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2話「救世主との再会」

 扇風機から吹く風が、室内に漂う温い空気をかき回している。支柱から羽に至るまでピンク一色に染められ、中央にマジックペンで顔の書かれた扇風機は、まるで親を探す迷子の子どものように忙しなく首を左右に動かしていた。風はささやかであったが、畳四枚で組まれたその部屋には隅まで十分に行き届いている。

「ぎ、ん、ばや、し」

 静寂に時を刻む音が伝う。それは壁に掛かった白くて丸い時計が発しているものだった。

「さ、ほっと」

 そよぐ風に右端の剥がれたポスターが揺れる。『フライドポテト三兄弟』と大きく書かれたもので、その文字に重なる形で、ギターを掲げる三人の男がでかでかと映し出されていた。

「誕生日は……えっと、11月、15……か、14。やっぱり16」

 扇風機の駆動音と、時計の針の音と、それらの間を縫うようにボールペンを走らせる音が、部屋の中で三重奏を奏でている。窓の外は淡々とした闇が広がり、車の音一つ聞こえてはこなかった。

「よし、できた」

 ボールペンを机の上に投げ出すと、銀林沙穂はその場で大きく伸びをした。彼女の前にあるのは履歴書だった。まだ写真は貼っていないが、それ以外の項目は全て埋まっている。

「明日、朝一で写真撮りにいけばいいかな……。確か講義は午後からだったし」

 一人でぶつぶつと呟きながら、明日の予定を頭の中で確認する。一人暮らしを始めると独り言が多くなるとはよく言われるが、沙穂も例外ではなかった。そもそも実家で暮らしていた時から独り言は多く、友達からは「沙穂ちゃん、グラップラー現象ってなに? 急に何を言ってるの?」と怯えられ、母親からも「あんたは私と話している時間よりも、一人で喋っている時間の方は長い」と指摘を受けていたほどだった。

 だが、沙穂はこの悪癖を治すつもりはない。というよりも、治すことなどできない。三つ子の魂百まで、とは残酷なことわざなのだ。

「もう1時か……トイレ行って、明日のために寝よう寝よう」

 自らに命じるように口走り、腰を上げる。もう寝巻きに着替えは済んである。うさぎさんの柄の青いパジャマだ。柄こそくまさんだの、かえるさんだの、様々であるが、沙穂が所持している寝巻きは全てのこのシリーズだった。

 沙穂が暮らしているアパートの部屋は、四畳と五畳の和室と、それとは別にキッチンが用意されているという構成になっていた。トイレと風呂は別で、インターホンも常備されている。駅からも学校からも少しだけ離れた場所であったが、アパートの大家が母親と知り合いで、家賃も少し負けてくれるということでこの部屋を借りることに決めたのだった。

 和室のドアを開け、キッチンを通ってトイレに向かう途中で、沙穂はふと足を止めた。

 ポットの載せられた丸椅子の足に、お守りが落ちているのを見つけたからだった。鈴の二つついたもので、『交通安全』の文字が書かれている。

「あっ!」

 沙穂は声をあげ、腰を屈めると、慌ててそれを拾い上げた。どうやら知らぬ間に、カバンの外に転がり出てしまっていたらしい。両手でお守りを包み込むようにしながら、なくす前に気付いてよかったと安堵する。

「……そういえば、あれからもう随分経つなぁ」

 沙穂は右目だけを閉じて、灰色のドアを見つめる。両目の視力のバランスが悪い生活にはそろそろ慣れてきたが、やはり時折視界が揺らぐ。それでもあのコンタクトレンズの怪人が消滅したことで、その効果は大分薄れたようだった。

 とりあえず自前のコンタクトレンズを右目だけに付けることで、それほど違和感なく生活はできている。履歴書を枠からはみ出さずに書くこともできた。

 だが、寝るためにそれを外してしまうと、やはり視力を均一に保てない不便さを思い知らされる。これから寝るためにコンタクトレンズを外さなくてはいけないことを考えると、少し憂鬱だった。

