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1話「彼の名前はライバル」


とても素敵で楽しい日常。だけどみんな狂ってる。


「こちら現場です。大変な事件が起きました。血塗れになった人たちが倒れています!」

マイクを握る女性リポーターの声が、凄惨な光景の中で場違いのように響き渡る。テレビ局のカメラが駅前の広場を映し出した。巨大な瓶の形をした噴水が置かれている、とても長閑な場所であるが、今やその印象はものの見事に払拭されている。

「今、救急車で搬送されているのは女性のようです! まだ幼い子どもも担架に乗せられています!」

赤いランプを回転させた救急車とパトカーが、ガードレールに寄り添うようにずらりと並んでいる。惨劇の起きた現場を一目見ようとする人々で、あたりには人だかりができていた。

アスファルトの上に落ちた刃渡りの長いナイフを、白い手袋を付けた警察官が拾い上げる。その刃先には、はじめからそういう色なのだと主張するかのように、血液がべったりと塗りたくられていた。

「なにがあったんだって?」

不躾な声が野次馬の中から上がる。それは浅黒い肌をした中年の男のものだった。携帯電話のカメラで現場を撮影していた青年が男に振り返り、快活な語調で答える。

「通り魔らしいっすよ、通り魔。何人か刺されたって」

青年の言葉を証明するかのように、野次馬の前を救急隊員の運ぶ担架が通り過ぎていく。人々の目が一斉に、この事件による被害者の方に向けられた。

乗せられているのは、小さな男の子だった。おそらく4歳か5歳くらいだろう。ボーダー柄のTシャツは赤く染まり、その半ズボンから伸びる足は血の気がなく、青白い。

 胸の前に置いた手には、最近テレビで放映しているヒーローのソフビ人形が握られている。余程大事にしていたに違いない。その小さな手は、何があっても離さないことを誓うかのように人形を固く包み込んでいた。

 鈴の音が静寂を跳ねる。男の子の乗せられた担架の後を歩く、警察官の方から発せられたものだ。肩には子どもサイズの青いリュックサックを担いでおり、そこに下がっている鈴の二つ付いたお守りが、警察官の足音に合わせて甲高い音を鳴らしているのだった。そのリュックサックは運ばれていく男の子のもののようだった。

 お守りに書かれた文字は『交通安全』だった。神様は車の事故からは彼を遠ざけてくれたものの、それ以外の不運には手が回らなかったらしい。仕事の不徹底を恥じるかのように、鈴の音はどこか密やかな感触をもって空に広がっていく。

「犯人はどうしたんだ、犯人は」

 担架が救急車の中に運び込まれていくのを眺めながら、先ほどの男がしゃがれた声を発する。不機嫌そうに眉間に皺を寄せる男に、青年は少しだけ躊躇うような動作をみせたあとで、こちらに向かってだんだん近づいてくる別の担架を指差した。

「あの……あれ、らしいですよ」

 あん? と低い声をあげながら男は爪先立ちになると、青年の指先を目で追った。その担架の上には、覇気のない顔をした、高校生くらいに見える少年の姿があった。その少年の着ている衣服もまた血で真っ赤に汚れている。その光を失った虹彩は、まるで骸骨の窪んだ眼窩のように、果てのない虚無を映し出していた。


それから3年後


 深夜に帰路を急ぐ、若いサラリーマンの姿があった。

 丸い顔に黒縁のメガネをかけた男で、よれたスーツに覆い被されるようにして歩くその背中には疲労がこびりついているようだ。年齢は30代前半というところだが、額の汗を拭うその瞬間だけは、さらに老けてみえる。

 すっかり初夏の季節になった。湿度の高い空気は、体から汗を搾り取るようだ。かといって薄着で家を出てしまうと、雨降り後の思わぬ涼しさに身を震わせることになる。衣類の調整が非常に難しい季節だ。

 男はそれまで早足だった歩を緩めると、左手の方に見えていた公園の中に入っていった。順当なルートからは外れてしまうが、この公園を横切ったほうが彼にとっては近道なのであった。

 夕方まで降り続いていた雨のため、園内には水玉模様を描くように点々と水たまりができている。設置されている遊具やベンチは濡れ、その表面には雫が浮いていた。雨が降ったあとの、夜の公園はまた独特の雰囲気がある。草と雨の匂いが交じり合ったものが宙を漂い、外灯の光を受けた水たまりが、まるで神聖なもののように輝いてみえる。

 公園には十二星座をモチーフにした石像があちこちに建てられている。昔、どこかのデザイナーが市に依頼されて設計したものらしい。それ以来、この場所は地元の人から『石像公園』と呼ばれていた。

 天に向けて吼える獅子の像の前を、男は通り過ぎていく。外灯によってかすかに照らされた巨大な石の像は、陰影を帯び、不気味な迫力を醸し出している。地面に落ちるその影は、悪魔の姿そのものだった。

 その時、不意に男は背後に気配を感じた。鋭く背を刺すような、殺気に近い感覚だった。

 男は立ち止まり、恐る恐る首を背後によじった。だがその時にはすでに気配は消えている。完全に振り返ると、男は周囲に視線を巡らせた。一陣の風がその足元を吹きぬけていく。すぐ側に立つ木に青々と茂る葉が、一際大きく揺さぶられた。

 木々のざわめく音と勘違いしたと思ったのか、男は心底安心した風な息を吐いて、再び歩き出した。

 だが、彼はすぐに足を止めることになる。

「なんだこれは……」

 思わず男が声を漏らしたのは、見上げた空に薄い、紫色の膜のようなものが広がっているのが見えたからだ。その膜は公園の出口まで切れ目なく広がっており、その向こうは今まで通りの静かな夜が刻まれている。

 目を見張り、視線を地上に戻す。そこでさらに男の驚愕は続いた。

行く手を遮るように、男の目の前には不気味なシルエットが出現していた。それは二本足で立っていたが、明らかに人間とは違っていた。それほど考える必要性もないほどに、それは見れば見るほど化け物、と呼ぶにふさわしい存在だった。

 顔はマネキンのような作り物めいた質感をしている。そこに目は二つあるが、他には何もない。眉も、鼻も、口も、耳も、髪もなく。ただ真っ白な顔に、不気味な双眸だけが浮かんでいた。

