表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

4話「死んでも夢を叶えようとする者たち」

これまでのあらすじ

ブレザーが、喋った。


 店の壁にハンガーで服が吊るされていれば、おそらくほとんどの人は客のものだと思うだろう。側に誰かがいれば持ち主はその人、いなければ誰かが忘れていったものだとそれ程悩む必要もなく、判断するに違いない。

 その服が例え、どこかの高校で使われていそうな紺色のブレザーであってもその判断基準はさほど変わらない。酒の出るようなこの場に似つかわしくないな、とか、制服を忘れて帰るとは何事か、と多少は思うかもしれないが、とりあえず誰かのものであるという結論に最終的には行き着くはずだ。

 銀林沙穂もそんな、そんな大衆の常識に囚われた人間の一人だった。

 だから、予想だにしていなかった。

 壁に掛かったブレザーが。口も目も鼻も耳も手も足もない、その服が、突然低い声で自分に話しかけてくるかもしれないということなど、考えたこともなかった。体験した今でも、半ば信じられない。化け物じみた姿をもつ怪人たちにそろそろ見慣れてきた沙穂でさえも、これには仰天した。

「クク、もう一度言うぜ。俺の名前は究極の闇を司る小犬、ダーク・ブレイダーだ!」

 仰々しく、尊大な口調で、なぜかそのブレザーは再び自分の名を叫ぶ。右の袖を胸の前に置き、左の袖を真っ直ぐ斜め上に伸ばした、不思議なポーズを取っている。

 沙穂はその姿を数秒見つめたあとで、椅子を回転させ、カウンターに向き直った。

「そんなことより、マスター。そろそろ聞きたいんですけど

 紫色の甲冑に身を包んだマスターは、グラスを拭く手を止め、小さく首を傾けた。

「はい。私にお答えできる範囲でなら、構いませんが」

「あの……単刀直入なんですけど。あなた方は、一体何者なんですか?」

 両肘をカウンターの上につき、組み合わせた手の上に顎を載せながら、沙穂は思い切って尋ねた。マスターはグラスを手にしたまま、しばらくじっと沙穂を見つめていたが、やがて軽く息を吐き出し、それからグラスを手元に置いた。

「我々は、メアードです」

「メアード? あ、もしかして目やにをとる薬?」

「違います。私が言うメアードとは、夢の残骸です」

 沙穂は目をぱちぱちさせた。「夢の残骸」と彼の言葉を復唱する。それはひどく詩的な響きだと思った。

「人間や動物、魚や鳥、さらには時計やこのようなグラスのような物にさえ、皆、命があり、個性があり、感情があり、そして……夢を持っています」

 マスターはグラスを指で弾いた。こつん、と乾いた音がする。沙穂は半透明のそれを、目を細めて見つめた。

「物にも、命が?」

「人間にとっては信じがたい事実かもしれませんね。しかし、物にも命はあります。その有無を外に伝える手段を持たぬだけのことです」

 それは沙穂にとって、19年という年月によってこれまで培ってきた常識を、土台からひっくり返されるような衝撃的な話だった。

 沙穂はグラスを手に取り、一気に傾けると、中の液体を全て喉に流し込んだ。空になったグラスを、もう一方の手の指先で軽く突いてみる。沙穂には分からないだけで、このグラスは今、気安く触らないでくれと憤慨しているのかもしれない。もしくは、使ってくれていることに「ありがとう」と感謝の意を示しているのかもしれない。

「そしてその命が尽きたとき、それらが抱えていた夢――恨みだとか、欲望だとか、希望だとかいう言葉に言い換えても構わないのですが、そのようないわゆる“心残り”は肉体から離れ、塵のような姿をとって、町の空に舞い散るのです」

 空、と呟きながら、沙穂は視線だけを上向かせた。しかしそこから空など見えるはずもなく、目に飛び込んできたのは、天井に描かれた巨大な時計の絵だった。

「そしてその塵が、メアドリンという特殊な薬品によって凝集され、凝固した存在、それが我々、メアードの正体というわけです」

 マスターが話を終えたのと入れ違いに、爆ぜるような叫び声があがった。驚いて、声の聞こえてきた方角を素早く見やると、ソファー席でゲームに興じている3人の怪人らの姿が目に飛び込んできた。

 3人はなにやらゲーム内の専門用語らしき言葉を喚き散らしながら、テレビ画面の中で熱い戦いを繰り広げている。だが、今、3人が興じているゲームで遊んだことのない沙穂には、その意味はさっぱり分からない。座っている位置からでは画面すらよく見えないのだから尚更だ。「電気ショック」だの「何パーセント」だの、そんなことを叫んでいることだけは聞き取れる。

 何ともすっきりしない気持ちを胸に燻らせたまま、沙穂が顔を戻すと、マスターが口元に笑みを湛えてこちらを見ていた。

「さて、グラスが空のようですが……次は何に致しましょうか。またりんごジュースというのも、味気ないものでしょう」

「え、でも……」

 ライバルの奢りといえども、これ以上注文をすることには何となく気が引ける。だがその気持ちを察してか、マスターはわずかに腰を屈めると、台の上に顎を載せるような格好になって、沙穂と同じ目線に立った。突然、自分の眼前に怪人の顔が現われたので、沙穂は悲鳴を喉奥に押し殺し、僅かに身を引いた。