「やっぱり片目だけのメガネが必要かな……そんなの作れるか知らないけど」

 お守りをパジャマのポケットにしまい、ため息をつく。転ばないよう慎重に壁を指先でなぞりながら、トイレに向かう歩みを再開させた。

 あれから3週間あまり経つが、ライバルはおろか、他の怪人にさえ遭遇することはなかった。やはりあんな奇妙な出来事と出合うことは、そうそうあるものでもないらしい。

だが、この町に不気味な姿と能力を持つ化け物が存在することは確かだった。さらにその化け物は人間に対して攻撃をしかけてきている。今この時も、きっとどこかで行動を始めているのだろう。沙穂が知らないだけで、この間の自分たちのように、襲われている人もいるはずだ。そしてライバルもまた行動し、沙穂を救ってくれたように、化け物に狙われ、脅える人々を救っているのかもしれない。

いや、駆けつけて救っているに違いない。そう沙穂は断言する。

なぜなら彼は絶望を希望に変えてくれる、この世に舞い降りた救世主なのだから。

一体いつになったら、ライバルにお守りを返すことができるのだろうか。あれは彼にとっておそらく大事なものではないのだろうか。あの場所から拾い、持ってきてしまって本当に良かったのだろうが。

 様々な考えを巡らせながら、ドアの前に立つ。それと共に、沙穂のポケットの中で鳴っていた鈴の音が止んだ。ドアノブに手をかける。逆の手で頬を掻きながら、ドアを一気に引いた。

 災害は忘れたことにやってくる、とはありきたりな警句である。だが沙穂はまさに今、その言葉を実感することとなった。

 沙穂はぽかんと口を開いたまま、その場で棒立ちになった。目の前の光景に、意識が置き去りをくらう。

「えっ……」

 沙穂は一人暮らしである。時折他の誰かが泊まりにくることくらいはあるが、現時点では、沙穂以外にこの部屋には誰もいない。

 いるはずがない。

 いてはおかしいのだ。

 それなのに沙穂の目の前には――ドアの向こうにある便座の前には、灰色の背中があった。彼女よりも一回り大きなその体は、おそらく2メートル近い身長を有している。その質感はまるで石像のようだ。

 その白色の石が象っていたのは、上半身裸の男性の姿だった。下半身には薄い布が巻かれており、局部こそ隠されていたが、その不埒としか呼べない格好は純情な女子大学生である沙穂に衝撃的なものを与えた。

 背後に立つ者の存在に気が付いたのか、トイレの中に立つ上半身裸の変態は、ゆっくりと振り返る。その佇まいは自信に満ちており、泰然としたものすら感じられた。

 そこで沙穂は、さらなる恐怖と驚愕を味わうことになる。

 確かにその変態の体は、うっすらと筋肉の浮いた人間の男の裸に違いなかった。だが今となっては、それは実に些細なことだった。

 振り返った変態の頭部は、人のものではなかった。それは明らかに鳥類の姿をしていた。

頭は鳥で、首から下は半裸の男。それがその変態の――怪人の、全貌だった。

怪人の腹部には人間の少年の顔が埋もれ、その両肩にはそれぞれ人の手が載せられている。それらも全て怪人の体を構成する石像の一部であるようだった。首には花を編み合わせた、色鮮やかな首飾りが掛かっている。

あまりに信じがたい光景に固まる沙穂を、怪人はつぶらな鳥の目を細め、見つめる。そしてその黒い嘴の先端を大きく開き、やけに張りのある声を発した。

「閉めたまえ! ノックもせずにドアを開けるなど、非常識な! 無礼だぞ!」

「あ、はい。すみませんでした」

 沙穂はドアを閉めた。ドアの内側でかちり、と鍵の閉まる音が聞こえた。


 沙穂はトイレのドアの前に立ちながら、今、自分の身に降りかかってきた出来事を、頭の中でゆっくりと整理した。

「どうしよう。うちのトイレになんか変なのがいる……」

 戸惑い、どうしたらいいか分からずに、視線を周囲に彷徨わせる。何にせよ、沙穂としてはここが自分の家であり、今まさに尿意を感じている以上、あの怪人にはトイレから立ち退いてもらわなければどうしようもない。だが一体どうすればいいのか、つい数日前まで、何の変哲もない日常の中にいた沙穂には全く見当さえ付かなかった。