一方で首から下は、まるでビニール製のタイツを全身に着込んでいるかのようだった。体型はひどく痩せて青白く、あばら骨がはっきりと浮いていた。肩には視力検査の時に目を覆うスプーンが突き刺さっているのが確認できる。

「俺の縄張りでメガネをかけるとは、いい度胸だ」

 その奇妙な怪物は顎に手をやると、男に近づき、彼の顔を覗き込むようにした。男は血相を変え、悲鳴をあげようとした。だがその前に、怪人の手が彼に向かって伸びている。そしてビニールじみた怪人は男の顔から、その黒縁のメガネを片手でかすめ取った。

「……メガネに死を!」

 怪人は男から奪ったメガネを掌中に収めると、一息にそれを握りつぶした。砕かれたレンズとフレームがパラパラと音をたてて地面に落ちる。木っ端微塵になったそれを足裏で踏みにじると、怪人は顔をあげ、男を正面から睨んだ。

 金切り声をあげ、逃げようとする男の肩を怪人は咄嗟に掴んだ。そのまま地面に引き倒すと、軽やかな動作で彼の上に馬乗りとなる。突如メガネを失い、背中を強く打ち、挙げ句の果てに怪人に上に乗られた男は錯乱し、手足をじたばたとさせてもがく。

 だが、怪人の凄まじい腕力は男に解放を許さなかった。怪人は男の首を掴むと、もう一方の手の人差し指と中指を立て、Vサインを作った。その先端を男の両目に突きつける。表情を凍らせる男に対し、怪人の口元には快楽に満ちた笑みさえ浮かんでいた。

「コンタクトレンズに、愛を」

 静かにそう呟くと、怪人は二本の指を男の眼球に突き刺した。ぐちゅり、とゼリー状の何かが潰れる時のような、不快な音が聞こえる。そしてその後を追うようにして、木々のざわめきと共に、男の大きな悲鳴が公園中に響き渡った。


 犬の間延びした遠吠えのような音が、町中に広がっていく。それは夕方6時を知らせる甲高いサイレンだった。

 ここ指場町では、一日に三回、サイレンが鳴る。朝の6時と、12時と、夕方6時だ。この町に住んでいる人々のほとんどは、なぜこの町でこれほど頻繁にサイレンが鳴り響くのか知らずに生活をしている。だが知らなくとも済むことはこの世にたくさんあるもので、人々はそれを当然のものとして、まるで地球が生まれた時から存在したとでも思っているかのように、日々を過ごしているようだった。

 夕刻を奏でる音が響く駅前には、学校帰りの中高生の姿が多く見受けられた。駅を臨む小さな広場には、大きな瓶の形を模ったユニークな噴水がある。指場町のことが以前旅行雑誌に載った際、この町を象徴する物として紹介されていたのも、この噴水だった。とにかく巨大で目立つし、駅から出た時に分かりやすいということもあって、絶好の待ち合わせ場所としても多く使われていた。市役所もそういう住民の用途を知ってか、最近では数台のベンチさえ設置されている。

 銀林沙穂も、この場所をそういう意図で利用している者の一人だった。

 沙穂は噴水前のベンチに座り、駅の出口をじっと見張っていた。螺子の緩んだレッドフレームのメガネを指で押し上げながら、中高生たちの集団の中に目を光らせ、待ち人の姿を探す。だがそこに目的とする顔を見つけることはできなかった。やがて集団の列が途切れて学生たちが皆どこかに行ってしまうと、沙穂は肩を落としてため息をついた。

 膝の上に広げていた大学の教科書に再び視線を落とす。まだ購入してから二ヶ月ほどしか経っていないその本には、汚れ一つなかった。今年の春に高校を卒業し、4月に大学に進学したばかりなのだからそれも当然だ。もとより沙穂は書物の類を大切に扱うタイプだった。服の裾がズボンから中途半端にはみ出しているのは良くても、本が汚れているだけはどうしても許せなかった。

 額に浮かぶ汗を拭いながら、そうやって明日の予習をしていると突然軽やかな音楽が流れ出した。沙穂はスカートのポケットを叩き、それからハッと思い出して、ハンドバックに手をかける。中を探るとほどなくして、ぴかぴかと青い光を発する携帯電話を取り出すことができた。

 蓋を開くと、画面には待ち人の名前が表示されている。沙穂は数秒見つめたあとで、通話ボタンを押し、携帯電話を耳に押し当てた。

「あの、もしかして、もういる?」

 沙穂が喋りだす前に、受話口の向こうから急いた声が聞こえてきた。声変わりを果たしたばかりの、大人と子どもの狭間を彷徨っているかのような、少年の声だった。

「あれ? 待ち合わせ6時じゃなかったっけ?」

 隣に立つ時計塔を下から覗きこみながら、記憶を頭の中から掘り起こす。幼稚園に通っていた頃から親に「お前はそそっかしい」と呆れられ、今でも友達から「沙穂はそそっかしい」と揶揄されていたので、沙穂は時々自分の記憶に不信感を覚えることがあった。だが今回ばかりは沙穂の脳みそは正常に機能していたらしい。

「うん、そうなんだけどさ。ごめん。補習が長引きそうでさ。今日いけないかも」

 少年の声が申し訳なさそうに言う。彼が電話の向こうで頭を下げているのが見えるかのようだった。沙穂は後ろで短く束ねた髪を指でいじりながら、ほほう、と不思議な返事をした。

「へぇ、珍しいね。数学?」

「うん、そう数学。因数分解。全然意味分からん」

「因数を分解するんだよ。この間、ドライヤー分解してたじゃん。あれと同じだって。グリスを駆使するんだよ、グリスを」

「数学はあんな簡単なものじゃないって。それに分解にグリスは使わねぇし」

 何だか煮えきれないような少年の声に、沙穂はまぁ、それなら仕方ないよ、と言った。

「別に明日でもいいし。全然気にしてないから大丈夫大丈夫。ドーナツでも食べて帰るからさ。補修がんばって」

「本当にごめん。埋め合わせはちゃんとするから。じゃあそろそろ休憩終わるから切るよ。また夜に電話するから! 絶対するから!」

「うん、ドーナツ食べて待ってる」

 沙穂が全てを言い終える前に、ぶつり、と音をたてて通話は切れた。携帯電話を閉じると、またため息を零しながら時計塔を見上げ、それから教科書をハンドバックの中に無理やり突っ込んだ。待ち人が来ないのなら、この場所に長居する必要はない。沙穂は汗でぬめるメガネを顔から外し、手の甲で目の辺りをごしごしと拭った。