「なに、そんなにお気を遣わなくて構いません。気になるのであれば、これから先は私の奢りといたしましょう」

 ただし、とマスターは、篭手と金属製の手袋によって守られた手の人差し指を立てた。沙穂は黒目だけを動かして、その指先を見つめる。

「その代わり……これからもライバルと仲良くしてやってください」

 彼の発したその声が、思いもがけず優しいものだったので、沙穂は動揺する。それは子どもの身を案じる親のような口ぶりだった。慈しみの情が、言葉のみならず、その全身から溢れ出ているかのようだ。

 沙穂は数秒の間呆然としていたが、やがてこくりと頷いた。断る理由はなかった。そもそもライバルに会いたいと願い、彼に付いていったのは、沙穂の方なのだ。

「はい、じゃあ……うめジュース、いただけますか?」

 メニューを一瞥し、目に入ったものを適当に答えると、マスターは体を起こし、にこりと笑んだ。その口元から、カッターの歯を交互に組み合わせたかのような牙が覗く。

「かしこまりました」

 マスターは軽くおじぎをすると、沙穂の飲み終えたグラスを掴み、くるりと背を向けた。

 その背中を見つめながら、沙穂は先ほどのマスターの話を頭の中で整理する。非現実的で、非常識な要素でしか成り立っていない、とても把握の難しい話だ。理解しろと言われても、そう簡単にはいかない。沙穂はこめかみを掻きながら、ううんと唸った。

「夢、か……そういえば、他の怪人たちもそんなこと言ってた気がします」

「メアードにとって、夢は原動力です」。

グラスにジュースの注がれる音が、やけに大きく聞こえてくる。その音は沙穂の喉の渇きを加速させた。思わず唾を呑みこむ。。

「我々メアードの行動指針は、生前にやり残したことの実現です。生きている意味、と言い換えてもよろしいでしょうか。我々は夢に縛られ、支配されています。自らの夢を果たすために存在するのが、メアードというものなのです」

 マスターはグラスを持ち上げると、沙穂の前に静かに置いた。中には黄緑色をした液体が満ちている。底に沈んでいる丸い物体はおそらく梅だろう。沙穂は頭を下げると、グラスを自分のすぐ間近まで引き寄せた。

「我々が存在できる時間は1日のうち、たったの12時間です。夕方6時から朝6時までの間。その時間が過ぎれば、元の塵に還ります。必要以上に動いたり、特殊能力を発動したりすれば、その時間はさらに短くなります」

「なんか、シンデレラみたい」

「メルヘンからは程遠いですがね。ですから基本、我々は死ぬことはありません。もとはただの塵ですから。時間外になれば消滅し、時間になれば再生する、それだけです」

 沙穂はそうなんですか、と短く返事をしながらも、何だか今の話に引っかかりを感じていた。だがその違和感の正体は分からない。いくら考えようともはっきりしないので、気のせいだと思うことにした。耳慣れないことがあまりに多すぎたせいで、感覚が少し狂ってきているのかもしれない。

 悶々としたものを振り落とそうと、梅ジュースを口に含む。

 梅の澄んだ香りが口の中で膨らんでいく。その匂いに体を包まれていると。マスターの話す荒唐無稽な事柄も、少しは呑み込みやすくなるような気がした。

「……ということは、マスターも人か物か分からないけど、何かしらの死体から生まれて、それで、夢のために動いてるんですか?」

 耳にしたばかりの知識を総動員して尋ねると、マスターは口の片端だけを僅かに上げた。その表情は笑っているようにも、怒っているようにも見える。

「メアードである以上、それは必然です。詳しいことまでは、お客様といえども、お話することはできませんけどね。我々にとって過去や夢を知られることは、弱点を曝け出すことになります。この店のメンバーの情報でさえ、私はほとんど知らないのですよ」

「はぁ、はい」

 沙穂は何度か頷いた。別段、マスターのことを知りたいわけではなかったし、詮索するつもりもない。それよりも興味があるのは――

 もう一口、梅ジュースを飲んでから、沙穂はソファー席の方に目をやった。

 そこでは3体の怪人が身を乗り出し、相変わらずゲームに盛り上がっている。相変わらず何のゲームをしているのかは分からないが、先ほど見たときよりも、状況はヒートアップしているようだ。

 巨体をぶんぶんと震わせ、ユーゴがなりふり構わずコントローラーを振り回す。雄たけびをあげながら、片膝を立て、コントローラーのボタンを連打しているのは白装束を羽織った怪人、ジノだ。そしてその横では「バル! バル!」と必死な声をあげるライバルの姿が見える。

 彼もまた一度死を経験し、この世に未練を残し、何らかの夢に囚われた存在なのだという。沙穂は自分を助けてくれた、その小柄な英雄がどんな思いを胸に秘めているのか知りたかった。どんな理由や目的をもって自分と同じ存在に拳を振るっているのか、興味が沸く。一体彼は何者なのか。その正体に、マスターや他の店員は行き着いているのだろうか。

 そんなことを思った矢先、突然、ライバルがソファーから立ち上がり、興奮気味に万歳を始めた。画面を見ると、『WINNER』の文字がでかでかと表示されている。どうやら決着が付いたようだ。