「……よし」

 息を吸い込み、頭の中を鮮明にさせる。高鳴る心音を耳の奥で聞きながら、意を決して、ドアを力強く叩いた。他の部屋への配慮など、考えている余地はなかった。

「ちょっと、私のトイレを返してよ!」

「入ってまーす」

「そんなの知ったこっちゃない! 早く出てよ!」

 拳を用い、ドアを叩き破るくらいのつもりで、ドン、ドンと音を重ねていく。するとやがて、内側からドアが薄く開いた。沙穂が後ずさると、一気にそれは開け放たれる。

 視界に飛び込んできたのは、腰を捩った姿勢でこちらを見据える、怪人の半裸だった。

「残念だったな!」

 怪人は人差し指で、菜穂の顔を指した。そしてその目をカッと見開き、大声で宣言する。

「私は探偵だ!」

 それだけを発して、怪人は再びトイレのドアを閉めた。菜穂は意味が分からず、立ちつくしながら眉を顰めた。

「よく分からないけど、あいつが探偵じゃないのは確かだ……いたとしても変態探偵だ。略して変偵だ……」

 顎に手を当て、さてこれからどうしようかと思い悩む。何が目的なのか分からない以上、対処のしようがなく、非常に厄介だった。

だが沙穂としても、こんなところでいつまでも押し問答しているわけにはいかない。太腿を擦り合わせながら、今度は先ほどよりも弱い力でドアを叩いた。

「ねぇ。いい加減に出てよ。トイレは1人5分でしょ」

「ゲームは1日1時間だ」

「1時間は入ってる方も、待ってる方も辛いよ。というかさっきから見る限り、便器の前で立ってるだけじゃない。トイレにいるなら排泄行動に励んでよ」

「まぁ、待ちたまえ。今、いちごオ・レを淹れているところだ。ティータイムは紳士の嗜みだからな」

「紳士はトイレでいちごオレ飲まないと思う。それ以前にあんたは探偵でしょうに」

「残念、あれは大嘘だ! 私は探偵などではない。私の罠に引っ掛かったようだな! やーい!」

「くそっ、なんでそんなすぐ分かるような嘘を……」

 沙穂は目を伏せた。ドアノブに手を掻けるが、ガチャリと音がするだけでそれは回らない。どうやら怪人は鍵を再び閉めてしまったらしい。その事実に気付いた瞬間、沙穂は目前が真っ暗になったような気がした。

「詫びに教えてやろう、私の名前はダブルシー。好きなものはいちご大福だ」

 詫び、という割にはまったく悪びれている様子のない語調で、自らをダブルシーと名乗ったその怪人は言う。沙穂は顔をあげ、今では鉄の壁のようにみえる、トイレのドアを見つめた。

「目的は……あんたの目的は、一体何なの?」

 呼気を荒くしながら、途切れ途切れに尋ねる。するとダブルシーは軽やかな、しかしやはり渋味のある笑い声をあげた。

「ははっ。いいだろう、教えてやる。これは私の、偉大なる夢の実現なのだよ」

「夢?」

「そうさ。私の夢はトイレで暮らすことなのだ。いちごオ・レを飲みながらな!」

 沙穂は唾を呑み込み、喉を鳴らした。あまりに衝撃的な事実に、すぐに言葉が出てこなかった。

「別にそれを、私の家のトイレで実現させなくてもいいだろうに……」

「そうとも。このトイレに入ったのは単なる偶然さ。己の運の悪さを悔やむのだな!」

 わはは、と勝利に満ちた笑いを怪人は高らかにあげる。

 ダブルシーの豪快な笑い声がとどめとなって、何だか立っているのも辛くなり、ドアの前で沙穂はへたり込んだ。ドア1枚挟んだ向こうに天国はあるのに、なぜこんなに遠く感じるのか、心底理不尽に思う。だがこの怪人をどけるのは、どうやら容易なことではなさそうだった。

 とりあえずここは引き、近くのコンビニまで足を伸ばしたほうが良さそうだと考え直すことにした。ドアに掴まりながら立ち上がると、深いため息をつき、踵を返す。

 気怠い思いを抱えたまま、顔をあげ、玄関のドアの方を見やったその時。

 何の前触れもなく、世界が、変転した。

「これって……」

 沙穂はたたらを踏み、立ち止まる。もはや沙穂が立っているのは自分の家ではなかった。

 視界の限りを埋め尽くすのは、潤いを忘れた褐色の大地だった。空は灰にくすみ、周囲を飴玉や煎餅やピーナッツが蝶のように舞っている。足下をキャベツの群れが列を成して転がっていった。甲高いエンジン音が聞こえたため、そちらに目をやると、大型バイクに乗ったビーバーが脇目もふらず、砂埃を巻き上げながら疾走していくところだった。