「そういえば私もできなかったもんなぁ……因数分解」

 独り言を零し、それから携帯電話をスカートのポケットに入れて、ベンチから立ち上がる。ハンドバックを片手に大きく伸びをしてから、家に向けて歩き出した。


 馴染みのドーナツ屋に寄り、そこの店長と盛り上がっているうちに、気付けば外はすっかり薄暗くなってしまった。

 携帯電話を開き、時間を確認しようとしたが、いつの間にか充電が切れていたので目を疑う。しかし先ほど電話をしたとき、すでに充電が残りわずかだったことをすぐに思い出して、眉をハの字に曲げた。

「……まぁ、仕方ないよね。充電切れなら、しかたないよ」

 携帯電話を閉じながら、沙穂は自分を納得させる。早く帰って充電し、こちらから電話をかけ直さなくちゃな、とぼんやり思う。

 都会であればネオンが輝き、道は人で溢れ、まだ賑わっている時間帯なのであろうが、どちらかといえば田舎に属する指場町にはもはや人影すらまばらだった。等間隔に並んだ外灯が、黙々とアスファルトを照らしている。周囲には静寂が降り、時折車の走り抜ける音がする以外には物音一つ響くことはなかった。

 沙穂ちゃん、と背後から声がかけられたのは、ドーナツ屋から1キロ程歩いたところにある畦道でのことだった。

 沙穂はその時、ドーナツの入ったビニール袋を振り回しながら、ドーナツランドのテーマを口ずさんでいたので、一瞬反応が遅れてしまった。そういえば何か声が聞こえたぞ、と思い、立ち止まって振り返ると、すでに間近に人影が立っていた。それは女性だった。少女、と言い換えてもいいくらいの年齢だ。そしてその顔を沙穂は知っていた。

「もしかして、なっちゃん?」

 肩に触れるくらいまで伸びた黒髪。パープルフレームのメガネ。体格はひどく小柄で、身長は沙穂の肩くらいまでしかない。顔は丸く、しかし目は少し小さい。白い薄手のワンピースがよく似合っていた。

彼女の名前は宮本奈々といった。沙穂はその名前を崩して、なっちゃんと気軽に呼んでいる。沙穂と同じ大学に通う一年生で、学部こそ違うものの、授業が重なることが多いので、気付けば一緒にご飯を食べる程度には仲良くなっていた。

 沙穂の姿を見かけて走ってきたのか、奈々は域を激しく切らせている。両膝を掴んで背中を曲げ、しばらく呼吸を整えてから彼女は顔を上げた。そして沙穂の顔を間近で見るなり、「あ」と驚いた風な声を漏らす。

「あれ、沙穂ちゃん。メガネかけてる。目、悪かったんだ」

「いかにも。拙者、普段はコンタクトなのでござる」

 沙穂が答えると、奈々は首を傾げた。

「えっ。なにそれ、武士?」

「今日お昼に大河ドラマ見ちゃってね。かっこよかったよ。私、将来は幼稚園の先生と武士を兼業しようかな」

「ござるござる」

「お昼寝をしないと、この紋所を目に入れてやるでござる!」

「ござるー!」

「それはそうと、なっちゃん殿もこっちに家があるでござるか?」

「うん。おばあちゃんの家に居候なんだけどね。沙穂ちゃんは一人暮らしなんだっけ?」

 沙穂はもう一度、いかにも、と返事をした。進行方向が同じであることを互いに知ることができたせいなのか、二人は喋りながら自然に歩みを再開させた。藍色の闇の中からその姿を眩ませたまま、蛙の鳴き声だけが聞こえてくる。外灯の前を並んだ影が通り過ぎた。

「沙穂ちゃん、ドーナツ好きなの?」

 会話をしていく中で、奈々が唐突にそう訊ねてきた。彼女の目は沙穂が腕にぶら下げているビニール袋に注がれている。沙穂はその袋を彼女の前にかざすと、軽く揺らした。

「よく分かるね。ドーナツだって」

「うん。そのお店、駅前のだよね? 私も何回か行ったことあるよ。色んなドーナツがあって楽しいよね」

 奈々は丸い顔をさらに丸くして笑う。沙穂はドーナツの入った袋を胸に抱きしめた。

「そうそう。ここのドーナツは絶品なんだよー。私、週に21回は行ってるし」

「三度の飯よりドーナツが好きなんだね」

「うん。大好き。だって穴が開いているんだもん」

 沙穂の発した力説に、奈々は「穴?」と首を傾げた。沙穂は「穴」と語調を強くする。奈々はこめかみを掻きながら、困ったような顔をした。

「うーん。じゃあ、ちくわも好きなの? 穴の開いたれんこんさんも?」

「うん。どっちも好きだよ。穴の開いているものならなんでも」

「バームクーヘンも?」

「あー、ごめん。あれは無理。だって黄色いんだもん」

 沙穂が眉間に皺を寄せると、奈々は「そっか、黄色いもんね」と要領を得なさそうに言った。それから「なんだか難しいね」と微笑む。沙穂は「この世の中ってのは、難しいものだらけなんだよ」とぼんやり呟き、頭上を振り仰いだ。空には星が点々と散らばり、その中心には色の薄い月が浮かんでいた。

「そういえば昨日、このへんで人が倒れてたの、知ってる?」

 少し沈黙を置いたあとで、奈々はそんなことを切り出した。沙穂は目を丸くする。

「え、ごめん。私、今日ニュース見てないや」

「あ、ううん。そんなに大きな事件とかじゃないから。ニュースではやってないと思う。石像公園知ってるでしょ? あそこで男の人が意識不明になってて、救急車呼んでの大騒ぎだったんだって」

「ほほう」

 その公園のことならよく知っている。いたるところに十二星座を象った石像が設置されている、それなりに広大な場所だ。先月に授業の一環で、その公園でレクリエーションをやったばかりだった。