「バルラーイ!」

「くっそ! あともう少しだったのによぉ! 侮ったぜ!」

 その横でジノがコントローラーを投げ出し、自分の膝を悔しげに叩く。

「あそこでハンマーを譲らなければ……不覚だ」

 クッションのスペースを3人分くらい取っているユーゴが、がっくりとうなだれる。

「バッルバルー!」

 ライバルは上機嫌に跳ね回り、ジノの顔の前にブイサインをかざしている。ジノは顔をあげると舌打ちし、その手を強く払い飛ばした。

「ざけんな! もう1度だ……次こそ勝利は渡さねぇぞ。今度は緑の弟でやってやる。俺の本気は、ここからだ」

「えー。まだやるんですかぁ……」

 やる気をみせるジノに対し、ユーゴはいまにも泣き出しそうな声をあげる。ジノは立ち上がると、床に落としたコントローラーを荒々しい動作で手に取った。

「馬鹿。このまま負けてられるかよ。早くはじめっぞ!」

「えー」

「バルバル」

 ライバルは笑い声をたて、画面の方に向き直る。ユーゴはため息をつくと、渋々といった様子でコントローラーのボタンを押した。

 その時、沙穂は気づいた。

 ライバルの顔色が僅かに変化する。歓喜と快楽に満ちていたその挙動は波が引くように収まっていき、代わりに神妙なものが顕わになった。

「お客様も、お気づきになられましたか」

 沙穂が眉を顰めたことに気づいたのだろう、マスターは落ち着き払った声でそんなことを言った。何が、と尋ねずとも沙穂には分かっている。他に考える余地もなくライバルの様子が突然変わったことを指しているのだった。

 それからの展開は、まさにあっという間だった。

 ライバルは何かを探るように首を巡らし、体を回転させて、周囲を見渡すと、やがてコントローラーをソファーの上に置き、ジノたちに背を向けた。

「おい、勝ち逃げか? そりゃ随分と手前勝手だなぁ、坊主よ」

「……バル」

 ジノの挑発にも、ライバルは全く応じない。低い声を発すると、沙穂を見やり、それからマスターに向かって頷いた。

「分かってる。いつも通り、ツケにしておいてやるよ。このお客さんのことも、心配しなくていい。お前が帰ってこなくても、家には送り届けておくよ」

 すでに慣れたやり取りなのか、マスターの発する言葉に淀みはなかった。ライバルは感謝の表現なのか、片手を軽く挙げると、入り口のドアに向けて駆け、ドアを開け放ち、外に飛び出していってしまった。ちりん、という鈴の音が残り香のように店内を舞う。

「ああやってまた1人、メアードが死んでいくんだね」

 ユーゴがライバルの出ていったドアを見つめ、目を細める。ジノはソファーを殴った。

「そんなことはどうだっていい! あー、すっきりしねぇ。おいユーゴ、もう一試合だ。今度は2人プレイでな」

「えー。ライバルがいなくなったのにまだやるんですか? 今こそあの女の子と遊びたいのに。2人プレイで」

「うっせぇ、女よりも男同士のぶつかり合いを優先しろ。お前にまで勝ち逃げはゆるさねぇよ。ほら、さっさとキャラ選べ。さっきと同じ、電気鼠でいくのか?」

 ユーゴの厳つい肩を叩き、ジノはライバル抜きでゲームを再開させようとする。ジノは沙穂をちらりと見やり、またため息を吐いてから、コントローラーを握り直した。

沙穂は入り口のドアに一瞥をくれ、BGMとして流れているクラシックの山場が終わるのを待ってから、マスターに顔を向けた。

「あの、ライバルは一体どこに……」

 マスターはカウンターの内側で酒を入れていたが、沙穂の質問にその手を休めると、鋭い牙を見せて言った。

「無論、悪い奴らを倒しに。お客様もそうやって彼に出会ったのではないのですか?」

 沙穂は瞠目した。振り返り、入り口のドアを見据える。自分が危機に陥っている時、一度だけならまだしも二度までも、こんなに都合良く通りすがるものなのだろうか、と疑問には思っていたが、まさかこんな場所から他のメアードの位置を察知しているとは思わなかった。

つまり――今、ライバルが向かった先には沙穂と同じように、怪人に日常を壊され、常識を覆され、窮地に立たされている人間がいるということになる。

 そこに行ってみたい、と沙穂は思った。助けられる立場ではなく、第三者としての視点ならば、ライバルが救世主たる理由を見つけることができるかもしれない。そんな期待が、急激に膨らむ。

「奴のもとに行きたいか、冥府に導かれし少女よ」

 そんな沙穂の胸の内を見透かすように、少し嗄れた声が聞こえてくる。もはや迷うことなく、沙穂は背後にあるブレザーに視線を移す。ブレザーは両袖を広げた格好で、さらに言葉を紡ぎ続ける。

「この俺を着ていけば、お前でも結界の中に入ることができる。せっかくの機会だ。この究極の闇を司る子犬が、力を貸してやらんでもないぞ?」

 沙穂は、必要以上に格好つけた振る舞いでそんな提案をしてくるブレザーを、こいつは一体どこから喋っているのだろうと不思議に思いながら見つめた。


 紺色のブレザー。別名、ダークブレイダー。通称、究極の闇を司る子犬。彼の体は、洗っていない犬の臭いがした。

 袖を通すと、むわっとした臭いが鼻を突いた。思わず脱ぎ捨てて漂白剤の中にたたき込み、洗濯機に入れたあと、乾燥機にかけ、燃えるゴミの日に出したくなるが、その気持ちを押し殺し、沙穂はブレザーを着終えた。

