉を思い浮かべる。

(神様のばかなんて嘘です)

しかし、ふとまた疑念が頭をもたげる

(やっぱ神様はばか?)

またそれを否定する、堂々巡り。繰り返しているうちに朝になって綺麗さっぱり忘れている。


神の存在を信じた方が得である、という考え方を知ったのは中学生になったころだ。

「パスカルの賭け」と呼ばれる古典的な問いである。

ただ、そんな言葉遊びは今生きている自分を助けるものとは到底思えなかったし、神を信じている人は

そんな理由で信じているはずがないと直感的に分かった。


神は死んだのか、最初から存在しないのか、はたまた生きとしいける我々を嘲笑っているのか

考えても答えは出てこない。ただ、どうしようもないモラトリアムの真っ只中、いくつかの知見を得られた

ように思う。「出会い」は人を変える、人が人に影響を与えることに信仰の原初があるのなら神は

人と人の交わりの中に見出せるはずだ、今ではそう思う。


前置きが長くなってしまったが、話の核は自分が高校に入学した時から始まる。春の息吹を微塵も感じさせぬ

陰鬱とした、太った少年が似合わない制服に戸惑っていた頃だ。

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