「まぁ、おじさんらしいから。仕事の疲れとかかもしれないね。私も細かいことは分からないや」

 こめかみのあたりを掻きながら、奈々は困ったように笑う。「そうかもしれないね。まさにおじさんラビリンスだ」と沙穂も微笑を浮かべて返す。

 だがその胸中には何だか言い知れない、不気味な感触を覚えていた。


「ドーナツ~、ドーナツ~、酒のつまみはゴンザレス~」

「え、なにそれ。どうしたの?」

 突然歌いだした沙穂に、奈々は驚愕した様子をみせる。沙穂はドーナツ屋のビニール袋を顔の前で掲げた。

「ドーナツランドのテーマ! 知らない? 9時から教育テレビでやってる、愛と裏切りの群像劇」

「う、うん。知らない……かな」

「見たほうがいいよ。ドーナツの素晴らしさを、私はあの番組から学んだからね」

 そんなことを話しているうちに、畦道を抜け、石像公園の横も通り過ぎてしまった。そうすると空気も徐々に和らいできて、元通りの夜が帰ってきたような気がした。奈々も先ほどの一幕が嘘だったかのように、すっかり明るさを取り戻している。やがて少し傾斜のある直線の道に出ると、「あそこに見える曲がり角を曲がれば、うちだよ」と奈々は前方を指差して教えてくれた。

「ほほー。というか、ご近所さんだったんだね。初めて知った。もう少し真っ直ぐ行けば、住んでるアパートなんだけど」

「え、そうなの? あー、それは近いね。今度遊びに行っていい?」

「いいよ、いいよ。どんどん来ちゃって。そして一緒にドーナツランド観ようよ」

「あ、うん。面白いの?」

「ネズミのドリッキーがね。可愛いんだよ。ちくわが大好きでね。穴の中にフレッシュレモンなんだよ」

「そこはドーナツじゃないんだ……」

 曲がり角までたどり着くと、一旦、そこで二人は立ち止まった。向かい合い、沙穂は手を振る。奈々もまた小さな体を精一杯主張するかのように、体全体を使って大きく手を振った。

「じゃあね、沙穂ちゃん。また明日授業でね!」

「うん。ばいばいでござるー」

 ふふ、と最後に笑みを零し、奈々は背中を向けて去っていった。遠ざかるその姿をしばらく眺めたあとで、沙穂はアパートのある方向に歩き出した。あと数百メートルもすれば、帰ることのできる距離だ。そういえば携帯電話の充電が切れたままだったのを思い出して、さらに自分の電話を待っている人がいることに気付いて、沙穂は足を速めた。

 だが、踏み出そうとしたそのつま先を、不穏な気配が絡め取った。

 慌てて周囲を見渡し、沙穂は言葉を失う。気付けば夜の色に混じって、周囲を紫色の膜のようなものがうっすらと包み込んでいた。その空気の色はひたすらに不穏で、抜き差しならぬ事態を沙穂に伝えているようだった。わずか数メートル先にある電話ボックスがひどく遠くに感じられる。聞こえてくる町の音も、どこかぼやけていた。

「これって……」

 胸に不安が帯びていく。沙穂は踵を返した。走り、曲がり角まで急いで引き返すと、奈々の後を追う。

 息を弾ませながら必死に足を動かすと、やがてその目に全ての予想を裏切る、とんでもない事態が飛び込んできた。

 立ちすくむ奈々の後姿が、見えてくる。そして彼女の前には痩身のシルエットが佇立していた。それは全身をぴったりとビニール製のタイツで包んだ、明らかな変質者だった。

「なっちゃん!」

 沙穂は声の限りを尽くして叫んだ。その大音量は夜闇に膨らみ、破裂して広がる。奈々がこちらを振り返った。そして彼女を対峙していた変質者もその大きな二つの目で、彼女の体越しに沙穂のことを睨んできた。

 その瞬間、沙穂は背筋が凍りつくのを感じた。心臓が跳ね、恐怖が足の底から内臓まで這い上がってくるかのようだった。

 その変質者の、あまりにも白すぎる顔には、目しかなかった。鼻も口も耳も眉毛もひげも、通常、人間の顔にあるべき部品がそこにはことごとく欠落していた。唯一存在する瞳のパーツが、沙穂の姿を捉える。沙穂はまるで金縛りにあってしまったかのように、指一つ動かすことすらできなくなった。

 ――化け物だ。沙穂は直感的に気付く。それは間違いなく、人とは別の生き物だった。

「今宵の獲物は女子二人か……俺の縄張りでメガネをかけるとは、いい度胸だ」

 人のシルエットを纏った怪人が、声を発する。それはまるで首筋を爬虫類の舌で舐められるかのような、不快感を誘う声音だった。

 次の瞬間、沙穂は肩を押された程度の軽い衝撃を受けた。驚く間もなく、目の前がぼやけていることに気付く。慌てて両手で顔を覆い、そこに先ほどまでかけていたメガネがないことを知った。

「メガネに死を」

 ぐしゃ、と何かが潰れるような音がする。振り返ると、背後にいつの間にか怪人が立っていた。両手には色鮮やかなものを持っている。覚束ない視界の中でも、砕けたレンズやフレームの破片から、それがつい数秒前までメガネだった物であることは理解できた。右手は沙穂のもので、左手にあるのが奈々のものだ。

 その直後、奈々の口から悲鳴があがった。彼女は地面に崩れ落ちると、まるで体の一部を傷つけられたかのようにもがいた。やがてその体は事切れたようにぴくりとも動かなくなる。沙穂は心に風穴を空けられたような気がした。

「なっちゃん!」

 足元をふらつかせながらも、沙穂は友達のもとに駆け寄る。彼女の前で屈みこみ、その顔を覗き込んで、息を呑んだ。

 奈々の見開かれたままの目は、何の感情も映していなかった。顔も病的なほどに白く、そのぐったりと人形のように横たわる姿には、先ほどまでの活気はない。頬を叩き、名前を呼びかけるも、全くの無反応だった。

 沙穂は自分の頬がスッと冷たくなるのを感じた。ベッドに横たわった小さな体が脳裏を過ぎる。細かく震える手で、慌てて奈々の手首を掴む。気付けば呼吸は荒くなり、今にも意識が揺らいでしまいそうになる。

 だが彼女の手首から、確かな鼓動が跳ね返ってくるのを確かめると、沙穂は心底安堵した。奈々はまだ生きている。それが分かっただけでも、沙穂にとっては十分すぎるくらいだった。