「クク……どうだ、この悪魔と等しき我を肌に纏った感想は? その体に滾る無限の力を前に、声も出せまい」

「なんというか……死にたい」

「クク、それはこの俺の魅力故か。まさにカリスマだな」

 沙穂はなぜか勝ち誇っている彼には応じず、ため息を零した。ブレザーは男物ということもあり、沙穂の体には少し大きい。袖などぶかぶかだし、丈も太股が隠れてしまうほどに長い。しかしパジャマ姿で外出しなければならない今の状況では、それを上着で隠せるというのは実に都合が良かった。ただし臭いは気になる。

 このブレザーと一緒でなければライバルの元にたどり着けない、という話は半信半疑であったが、マスターの薦めもあり、結局着ていくことにした。備えあれば憂いなしという言葉もある。沙穂は前のボタンを留めると、極力鼻呼吸をしないように気をつけた。

 ブレザーに導かれるがままに店を出て、長閑な森の中を引き返し、この世界に入り込んだ場所まで戻ってくる。そこには畦道の貸しコンテナ付近で見たのと同じように、空中にぽっかりと四角い穴が開いていた。まるで沙穂が帰ってくることを待っていたかのように。

「大切なのは出口の番号だ」

 ブレザーは襟をさざめかせて喋る。耳の側で囁かれるようで、その声は少し鬱陶しい。

「お前が入ってきた入り口以外にも、現実世界とこの空間とを繋ぐ穴は町に無数に存在する。そして許可書を持ってさえいれば、穴にそれぞれ振られた番号を頭に思い浮かべるだけで、出たい場所にたどり着けるのだ」

「許可書なんて、私持ってないよ」

「案ずるな。俺が持っている。お前がライバルと入ってきたのは3分の4番口。ライバルが今出ていったのは、8910番口だ」

「そんなことも分かるんだ」

「愚問だな。戯言だぞ、闇の少女よ。メアードは皆、大なり小なり、他のメアードの位置を知ることができる力を持っている。そして俺はその範囲がとてつもなく広いのだ。ライバルの位置を特定することなど、この広大な銀河の中から、星の落とした涙を拾い上げるよりも、容易いことだ」

「例えがよく分からない……」

 沙穂は眉を顰める。このブレザーの言葉を聞いてると、何だかこちらが恥ずかしくなってくるから不思議だった。これもまたメアードの備える能力の一部なのだろうか。

 とにかく、この宙に浮かぶ穴をくぐればライバルのもとに行けるらしい。

 今の沙穂にとって、それ以上のことはいらなかった。深呼吸をすると、肩を大きく回し、穴の縁に手をかける。そのまま足を載せ、意を決して穴の中に飛び込んだ。

 浮遊感もなければ、落ちていくような感覚もなかった。足裏に固い感触が伝ったため、瞼をあげると、目の前にガードレールがあった。ガードレールの向こうには、黒々と濁ったタールのような道路があり、さらにその先には夜の中で煌々とした光を宿す、コンビニがあった。沙穂は背後にある田んぼを一瞥すると、車の制限速度を示した標識を見上げた。夜風が頬を撫で、木々の葉を揺らして去っていく。

「私、戻ってきたのかな。元の世界に」

 独り言のように疑問を口にすると、ブレザーは胸元を少しだけ上下させた。

「ああ。正真正銘、少女のいた世界だ、ここはな。ククク……そして、ライバルはあそこにいるようだぜ」

 ほくそ笑み、ブレザーは右袖をゆらりと前に伸ばした。つられて、沙穂の手も前方を指す。その先には、全国にチェーン展開しているあのコンビニがあった。

 沙穂はガードレールをまたぐと、車の気配がないことを十分に確認し、道路を駆け足で横断した。逆側のガードレールも越え、コンビニに近づく。コンビニの前に停車している白いセダン車の横を通りながら、なぜ田舎のコンビニの駐車場はむやみやたらと広いのだろうとふと思った。

 自動ドアを抜け、店内に入り込む。軽やかな音楽が沙穂の来店を祝福してくれる。沙穂が異変に気づくまでには、そう時間は要さなかった。店の中には有線のラジオが流れていたが、どこか不気味な、いうなれば非現実的な静寂に満ち溢れていた。

 沙穂は店を軽く周りながら、店員が挨拶を投げかけてくるのを待った。だがいくら待てども、店員が姿を現すことはなかった。客の姿すらないので、それでは、あの停まっていた車は、誰のものなのだろうと怪訝に思う。

「ククク……物騒な店だ。店員すら出てこないとはなぁ。それとも無愛想な店、と言い換えたほうがいいか」

「うん」

 そこで沙穂はぎょっと目を見開いた。カウンターの上に置いてあるレジが、破壊されていたからだ。何か重たいものが上から落ちてきたような、ひどい潰され方だった。さらにさらにカウンターの内側にある煙草の陳列棚はひどい有様で、床には煙草が散乱している。

これまで気配でしか感じられなかった不穏が、ここにきてようやく現実味を帯び始める。

 沙穂はレジの前に立つと、カウンターの内側を覗き込んだ。「すみません」と声を張り上げてみるが、人の気配が店内に灯ることはない。沙穂はもう1度、周囲に視線を巡らせ、不安を覚える。無人のコンビニがこれほどまでに恐怖と危機感を煽るものだとは、あまりに意外だった。