「馬鹿な。私のユートピアが消えただと……」

 当然のことながら、この世界からは菜穂の部屋のトイレも消滅していた。トイレから無理やり引きずり出された鳥頭の怪人、ダブルシーは何が起きているのか分からない様子で、周囲に視線を巡らし、うろたえている。右手に持つコーヒーカップを足元に落とした。中から桃色の液体が飛び出し、地面に染みを広げていく。

「まさか、これはメアード空間か!」

 怪人が沙穂の聞き覚えのない単語を口走り、灰色の空を仰ぐ。沙穂は無言のまま、周囲をぐるりと見渡した。

 あまりに非現実で、理不尽で、不可思議な景色。ダブルシーが戸惑うのも無理はないと思う。だが、沙穂はこの世界を知っていた。そしてあちこちに佇立する捻れた石柱と、地面に突き立てられたサンマを目にした瞬間、胸の奥で膨らんでいた願望は、確信となって全身に柔らかく溶け込んでいった。

「まさか、でも、やっぱり!」

 自然に頬が緩む。安堵が喉元を伝っていく。そして彼女の期待を一心に受け――その存在は物陰から姿を現した。

「……やっぱり、ライバル!」

「バルゥゥウウ!」

 雄たけびが荒野にこだまする。同時に飛び出した黒い影が、ダブルシーの横っ面を殴り飛ばした。苦悶の声をあげながら、地面に転がる怪人を見下ろすのは、夜よりもまだ深い黒に全身を染めた戦士――ライバルだ。そのV字の触覚と、横倒しのSが描かれた金属製のマスクが、乾いた風の中で妖しく煌めく。腹部に収まった黄金のメダルを左手でそっと撫でると、彼は右手を前に突き出し、敵に向けて構えた。沙穂は彼の数メートル背後で、その雄姿を見つめる。だがライバルの赤い目には、敵の姿以外は映りこんではいないようだった。

「私を殴るとは、貴様……一体何奴!」

 身を起こしながら、ダブルシーが尋ねる。

「ライッ! バルッ!」

 ライバルが力強く叫ぶ。そして地面を蹴り、目にも止まらぬ速さで敵に接近すると、その腹部に強烈な左拳を埋めた。

「ライッ! ライッ、ライッ、ライッ、ライッ!」

 さらに右拳を間断なく打ち出し、次は再び左、とパンチのラッシュを叩き込む。衝撃に載せられたダブルシーの体は、少しずつ後ろに押しやられていった。

「バルウッ!」

 最後に片足を踏み込んで、全体重をかけた左拳を振るう。その一撃を頭部に浴びたダブルシーは大きくよろめき、足元をふらつかせた。

「なぜこの私を襲う……。そうか、なるほど。貴様も小便を我慢しているということか!」

 ダブルシーの腹部にある少年の顔を模った像の目が、不気味に光る。するとその両肩に備わった、左右合わせて二本の腕がぐいと前に伸びた。人間の腕が肩から新たに生えてきたような形だ。そのあまりにおぞましい外観に、沙穂はひっ、と短い悲鳴を漏らした。

「腕が……四本になった」

 だが、ライバルに怯む様子はない。不適に鼻を鳴らすと、左手をかざし、怪人に向けて駆けた。ダブルシーは自前の腕同士を組み合わせ、新しくできた腕を大きく頭上に掲げた。

「止めろ。貴様もこの私と同じ、メアードならば、何か夢があるのだろう。そちらを優先させるべきだ。こんなところで争いあう理由などない!」

 ダブルシーの渋い声には耳を貸さず、ライバルは姿勢を低くすると、一気に敵の懐にもぐりこんだ。同時に四本の腕が一斉にライバルを狙って振り下ろされる。

 だが、その指先はライバルに掠ることもなかった。即座に上体を起こし、右肩から振り下ろされた腕を足蹴にすると、彼はダブルシーの頭上まで大きく跳びあがった。空中で一度回転し、左足を突き出すと、落下の勢いに乗ってドロップキックを繰り出した。