「なるほど。そっちの娘は、昔からメガネだけを使ってきたようだな」

 沙穂は振り返った。怪人は顎を指先で撫でるようにしながら、得心のいったという風な態度をみせる。その白皙の顔を彼女は睨みつけた。その声には涙が滲んでいた。

「どういうこと? なっちゃんに一体なにを!」

「簡単なことだ。メガネしかかけてこなかった人間がメガネを砕かれたとき、その人間はアイデンティティーを喪失し、自己の崩壊に導かれるのだ。その少女は、もはや廃人と化したというわけさ」

 沙穂は愕然とする。この怪物の言っていることはよく分からないが、奈々が危険に陥っているということは状況を考えれば明らかだった。沙穂はもう一度、変わり果てた姿となった友達を見下ろし、唇を噛んだ。

「そんな……」

「お前はコンタクトレンズとメガネを併用しているから、自己を保っていられるのだ。素晴らしい! そんなお前にとっておきのプレゼントをやろう!」

 怪物は沙穂を指差し、不敵に嗤った。その表情には口も皺もなかったが、ほくそ笑んでいるだろうということはその陰険な眼差しを見れば分かった。

 怪物は呆然とする沙穂の肩を掴むと、その体を力ずくで地面に押し倒した。背中を強く打ち、呼吸を詰まらせる沙穂の上に馬乗りになると、怪物は右手の人差し指と中指を立て、先端の照準を沙穂の目に合わせた。

「コンタクトレンズに、愛を」

 力強く、高らかに怪物は叫び、鋭く指を振り下ろす。

 だが、沙穂はこの状況の中で自分自身でも驚くほどに冷静だった。アスファルトをつま先で引っかくと、反動をつけ、怪人のわき腹を強く蹴り飛ばした。怪人はバランスを崩し、その指は沙穂の顔の脇を掠める。沙穂は上に乗っているビニールじみた体を押しのけると、地面を這いずるようにしてその場から離れた。

「あとスカートが5センチ短かったら危なかった……」

 怪人は外灯の下あたりまで転がった。うつ伏せの格好のまま動かないその姿を見やりながら、沙穂はそっと体を起こす。

 だがその瞬間、視界が大きく揺らいだ。足元も大きくふらつく。バランスをうまく取ることができず、右側にそびえていた壁に額をぶつけて、沙穂は悲鳴をあげた。

「えっ……」

 額を押さえ、目に涙を浮かべながら沙穂は声をあげる。今、身に起きている状況を単刀直入に表現するのであれば――視界に映る何もかもが鮮明になっていた。

 道路も、景色も、壁も、電柱も、奈々も怪人も、全てが明瞭とした輪郭を持っており、色彩豊かに、その仔細に至る部分までこの目には映るようになっている。それはメガネをかけてさえ、沙穂の視力ではこれまで見ることができなかった世界だった。

「なに、これ……」

 沙穂は震える手で自分の顔を撫でる。そうしている、さらに驚愕の事実が判明した。

 左目を隠すと今までどおりのぼやけた景色なのに、右目を隠すと鮮明な世界が現われるのだ。これがどういうことなのか、沙穂の頭はすぐに理解できなかった。

「気に入ったか? これが俺からのプレゼントだ。お前の目に、特別製のコンタクトレンズをはめこんだ。一生外さなくても良い、素晴らしい品だ。これでお前にメガネは不要となった! お前はもう二度とメガネをかけることはできないのだ」

 怪人の言葉に沙穂は目を丸くする。鮮明な景色に中に立つ怪人の姿は、細かい部分が明るみに出ている分、不気味さは薄らいだような気がする。

「特性? コンタクト?」

 頭の中は行き場を失ったネズミのように混乱している。急に胃の辺りに不快感を覚え、沙穂はえずいた。同時にこめかみを刺されるような頭痛も引き起こされる。急激に視力を底上げされたことで体と脳みそが追いつかず、健康に異常をきたしているのだ、とすぐに気付いた。慌てて目をこするが、少しも外れる気配はない。一生外れないコンタクトレンズという響きは、沙穂の心に暗澹としたものを落とした。

 沙穂は地面に四つんばいになると、畳み掛ける苦痛に顔を歪めた。額にたっぷりと脂汗が浮く。白い顔をして横たわる友達の姿が、ぐらりと歪んだ。沙穂は細く呼吸をしながら、彼女に向けて手を伸ばす。触れたその指先に、生の温もりが伝った。

「なっちゃん……」

「左だけでは不便だろう。今すぐ右の方も装着してやる」

 あまりの気分の悪さに、今にも胃の中のものを吐き出してしまいそうな沙穂に向けて、怪物は再び指二本を立てる。沙穂はゆっくりと顔をあげながら、迫る怪物の足音を青い顔で聞いている。その体に力は入らず、胸に粘つくような感触が漂うばかりだった。

 だがその時――

 ちりん、ちりん、と鈴の音が夜道に響き渡った。

「なんだ……」

 怪物が足を止め、周囲をきょろきょろと見渡す。沙穂は恐る恐る顔を上げた。そして彼女もまた、驚愕を表情に宿すことになった。

 瞬きをした一瞬の間に、いきなり周囲の景色が一変していた。

 空はまるで絵の具で塗りつぶしたかのような灰色で、月も、星もそこにはない。地上には道も、家も、塀も、電柱も、車も、何一つなくなり、寂寞とした荒野がただひたすらに広がっていた。捻れた石柱が、墓碑のようにところどころに点在している。

 沙穂の鼻先を飴玉が掠める。見れば、宙には車の玩具やお菓子がふわふわと宙を浮いているのだった。遠くの方には、ライオンの着ぐるみが転がっている。地面に点々と突き刺さっているのは、頭を突っ込んださんまの群れだった。

「なにこれ……」

 沙穂は思わず声をあげる。怪物が襲われているということ自体、すでに不可思議な出来事なのであるが、その印象さえ一瞬で頭から消し飛んでしまうくらい、それはあまりにも珍妙な景色だった。ここは地球なのか、とさえ思う。全ての法則や常識がこの世界には存在しないように思えた。