「そう脅えるな。ライバルの発生させたメアード空間に呑み込まれているだけだろう」

「メアード……なに?」

「空間だ。暫し待て。今この俺が、お前の抱える謎を解き明かしてやる」

 不敵に言うと、ブレザーは両袖をそれぞれ左右に勢いよく突き伸ばした。袖に通してある沙穂の両腕も、自然と同じ姿勢をとる。さらに流れるような動作で、今度は胸の前で腕を交差させた。沙穂も同様の格好となる。自分の意思とは関係なく体を動かされるというのは、何だか操り人形になってしまったかの気分だった。

 沙穂の纏う紺色のブレザーが、淡い光を帯びる。何事かと目を丸くするのと同時に光は膨らみ、大きく爆ぜた。沙穂を中心とした周囲に光輪が広がっていく。やがてそれは店のレジや、本棚や、スナック菓子にぶつかると、宙に波紋を浮かばせた。

「あっ」

 沙穂は思わず困惑と驚愕の入り混じった声をあげた。波紋を浴び、わずかな揺らぎを帯びた景色が、徐々に崩れ、歪んでいくのを目の当たりにしたからだ。まるで水彩絵の具で描いた絵に水を被せたかのように、周囲の何もかもが溶けてなくなっていく。その光景は、見方によっては酷くグロテスクだった。あらゆる物の色や形が混ざり、淀んでいく。その中心で、沙穂は立ちつくす。少しでも動けば、現実が足元から崩れ、奈落の底に落ちていってしまうだろうという恐怖があった。

 入れ替わるように現れたのは、紫色の空と、荒れた大地だった。足元には、てるてる坊主が大根のように生えている。

 この場所に沙穂は見覚えがある。もはや馴染み深いその景色は、いつもライバルと共にやってくる珍妙な世界に違いなかった。

 視線を巡らせるまでもなく、ライバルの姿も見つける。彼は、頭に真っ赤なモヒカンを構え、枯れ木のような体色をした怪人と向き合っていた。声を掛けようとして、沙穂は言葉を呑み込む。その怪人の足元には、男が二人、俯せになって倒れていた。

「……なるほど、お前を倒さなければここから出ることはできないということか」

 怪人はその鼻の下にたっぷりと生やした髭を、ひくりひくりと動かしながら周囲を見渡す。再びライバルに向けたその眼差しには、明らかな敵意が滲んでいた。

「知っているぞ小童。お前、巷で有名なライバルだな」

「バルバル」

「夢の狩人。漆黒の断罪者……ふん、悪評しか聞かぬのお、お前に関しては」

 怪人は鼻を鳴らし、ライバルを指さす。ライバルは身構え、真紅の双眸を鋭く光らせた。

「だが、俺の始まったばかりの夢、こんなところで終わらせはせぬぞ。お前を倒し、この場から逃げさせてもらう」

「バッルバル!」

 怪人が全てを言い終えるのと同時に、ライバルは荒れた地面を蹴り、駆け出した。敵の数メートル手前で軽く跳躍し、固めた拳を力任せに振り下ろす。だが怪人はその場から動かず、攻撃を片手で受けきると、腕全体を振るってライバルを払いのけた。

「その拳で一体、何人の夢を壊してきた?」

 肩から胸にかけて伸びた鉄色のパイプを、掌で撫でつけながら怪人は問う。よく見ればこの怪人の体には、至る所に機械が埋め込まれているのだった。

「ライライッ!」

 ライバルはめげることなく顔をあげると、今度は全体重を載せた回し蹴りを打ち出した。雄叫びとともに放たれた一撃であったが、またしても怪人には通じなかった。ライバルのつま先を機械化した右肩で受け止めると、怪人は憐れむような表情を浮かべる。

「なんと驕った存在か。……許し難い。俺がその心、一度挫いてやろう!」

 その言葉に嫌なものを感じ取ったに違いない。ライバルはびくりと肩を震わせると、素早く背後に飛んだ。そんな彼を追いかけるように、怪人の胸部に備わった飴色の鉄扉が開く。やがてその内部から、薄黄色をした液体が大量に吐き出された。

 液体はライバルを逃がさなかった。噴出したそれは、彼の頭からつま先までをぐっしょりと濡らした。ライバルや着地するや否や、水浴びをした後の犬のように激しく体を震わせ、体に付着した水分を吹き飛ばす。その色合いや光沢、風に乗って微かに鼻腔をくすぐる臭いから、液体の正体は植物油に違いなかった。