「バルゥウウッ!」

 そのつま先がダブルシーの胸に、深々と突き刺さる。砕けた白い石片が足元に散らばった。その首にかかっていた花の首飾りが千切れ、僅かな香りを漂わせながら落ちる。ライバルは片足で着地すると、続けざまに左のストレートを打ち出した。

「聞く耳をっ……持たないのかっ! 貴様は!」

 ダブルシーはその一撃を四本の腕で軽くいなすと、後ろに素早く飛び退いた。

「ならば私にも、やりかたというものがある!」

 その腹部に存在する、少年の顔を模った像が淡い光を帯びる。次の瞬間、そのぽかんと開いた口から激しい水流が放たれた。それは地面を抉り、過ぎった空間を二分させるかのような、凄まじい威力だった。

 水流は捻れた石柱を一撃で粉砕し、荒野を引き裂いていく。直撃すれば人間など跡形もなくなってしまうだろうということは明らかで、そのあまりの威力に菜穂はぞっとした。

 ライバルは横に逃げるが、ダブルシーは腰を捻るようにして水流を追わせてくる。ライバルの背後にある地面が、彼の逃げる分だけ、畳み掛けるように破壊されていった。

「バ……バッルバルーバ!」

 ライバルは前方に跳ぶと、転がりながら、地面に突き刺さったサンマを一本引き抜いた。残りのサンマは水流の餌食となり、粉々に吹き飛ばされていく。宙に飛散する骨や臓物の破片を頬に浴びながら、ライバルは即座に身を起こし、同時に大きく腕を振り上げた。

「ラーイ、バルウウウウッ!」

 雄たけびをあげながらライバルは、持っているサンマをさながら槍投げのように投げ放った。サンマはまるで的を射るダーツのように真っ直ぐ飛んでいき、少年の像の額のあたりを鋭く貫いた。

 1秒後、ダブルシーの腹部が割れるような音を発して破裂する。サンマの刺さった箇所から噴出した水が、ダブルシー自身の全身を濡らした。

「冷たっ! 水が思いがけず冷たいぞ!」

 自分の体からとめどもなく溢れ出す水に、ダブルシーはぴょんぴょんとその場で跳びはね、慌てる。もはや水流を放つどころではなさそうだった。サンマの頭部はすっかりその腹部に収まり、尾っぽだけが石像じみた白い体から突き出ている。

「サンマの頭の鋭さを、あんなことに活かすなんて……」

 その光景を前にして、沙穂は愕然と目を瞠る。もはや自分がトイレに行きたかったことなど、すっかり記憶から失せていた。ずぶ濡れとなったダブルシーはようやく水が止まったことを知ると、今度は自分の体に刺さったサンマに手をかけた。

「悔しいがこいつ……できる!」

 だが、サンマを体から引き抜く暇をライバルは敵に与えない。水流による攻撃が不可能になったと知るや否や、彼は両手を大きく横に広げた姿勢をとり、ダブルシーに躍りかかる。

「ラッイライー!」

 そのつま先が、ざらついた砂を蹴る。ダブルシーは両肩から生えた二の腕を振り回し、自分に接近してくるその小柄な体躯を仕留めようとしてきた。

「バルバルバー!」

 だが、ライバルは物怖じ一つ見せず、軽やかな声さえあげながら駆けていく。その速度は少しも緩むことはなかった。彼の様子は、菜穂の目にはひどく楽しげに映る。もしや彼は暴力を奮い、敵の命を脅かすことに愉悦を感じているのではないのだろうか――そんな怖気のする想像が脳裏を過ぎった。

 だが、沙穂は大きく首を振ることで、その嫌な妄想を頭の中から追い払う。奈々を救ってくれた彼のことを、そんな風に思ってしまう自分に嫌気が差してしまう。

「……違う。ライバルは、救世主なんだから……救世主はそんなことしない」

 怪人同士の激しい戦いを、沙穂は固唾を呑んで見守る。呟いた言葉は、自分自身に言い聞かせたものだった。

 ライバルは左右からは挟みこむように振り下ろされた腕を、回し蹴りで薙ぎ払う。痺れを切らしたように殴りかかってくる、ダブルシー自前の腕を、ライバルも両手を使って受け止めた。両手同士を組み合わせ、ダブルシーとライバルは肉薄する。