 ざく、ざく、ざく、と地面を踏みしめる音が沙穂の背後より聞こえてくる。沙穂は不調を堪えながら振り返った。この荒唐無稽な世界の中でも、相変わらず片方の視力だけ抜群に良く、そのせいで気分が最悪のままで、動くことすらままならないいうのはなんとなく要領を得ない気分だった。

 沙穂の背後に迫る足音。その正体は、またしても別の怪人だった。

 湿った風を引き連れながら現れたその存在は、夜よりもさらに黒い体色をしていた。

 額にはV字の触覚が生え、その付け根には赤い目が僅かに輝きを帯びている。口には鉄製のマスクがはめこまれ、そこにはアルファベットの“S”が横倒しになって描かれていた。胸には、瞼を固く閉じた“目”が模様のように刻まれている。

 腰に巻かれているのはチャンピオンベルトのようだ。ベルト部分は太く、バックルには金色のメダルがはめこまれている。

 その怪人は沙穂たちの姿を認めると、一旦、足を止めた。妙な緊張感が、風に乗って地上を滑空していく。怪物のその、昆虫じみた顔立ちからは、コンタクトレンズの怪人よりもさらに表情が読みにくい。そうやってこちらの状況を無言で眺めながら、一体何を考えているのか、沙穂には想像することさえできなかった。

「その胸の文様……まさかお前、ライバルか」

 世界が変わってしまってから、ずっと黙り込んでいたコンタクトレンズの怪人が、幾分か上擦った調子の声をあげた。

「ライバル?」

 沙穂は黒い怪物の方を見やりながら、眉間に皺を寄せた。

「あれが、あんたのライバル?」

「違う! そういう意味のライバルじゃない! 俺とあいつは初対面だが、あいつはライバルなんだ! ライバルはライバルなんだ!」

「ははぁ」

 さっぱり意味が分からない。沙穂は胃のあたりを押さえながらゆっくりと身を起こし、地べたに座り込みながら陰鬱なため息を吐き出した。その発言も不可解だが、それ以上に、この怪人がひどく取り乱し、脅えている風なのが理解できなかった。

 ちりん。

 またも鈴の音が聞こえた。その音のする方角を求めて、沙穂は首を巡らせる。それとほとんど時を同じくして。

 黒い怪人が、跳躍した。

 助走もなく、膝を深く曲げることもなく。足首に少し弾みを付けることだけで、怪物は空を軽々と舞い、沙穂の頭上を通り過ぎて、コンタクトレンズの怪物の前に着地したのだった。

 ちりん。

 三度耳に届いたその音の正体を、沙穂はようやく知った。それは黒い怪物の体から聞こえてくる音だった。

 その左腰には、鈴の付いたお守りがくくり付けられていた。その表面に記された文字は『交通安全』――それが怪人の動きによって揺れる度、澄んだ鈴の音が夜空に響き渡っていたのだった。

 ひぃい、と声をあげて、コンタクトレンズの怪人が怯む。黒色の怪人はゆらりと顔を上げると、足を前に踏み出し、相対する者の脇腹に左拳をねじ込んだ。さらに続けて上段蹴りを顎に叩き込み、そのビニール製めいた身体を後ろに押しのける。

「バルバルッ!」

 黒い怪人が雄たけびをあげた。その不気味な外見には到底そぐわない、声変わりを控えた少年のような声だった。黒い怪人は足を速めて“敵”に接近すると、両拳を順々に打ち出し、その胸を鋭く穿った。さらにその場で軽く跳び上がり、ジャンピング・パンチを打ち込む。あまりに容赦のない攻撃の連打に、コンタクトレンズの怪人は受身をとることさえできず、荒れた地面を転がった。

「ライッ! バルッ!」

 敵を視線で追いながら、黒色の怪人は叫び、身構える。その真紅の瞳は、彼の心に宿る猛々しさを表しているかのようだった。

「ライ、バル……」

 沙穂はぼんやりと呟く。目の前で起きている出来事に、頭が全く付いていかなかった。なぜ怪人同士が戦っているのか。単なる仲間割れなのだろうか。様々な憶測が脳裏を巡るが、この異様な状況の中で明確な答えを出すこと自体が不可能だった。

 しかし、分からないことだけではない。沙穂には一つだけ気付いたことがあった。コンタクトレンズの怪人が発した“ライバル”という言葉――あれは宿敵とか、競争相手とかそういう意味合いではなく、もしやあの黒い怪人が持つ名前なのではないか。そんな考えが、ふと過ぎったのである。

 そうなれば、先ほど怪人の放った言葉の意味もおのずと理解できる。頭にVの字を掲げた、漆黒の怪物、ライバル。自分を危機から救ってくれ、そして今は怪人に容赦なく暴力を振るっているその存在の事を、沙穂はとりあえずそう呼称することにした。

「冗談じゃない! まさかライバルに見つかるなんて……こんなところで殺されてたまるか!」

 ぜえぜえと荒い呼吸を吐き出しながら、コンタクトレンズの怪人が身を起こす。その体が淡く白色に発光した。その輝きは両肩に突き立てられたスプーン状の黒い突起物に、脈々と流れ込んでいく。

 次の瞬間、その切っ先から光が迸った。それぞれの突起から放たれた光線は空中で合わさり、一本の太い光条となってライバルの体を貫いた。

 それは視認することすら危うく、ましてや避けることなど到底不可能な速度で空を裂いていった。ライバルは胸から火花を散らしながらよろめく。姿勢を正す間さえ与えられず、さらに第二波、三波が放たれた。熱線を間断なく浴びた彼は、全身から白い煙をあげながらよろよろと後ずさる。

 そこにライバルの隙が生まれた。コンタクトレンズの怪人は右の人差し指と中指を立てると、地面を蹴り、飛び掛った。

「危ない!」

 奈々の小さな手を握り締めながら、沙穂は思わず叫ぶ。しかしライバルはダメージを受けながらも、頭上から襲いくる存在を視界の隅で認識していたようだ。くぐもった雄たけびを漏らすと、足を大きく振り上げ、つま先でその攻撃を受け止めた。腕を薙ぎ払われた怪人は、ライバルの前に片足で着地する。だが、その表情に悔やむ色はなかった。その目は、思い通りに事が運んだことへの喜びに染まっているように見えた。