「バッルバル!」

 いきり立ったライバルは敵を睨み付け、その足を前に踏み出そうとする。

 だがその足が、体が、前に進むことはなかった。右足が地面から離れ、さらにもう片方の足も宙を浮き、ライバルは腹部を強く地面に打ちつけた。

 つまりのところ、漆黒の戦士は派手に転んだのだった。ライバルは赤く腫らした顔をゆっくりとあげ、苦痛の声を漏らす。その姿に怪人は口を大きく開け、爆笑していた。

「いい恰好だのう。狩人よ。殺された者どもの痛み、少しは味わうが良い」

 怪人が自身の右肩に手をやると、そこに備わった機械から鉄串が飛び出してくる。怪人はそれを引き抜くと、大きく腕を振りかぶり、ライバルに向けて投げつけた。

「バッ、バル!」

 油まみれになり、転んだライバルには、攻撃を避ける余裕さえなかった。そして鉄串は容赦も躊躇もなく、ライバルの右肩を貫いた。

「ライバル!」

 耳を塞いでしまいたくなるほどの、あまりに痛々しい叫び声が彼の口からは迸り、沙穂はたまらず声をあげた。

「いい声だ……だが、容赦はせぬぞ!」

怪人はライバルに飛び掛ると、起き上がろうともがく彼目がけて、拳骨を叩き込んだ。

 その琥珀色の空気を突き破った轟音は、がつん、とも、どがん、とも聞こえた。それは何か硬いもので、アスファルトの地面を強く叩いたような音だった。実際にはそれは、怪人の拳がライバルの額を叩き割った時に生じたものだった。衝撃に吹き飛ばされたライバルは地面に背中から落ち、大きくもんどり打つ。主人を心配するかのように、その腰にぶら下がったお守りの鈴が、けたたましく鳴った。

 怪人は髭を指先で撫でつけながら、下卑た笑みを浮かべる。その手にはいつの間にか、またも鉄串が握られている。

「……ライバルを憎悪するものは多い」

 沙穂の胸のあたりで、低く落ち着いた声が聞こえた。もちろん、沙穂が喋ったのではない。それはブレザーの発言だった。

「マスターが説明していただろう? 我らは死なぬと。だがそこには例外が存在する」

「例外?」

「そうだ」

 ブレザーは右の袖をぐいと持ち上げるようにする。同時に沙穂の腕も引き上げられる。その手が示す先には、疲労困憊な様子のライバルがいた。

「ライバルはメアードを“殺す”ことができる。そして奴は、自分の認めた悪を滅ぼすために動く」

 沙穂は自分の心音が、とくりと、小さく跳ねるのを感じた。胸の内に押し寄せてきたのは、まさか、という疑念と、やはり、という得心の両方だった。

「メアードなら誰もが奴を呪い、憎み、恐れ、嘆く。奴は孤独でいることを生まれながら強いられた存在なのだ」

「そんな……」

 コンタクトレンズの怪人の態度。ユーゴがライバルに怯えていた理由。沙穂の入店に合わせるかのようにバーから怪人たちがぞろぞろと出てきた意味。心の中で燻っていたそれらの謎が一気に氷解し、全てが繋がっていく。

 怪人が腕を軽く後ろに引き、鉄串を投擲する。ライバルは自分の肩から一息に鉄串を引き抜くと、それを薙ぎ、投げつけられたものを力任せに叩き落とした。さらにお返しとばかりに腰を捩り、鉄串を投げ返す。

 だが、その反撃はいとも容易く失敗に終わった。

不遜に鼻を鳴らす怪人の目の前に突如、光の球体が出現し、それが鉄串を防いだからだ。

 曖昧な輪郭を宿していたその光は、やがて明瞭とした形を取り始める。鉄串に貫かれながらも宙を浮かぶ、ピンポン玉サイズのそれは――非常識で、非現実的ではあったが、その光景を認めざるを得ないほど、明らかに、とても美味しそうな鳥の唐揚げだった。

「“唐揚げシールド”見たか、これぞ俺の能力」

 串が刺さった唐揚げを怪人は片手で受け止めると、それをすぐさま口に運び、咀嚼する。

「まだそれほど動く元気があったとは仰天だ。……よかろう、では引導を渡してくれる」

 ごくり、と唐揚げを呑みこんでから、怪人は歯を食いしばり、こめかみに血管を浮かばせた。するとその体から黄土色をした光球が、まるで蛍のように次々と出現し始める。それらは全て、やはり鳥の唐揚げだった。きつね色に揚げあがった表面が、なんとも食欲を刺激する。バーでジュースを飲んでいなければ危ないところだったな、と沙穂は涎を拭う。

「ゆけ、お手製の唐揚げたちよ! この俺に勝利をもたらすのだ!」

 指揮をとるように怪人が大きく腕を前に突き出すと、唐揚げたちはまるで自我を持つかのように動き出し、ライバルに襲い掛かった。

「バルゥ!」

 ライバルはその双眸を赤く光らせながら、身構える。あらゆる軌道をたどって迫りくる唐揚げに対処するためなのか、腰を低くし、間近まで来たタイミングで後ろに飛び退いた。

 だが――ライバルの反応を、唐揚げの飛行スピードははるかに上回っている。

 先行した唐揚げが、ライバルの腹部にねじ込まれる。それは彼の皮膚にめりこむと、はじかれることもなく、そのまま体内に入り込んでいってしまった。

「唐揚げが……ライバルの中に!」

 まるで水面に物を落とした時のように、揚げ物が生物の皮膚をたやすく突き破る、というあまりに衝撃的な光景を前に、沙穂は目を丸くする。さらにライバルに異変が起こった。胃のあたりを押さえるようにすると、急にえづきだしたのだ。背中を丸めたその姿は実に苦しそうで、呻き声さえも漏れ聞こえてくる。