「ぬおおおっ!」

「ラィィィ!」

 力を拮抗させ、至近距離で二体は睨みあう。その時、ライバルの双眸に赤い光が宿った。さらに畳み掛けるように、ライバルの体が緑色の炎に包まれ始める。業火はライバルの腕からダブルシーへと次々と燃え移り、その体を容赦なく蝕んでいった。

「熱っ! 熱、熱い! 今度は予想以上に熱いぞ!」

 炎に呑み込まれたダブルシーはライバルの腕を振り払い、火の燃え移った箇所を慌ててはたきだす。その姿を見据えるライバルの体からはすでに炎は消えていた。成り代わるようにして、その左腕から真紅の瘴気が立ち昇る。

 胸部に構えられた巨大な単眼が、ゆっくりと瞼を開く。ライバルの両の目が、再び赤く輝いた。その全身に緊迫感が満ちていく。

 沙穂はぞくりと背筋に寒気が走るのを感じた。あの攻撃だ、と全てを見るまでもなく直感する。三週間前、コンタクトレンズの怪人の体を貫き、消滅させたあの一撃。それが今、ダブルシーに向けて放たれようとしている。菜穂は思わず下腹に力を入れた。

「ラィィィイ……」

 ライバルは腰だめに左拳を構える。彼の周囲に存在する空気が少しだけ重みを増したような気がした。ようやく火を振り払い終えたダブルシーは、ただならぬ迫力を帯びたライバルを前に動揺をみせた。

「バルウウウウッ!」

 だが彼の前では、あらゆる抵抗は過去に置き去りとなる。

 怪人目掛けて、ライバルの左拳が唸りをあげた。強い閃光を纏い、弾き出されたそれは明確な殺意を抱いた一撃だった。無数の針のように広がった光は、向き合ったものの精力さえ削ぎ取るかのようだ。その拳が皮膚を破り、内臓を突き破ろうとダブルシーの胸元に迫る。

 だが。

「……我ながら不甲斐ない。残念ながら、この戦い、私の負けのようだ」

 その嘴をまるで人の唇のように、その鳥頭は流暢に動かした。さらに目を見開くと、張り上げた声を、周囲に轟かせた。

「……いいだろう。このトイレは譲り渡してやる。だが、この命まで渡すつもりは毛頭ない!」

 怪人は自分の顎に手をあてがった。次の瞬間、ダブルシーの体をなぞる輪郭は空間に薄く溶けていき、色も失せ、やがて残像を宙に映しこみながら、その姿は完全に消え失せてしまった。

「き、消えた……」

 ライバルの拳が宙を切る。前につんのめった彼は姿勢を戻すと、敵を求めて周囲に視線を巡らせた。菜穂もまたそれに倣って怪人の姿を探すが、やはりどこにもいなかった。

 怪人、ダブルシーは忽然と消えてしまった。まるで煙のように。霞のように。または便座の中で水に押し流される汚物のように。

 ライバルは地面を視線を落としたまま、しばらくじっと黙り込んでいたが、敵がもう近くにいないことを感知でもしたのか、顔をあげると前方に歩き出していった。途中に落ちていた花飾りを、足裏で踏みにじる。それは確鳥頭の怪人が、先ほどまで確かにここに存在していたことを知らせる、唯一の証拠品だった。

「ちょっ、ちょっと待って!」

 自分に全く関心を寄せることすらせず、立ち去っていこうとするライバルを沙穂は咄嗟に呼び止める。無視をされるかもしれないと不安だったが、案に相違して彼は足を止めた。

 地面を薄く削ぎながら、ゆっくりと振り返る。その時、初めて沙穂はライバルと正面から向き合った。その真紅の瞳は微かな哀しみを宿しているようで、沙穂の胸をちくりと突き刺した。

 二人の間をお菓子の群れが浮遊し、通り過ぎていく。灰色の風が沙穂の髪を梳き、ライバルの体に付いた砂埃を払う。深々と空気に染み込むような沈黙が、この奇妙な世界を占めた。

「あの、その……この間は、ありがとう。助かりました」

 やっとのことで言葉を搾り出すが、ライバルは全くの無反応だった。その表情が一体何を意味しているのか、沙穂には読み取ることができない。だが少なくとも、先ほど怪人に対して振りかざしていたような殺意がそこにないことは確かで、ささやかながら安堵する。