「……コンタクトレンズに、愛を」

 怪人が呟く。同時に、ライバルの様子に異変が訪れた。

「バッ……バルゥ」

 右に大きく体がよろめく。その足元は実に不安定で、まるで泥酔しているかのようだった。顔をあげ、前に歩き出そうとするのだが、すぐにたたらを踏み、ぐらりと体を揺らしている。そのうち彼はその大きな目をしきりにごしごしと擦りはじめた。

「まさか……」

 沙穂が息を呑んだのは、ライバルの姿と今の自分に起こっている不調が、頭の中で重なったからだ。その声を聞いていたのか、コンタクトレンズの怪人は彼女の方に顔を向けると、大きく息を吐き出した。

「そのまさかだ。ライバルにもコンタクトレンズを片目だけ入れてやった。これでまとも

に動けまい……」

 怪人はライバルに近づくと、いきなりその脇腹を蹴り飛ばした。さらに続けて胸を殴る。

「こんなところで死ぬわけにはいかないのでな……まずはこの結界を解いてもらう!」

 怪人の両肩のスプーンに光が収束していく。10秒を要することなく、それは強烈な閃光とともに解き放たれた。

 四度――熱線をその身に浴びたライバルは、大きく背後に吹き飛ばされた。地面を大きく跳ね、激しく転がる。ペリカン型の鉄柱にぶつかって、ようやくその体は止まった。

 ちりん。

 弾けるような音が鳴る。それはライバルの体から何かが落ちた音と重なった。だが、気付いたのは沙穂だけだった。怪人も、そしてライバル自身も地面に転がるそれに全く気を止めることすらないようだった。

「こんなところで止まっているわけにはいかないのだ」

 怪人は右手で、自分の左手の甲をそっと撫でるようにする。ライバルは顔をあげ、怪人の姿を見上げた。

「この町のみんながコンタクトレンズをもっと愛する日まで、俺は動き続けるのだ!」

 怪人は胸の前で握りこぶしを作り、空に向けて宣言する。ライバルは上半身を起こした。その二つの目が真紅の光を帯びる。腹部に掲げた黄金のメダルが仄かに輝きをみせた。そのベルトが、まるで酸性の液体を落としたリトマス試験紙のように、赤一色に染まる。

 ライバルはその場で右の拳を固め、その腕を前に突き出した。そして不審げに顔を歪めた怪人の前で、それがさも当然のことのように、拳の先から白色の光線を撃ち放った。

「なん、だと……」

 宙を切った一筋の光線は、怪人に直撃し、その体を背後に押しのけた。ライバルは拳の先からさらに光線を発射する。怪人は慌てた様子で横に飛びのき、その攻撃をかわした。

「馬鹿な……それは俺の技のはずだ!」

 動揺し、声を裏返らせる怪人に、ライバルは何も応じることはない。ただ「ラライ」とだけ呟くと、左手の人差し指と中指を立て、その指で自分の右目を突いた。

 ひっ、と思わず沙穂は声をあげる。あっ、と怪人も目を見開いた。二人が見守る中でライバルはゆっくりと指を眼球から引き抜くと、真っ直ぐな視線を怪物に向けた。

 その勇ましい顔つきに、不安定に元をふらつかせていた、先ほどまでの姿はない。しかし沙穂は、なぜ、とは思わなかった。その頭の中には自然とある発想が浮かんでいた。

――もう片方の目にも、自分でコンタクトレンズを入れたのだ。相手の怪人の能力を使用して。

 そんなある意味、荒唐無稽な話で自分を納得させることができたのは、おそらくライバルがコンタクトレンズの怪人の技を、いとも簡単に使用していたのは見たからだろう。ライバルには、相対する敵の能力をコピーする力があるのだろう。沙穂は目の前で起きた出来事を、自分の中でそう消化させた。 

 さらにライバルは両腕を前に突き出すようにすると、今度は両手から光線を発射した。

 ライバルの撃ちだした光線は、怪人の両肩に備えられたあのスプーンを瞬く間に破壊した。悲鳴をあげる怪人に向けて、ライバルは駆ける。跳躍すると二本の指を立てた拳を突き出し、怪人の顔面を殴りつけた。

 うわっ、と怪人が低い声をあげる。両足で着地し、何かを観察するかのように目を眇めるライバルの前で、怪人は怒りを露に身構えた。

 だが。

「な、なんだこれは!」

 すぐに怪人の顔色が変わった。怯えるような声をあげ、その場でよろめく。さらに両目を掌で覆うと、そこをごしごしと擦ったり、手で叩いたりしている。その様子はひどく動揺し、慌てていた。

「目が……目が、何も見えない! なんだこれは! どういうことだ!」

 周囲にぐるぐると忙しくなく視線を巡らせる。そこには先ほどまでの自信に満ちた姿はなかった。あってはならない事態に混乱し、我を失う、発狂寸前の怪人がそこにはいた。

「見えない……見えない、俺の目! 俺の目ェ!」

 ライバルは地面を蹴り、二歩で近づくと、怪人の腹を力強く蹴り飛ばした。さらに拳を振り回し、何発もその体に攻撃を埋めていく。そして仕上げとばかりに腰を低く構えると、弾けるように前に飛び出し、その顔面に蹴りを打ち込んだ。

「ラララバルルッ!」

 ライバルの覇気に満ちた絶叫が空を衝く。怪人は、肺の中の酸素を無理やり搾り出されたような音を吐き出し、捻れた石柱に背中をひどく打ちつけた。その頬を、宙を舞う飴玉たちが続けざまにはたき、去っていく。怪人は「あわわわ」と喚き散らしながら、蝿でも追うかのように、周囲に向けて無茶苦茶に腕を振り回し始めた。

「俺をもう殴るなー! どこだ、どこだライバル! かかってこい!」

 その様子はライバルは数メートル離れた場所から無言で見つめている。だがやがて歩き出すと、怪人の前で立ち止まり、左腕を大きく後ろに引いた。

 その胸に描かれた“目”の模様が身じろぐように動き出す。その輪郭を細かく震わせたかと思うと、もったいぶるような速度でその瞼を上げた。

 紫色に輝く大きな瞳が、その下から出現する。それと同時にライバルの左腕が真紅の瘴気によって包まれ始めた。その翳りを纏った静謐な雰囲気に、沙穂は地獄、という言葉を頭に浮かべた。