「俺の生成する唐揚げは、その油分や味を自在に変化させることができる」

「バル……!」

「どうだ、油分93パーセントの唐揚げを直に叩き込まれた気分は? お前の内臓は今、胃もたれを起こしているはずだ」

 怪人は唾の溜め込まれた口を動かすようにして、濁った笑い声をたてる。その肩から生えた煙突から、白い煙がもうもうと吐き出されていた。

「絶望するのは早すぎるな……これはまだまだ序の口だ。体の内も外も油まみれにしてやる! 油・ザ・オールナイト! ノーキャベジン!」

 白煙に包みこまれながら、怪人は高らかに叫ぶ。するとその高揚に触発されたかのように、さらに速度を増した唐揚げの群れが、次々とライバルを蹂躙していった。

「バ、バリュ……ラバリュ」

「逃げようとは思うな? 俺の唐揚げの最高速度は……時速120キロだ」

 拳を打ち出し、つま先を振るっても、高速で動く、小さな唐揚げたちをライバルは捉えることができない。五つ目の唐揚げが体の中に消えると、彼は大きくよろめいた。

「さて……そろそろフィニッシュといかせてもらおうか。唐揚げ帝国の建設には、いくら時間があっても足りないのでな。人の夢を打ち落とす悪戯は、他でしてもらおう」

 怪人が肩から鉄串を引き抜く。絶えずえずき、いかにも苦しそうなライバルを、不安な気持ちで沙穂は見つめる。彼の握りしめられたままの右拳が、かえって困惑を助長させる。

「でも……」

 沙穂は倒れ、身じろぐことさえしない人たちの方を一瞥する。脳裏で彼らの姿と、気を失った奈々の青い顔とが重なる。さらにその光景は、沙穂の頭の中からずっと昔の記憶をも掘り起こした。

 無数の管に繋がれた、赤ん坊の痛ましい姿。目を赤く泣き腫らした、母親の横顔。

 カメラのフラッシュを焚いた時のように、一瞬の閃光とともに脳裏をよぎったそれらの映像を、沙穂は胸の奥に封じ込める。

「でも、私にとってライバルは、やっぱり救世主だから」

 誰にともなく、宣言する。ブレザーはあたかも、何の変哲もないただの衣類であることを主張するかのように、何の反応も示さなかった。

「……だから、やっぱり、負けないでほしい。負けて、ほしくない」

 夢を壊すため。人を守るため。傷つきながらも、同族と戦うことを止めないライバルと同じように、沙穂もまた拳を固く握りしめる。その掌に、祈りをこめながら。

 ちりん。鈴の音が、荒廃した世界に響く。

 ライバルは、ゆっくりと顔をあげた。そのベルトが深紅に輝く。バックルのメダルが、燃えるような光を放った。

 怪人が鉄串を握る腕を振りかざし、意気揚々と駆け出す。全身のあらゆる箇所に装着された機械をがちゃがちゃといわせながら、地を跳ねるように移動し、手にする得物の切っ先をライバル目がけて突き出した。

 ライバルは放たれたその刺突を、避けることも、防ぐこともしなかった。その左手にはいつの間にか鉄串が握られている。

 全く淀みのない動作で、彼は飛び掛かってきた怪人の腹部目がけ、その先端を突き刺す。同時に怪人が放った一撃も、ライバルの脇腹を穿った。

「……随分とぬるい反抗ではないか」

 怪人の胸部を貫いたはずの鉄串が、ぽろりと落ちる。どうやら油で手が滑りやすくなっていたため、力がうまく入らず、敵の皮膚に深い損傷を与えるまではいかなかったようだ。

「そんな攻撃で、俺に一矢を報いたつもりか! 小童!」

 語気を荒らげた怪人の拳が、ライバルの胸を殴りつける。その力は凄まじく、ライバルの体はまるで打ち上げ花火のように突き上げられ、空を舞った。頭上にあるライバルの姿を見上げながら、怪人は自身の周囲に光球をいくつもばら撒く。それらはやがて、こげ茶色の唐揚げへと一斉に変化を遂げた。

「これが俺の最終奥義――煌めけ、“唐揚げ流星群”!」

 その身をわずかに震わせ、浮遊する唐揚げたちが一斉に動き出す。無数の矢のように放たれたそれらは砂糖に群がる蟻のようにライバルに纏わりついていく。

「頑張れ、ライバル!」

 考えるよりも先に、思うよりも前に、沙穂の唇は言葉を紡ぐ。上昇を終えたライバルの体が、今度は落下を始める。その体の周囲に、いくつもの光が瞬いた。

 ライバルがその目を見開いた。呼応するかのように彼の周囲にある光もまた、唐揚げへと変わる。それらもまた流星群のように、地上に落下していった。もはや茶色の塊としか認識できない速度で地面に突き刺さっていく唐揚げたちは、その過程でライバルに襲いかかる唐揚げを次々と打ち落としていく。

「馬鹿な、俺の奥義を!」

 空で弾け、砕けていく精鋭たちを前に、怪人は唖然と言葉を零す。だが次の瞬間、その表情にわずかながら恐怖が滲んだ。

手足に唐揚げを装着したライバルが、怪人の眼前にまで接近していた。

「ライバル!」

 それは恐ろしいスピードだった。怪人に向けて拳を振り上げるライバルの胸の目は開眼し、腕には黒い瘴気が纏われている。沙穂も、怪人も、一歩も動くことができなかった。

「バルゥウウウウウッ!」

 ライバルの雄叫びが、こだまする。空を裂き、地を砕く速度と威力をもって振り下ろされたその一撃は、怪人に全く反応する隙を与えず、その胸を貫いた。

「ぐあああっ!」

叫喚が跳ね、怪人は吹き飛ばされる。着地したライバルは、緑色の液体の滴る拳を撫でながら、ゆっくりと身を起こした。真紅の目で睨むその先には、よろめきながらも立ち上がる、怪人の姿がある。無残にも胸には大きな穴が開き、そこから油が血液のように流れ出していた。