「ア、アイアム、サホ、ギンバヤシ。ユーアー、ライバル、オーケー?」

 ところどころつっかえながら、英語で喋りかけるが、ライバルは首を小さく傾げるだけだった。どうやら伝わっていないらしい。

 何となく決まりが悪くなり、どうしようかとうろたえる。こんなことなら、ドーナツの一つでも用意しておけば良かったと悔やみ始めたその時、ふとあることを思い出した。

 考えてみれば、それがライバルのことを呼び止めた理由だった。沙穂は動揺するとすぐに頭の名が真っ白になってしまう自分の性格を恥じた。そしてポケットを探ると、中から鈴の付いたお守りを取り出した。

「あのこれ、ドーナツ……じゃなかった。あの、その、これ!」

 まるで印籠を振りかざす黄門様のように、お守りを掴んだ手を沙穂は前に突き出す。すると目に見えて明らかに、ライバルの顔色が変わった。

「バ……バルバル!」

 ライバルは腕を前に伸ばした姿勢のまま、沙穂に向かってきた。二人の距離は次第に詰められていき、やがて相手の体に触れることのできる近さまでになった。沙穂はそこで始めて、ライバルの身長が自分とあまり変わらないことに気が付いた。

「バルバル、バルバル!」

「そう……これ、大事なものなんだよね」

 沙穂はお守りを彼に手渡した。彼はそれを大事そうに両手で包み込む。

 ちりん。ちりん。

 澄んだ鈴の音が、その鋭い爪の伸びた、常闇のように黒い手の中で踊る。お守りも持ち主の元に戻ってきたことで、何だか嬉しそうだ。

 ライバルは興奮を抑え切れない素振りで、そのお守りをベルトの左腰に引っ掛けた。白い紐でぶら下がったそれを、愛おしそうに撫でる。そして顔をあげると、ライバルははち切れんばかりの喜びをふんだんに纏い、菜穂の手を掴んだ。

「バッ、バルバルンルン! バッルバルー!」

「あ、う、うん……どうもどうも。バルバルンルン」

 何を言っているのかさっぱり分からないが、彼が感激しているのは明らかだった。握り締めた沙穂の手をぶんぶんと振り、意味不明な言語で捲くし立てるライバルを、菜穂は意外に思う。

 狙いをつけた怪人を絶対に逃がさず、容赦なく攻撃を加えていたあの姿からは、今の様子は全く予想できないものだったからだ。

「バルバルバー! バルゥー」

 ライバルは沙穂から手を離すと、一歩後ずさり、そこで深々と頭を下げた。その恭しい態度に何だか恐縮してしまい、沙穂も「バ、バルタン」と会釈を返した。

「ライライ! ラララライッ!」

 ライバルは弾かれるように顔をあげると、嬉しそうに何事かを口走りながら、沙穂の手を掴んだ。一体何事かと尋ね返す暇もなく、沙穂は彼に手を引かれていく。

「え、あ。なに。どっか連れて行ってくれるバルか? どこにいくバルー!」

 中途半端にライバルの言葉を真似てみるが、当然、彼には通じないようだ。

「バッル、バッル、ラーイ」

 鼻歌のつもりなのだろうか、ライバルはスキップをしながら沙穂をどこかへ導いていく。手を振り払うのも悪く思え、またその理由もないことに至り、結局沙穂は彼に付き合うことにした。

 ライバルの手は、仄かに温かかった。だがそれは生物の温もりからはほど遠く、むしろ陽光の照る中にしばらく置いたソファーを、撫でるように触ったときの感触に近かった。その手で怪人を消滅させたのだと思い出すと、何となく心強く思えて、沙穂は口元に笑みを湛え、その手を少しだけ強く握り返した。

 沙穂はライバルの予想よりもずっと小さな背中を見つめる。身を弾ませる彼は実に嬉しそうだ。彼が歩くたびに、その体からちりん、ちりん、と涼やかな音が跳ね回る。やがて沙穂は彼に連れられ、この茫漠とした世界の外へと飛び出していく。

 だがその時、沙穂の頭を占めていたのは、憧れの救世主に出合えた喜びでも、どこに連れて行かれるのだろうという不安に似た気持ちでもなかった。

「……何でもいいからとりあえず、トイレがあるといいな」

 沙穂は爽やかに微笑む。すでにその時、彼女の体は限界を迎えつつあった。

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