「お前……唐揚げの追撃速度を、利用して」

 怪人の体のあちこちから黒煙があがり、火花が散る。その足元に装甲片が落ちた。途中で切断されたパイプが地面に引きずられ、折れた煙突から絶えず甲高い音が響いている。

「俺の夢、欲望……お前などに、譲り渡すわけには……」

 周囲に無数の光が瞬き、再び唐揚げを生成しようとする。だがそれを成すだけの力がないのか、光は唐揚げに変わる前にほどけ、霧散していく。

「ちく……しょう……」

 ひび割れた声が、髭の下から漏れる。やがて怪人の体は光の粒と化し、乾いた風の中に消えていった。


 不思議な世界から解放されると、沙穂はとりあえず救急車を呼んだ。

怪人の被害にあった人たちを助けるためだ。それから警察にも電話を入れておいた。壊されたレジを何とかしてもらうためだ。しかしそうしている途中で、倒れていた店員が目を覚ましてくれたので、彼に全てを任せ、立ち去ることにした。ここで起きた出来事を説明できるほど、沙穂は状況を理解してはいなかったからだ。ならば、いっそのこと何も知らない人間に説明を任せたほうが、効率的である気がした。

 あとでこのコンビニで買い物をしよう。2000円分くらい。暗闇の中を逃げるように走りながら、沙穂はそんな誓いをたてるのだった。

 幽明開亭に戻ると、すでにライバルは帰ってきていた。店内のソファーに仰向けで寝そべり、ぐったりとしている。肩に空いた穴が痛々しい。彼は沙穂が近づいても、何の反応も示さなかった。もしかしたら寝ているのかもしれない。怪人が死んだとしても、胃の不調が残っている可能性は十分にあった。

「おかえりなさいませ、あなたの求めていたものは、見つかりましたか?」

 マスターがカウンターの内側でグラスを磨きながら、にこやかに尋ねてくる。

「はい、おかげさまで」

沙穂はブレザーを脱ぎ、元のようにハンガーに掛けた。すると「どうだ? この俺との流浪の旅は、さぞ愉快な時だったろう」と声が聞こえてきたが、無視をする。

「人間の世界では何が正義か、何が悪か、しばしば問われると聞いたことがあります」

 グラスを置くと、マスターは沙穂を真っ直ぐに見つめながらそんなことを言った。彼以外の店員の姿はなく、先ほどの喧噪が嘘であったかのように、店内は静まりかえっている。

「ですが、メアードの間ではその答えはとうに出ています。ライバルに許されたものが正義、そして許されなかったものが、悪です」

「悪……」

「我々にとって、ライバルは災害や病気のようなものです。その機会は平等に、忘れた頃にやってくる。そういうものとして我々、バーのメンバーは彼を理解しているのですよ」

 何度も説明をしてきたことなのだろう。マスターの語調はひどく滑らかだった。病気、という単語に、沙穂の脳裏には再び過去の映像が瞬くが、頭を振ってその情景を払う。

「しかし……お客様のような人間でしたら、そんなことに脅える必要もなく、ライバルと付き合うことができる。だから、宜しければあいつと仲良くしてあげてください。悪い奴では、けしてありませんから」

 マスターの語調が、ひどく柔らかいものに変わる。その瞬間、沙穂はマスターのライバルに対する気持ちを理解した。ライバルの方を一瞥し、それから全身を使うようにして大きく頷いた。

「はい! それはもちろん。ライバルは、私の救世主ですから」

 マスターがにやりと笑う。沙穂も微笑んだ。カウンターの内側に掛かった時計を見れば、もう3時過ぎだ。沙穂はそこでようやく、朝一でバイトの面接があることを思い出した。

「あ、私、そろそろ帰ります。ライバルによろしく伝えておいてください」

 沙穂が踵を返し、去ろうとすると、マスターから「あ、これを」と声が掛かった。首だけを捩って見ると、彼はカウンターの上に1枚のカードを乗せた。

「お客様は信頼できる人間のようだ。これを持って行ってください。ここの許可証です。また暇ができたら、ぜひ、遊びにいらしてください」

 マスターは少し演技がかった仕草で、恭しく頭を下げる。沙穂は少しの間、マスターのことを見つめ、それからカウンターに近づくと、差し出されたカードを手に取った。

「どうも、ありがとうございます。絶対、また来ます。今度は自分のお金で。あと、パジャマじゃない服で」

「ええ、いらしてください。我々はいつでも、ご来店をお待ちしておりますよ」

 沙穂は頭を軽く下げると、今度こそ出口に足を向けた。寝ているライバルに手を振り、店を出る。外は相変わらず絵画のように晴れ渡った空と、青々と茂る森が広がっていた。

 頭上を横切る鳩の群れを仰ぎ、店を振り返る。しばらくそうして突っ立ったあとで、カードをパジャマのズボンのポケットに滑り込ませた。

 日が昇り、朝になれば、これまでと同じ日常がやってくる。今夜の出来事は、まるで夢であったかのように思えることだろう。

 サンダルの靴底を意識して、地面を踏みしめるように歩いてみる。

 足裏に返ってくる感触が、沙穂には命の鼓動であるかのように聞こえた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