「ラァィイ……」

 ライバルの左手を染めている赤の輝きが、さらにその光度を増す。沙穂は思わず身震いした。それは見るものの心の奥底から、恐怖を喚起させる威力を備えた光だった。

「バルゥウウウッ!」

 その雄たけびに、怪物が振り返る。だがすでに遅かった。ライバルの打ち放った拳は、何の迷いもなく、怪人の胸を一撃で貫通した。

 怪人の背からライバルの腕が生える。その手には砂時計が握られていた。中には青い液体が満ちている。おそらく怪人の体内にあったものだろう、と沙穂は想像した。それを握る手に力がこめられていく。体を貫かれたまま、怪人は絶叫し、手足をばたつかせる。

「やめろ! 俺は消えたくない! やめてくれえええ!」

 結果的にそれが怪人の断末魔となった。

 ライバルは何の慈悲も感じさせない動作で、その砂時計を握りつぶした。彼の手の中に青い液体が漏れ広がり、指の間から漏れて地面に零れ落ちていく。そして怪人は嗚咽のような声を漏らしながら光の粒子と化していき、やがて塵一つ残らず消滅してしまった。


「コンタクトを入れた目にコンタクトを入れたら、そりゃ視界はぼやけるよね」

 大学構内の食堂で、沙穂は昨晩の出来事を一言で総括する。

 チョコレートのたっぷりまぶしたドーナツを齧りながら、奈々は首を傾げた。今日は爽やかな水色フレームのメガネをかけている。それもまた彼女によく似合っていた。

「え、まぁ、うん。私、コンタクト使わないから分からないけど。というか今日は沙穂ちゃん、コンタクトなんだね」

「うん。大学に来るときはほとんどね。まぁ、それはいいとしてさ。コンタクトを使ったことがある人なら、それは一度は陥るミスなんだよ。私は週に5回はその罠にはまってるくらいだし」

「それは多すぎだと思うんだけど……」

 食堂は、学生で賑わっていた。沙穂と奈々は隅の方にある二人掛けのテーブルで向き合っている。大きな窓から見える空は曇っていたが、雨は降り出していない。朝のニュース番組では降水確率60パーセントと言っていた。

「そういえば見たよ、ドーナツランド。面白かった。私もはまっちゃいそう」

「おおー。なっちゃん殿も、あの子ども番組に収まりきらぬ魅力に気付いたでござるか」

「ござるござるー。まさかドリッキーに愛人がいたなんて衝撃的だったよ」

「愛人の夫とドリッキーが対峙するシーンは、ドーナツランドの中でも1、2を争う名場面だから、再放送是非観たほうがいいよ」

 結局あの後、コンタクトレンズの怪人が消滅すると同時に、灰色の空がひしめき、サンマの群れが整然と地面に突き立てられていたあの景色はかき消え、ライバルも忽然と姿を消した。

 世界が変転したのと同じように、世界が元に戻るのも一瞬だった。気付けば沙穂はいつもと変わらぬ夜の街角に佇んでいた。

 程なくして奈々は意識を取り戻した。怪人の言ったことがでたらめだったのか、それともあの怪人がいなくなったから彼女は目覚めることができたのか、それは定かではないが、それでも奈々がこうして再び元気な顔を見せてくれたことは事実であり、沙穂にとって手放しに喜ぶべきことだった。彼女に抱きつき、泣き出しそうになったことはいまでも覚えている。

 奈々は怪人に出会い、襲われたことは覚えていないらしい。本人は貧血で倒れたと思い込んでいるようだ。メガネは倒れた拍子に地面に落ちていたのを、沙穂が踏んで壊してしまったことにした。謝ると、彼女は沙穂が辟易してしまうほどにあっさりと許してくれた。メガネは30個以上持っているから構わないと言う。「メガネ武士だね」と沙穂が褒めると「メガネだけど。武士ではないよ」と指摘されたので、なるほどと感心したものだった。

「私、よくきゅーってなっちゃうんだよね。すぐ倒れて迷惑かけちゃう。今回も沙穂ちゃんに面倒かけさせちゃって、ごめんね」

 テーブルを挟んで向かい側に座る奈々は、眉をハの字に曲げ、顔の前で手を合わせた。沙穂はテーブルの上から、いちごクリームの入ったドーナツを手に取ると、それを齧った。

「武士の情けでござる」

「立派でござった。ご恩と奉公でござる」

 奈々が武士の口調を真似て笑う。沙穂もふふ、と笑みを漏らした。

 それにしても、呆気ないほど簡単に日常に帰ってきたな、と沙穂は改めて昨日のことを思い出しながら拍子抜けする。今では怪人に襲われ、そして“ライバル”によって助けられたことが夢の中のことであったかのように感じる。口の中に広がるドーナツの味を、懐かしくも思わない。一日欠かさず食べてきた、側にあって当たり前の食べ物だ。

「じゃあ、次、講義あるから。そろそろ行くね」

 奈々は口元をハンカチで拭うと、トートバックを手に取りながら席を立った。

「その次は一緒の講義だよね。今日はいっぱいあって大変だけど、頑張ろうね」

「うん。またドーナツランドについて語ろうね」

 それから一言、二言、会話を交わしてから奈々は手を振り、食堂から出て行った。沙穂は彼女の背中が見えなくなるまで手を振り、それからふと目を細めた。

 しかしあの出来事が、あの荒唐無稽な世界が、けして夢でなかった証拠を沙穂は持っている。この町には化物が跳梁跋扈しており、それを狩る化物もおり、多くの人々はそれを知らずに日常を過ごしているのだということは、沙穂は知ってしまった。

 テーブルの上に載せていたハンドバックを胸の前に引き寄せ、中を探る。指に引っかかったそれをそっと持ち上げた。

『交通安全』――そう記された青いお守りは、あの夜、ライバルが腰に付けていたものだ。彼が去ったあとに道に落ちていたのを、沙穂が拾ったのだった。

沙穂は薄汚れたそのお守りを、両手で大事に包み込んだ。

ちりん。

鈴の音が小さく、掌の中で響く。

これを持っていればまたいつか、自分を助けてくれ、奈々を救ってくれた、あの黒い怪人に出会えるのではないか。そんな希望を掌にこめる。沙穂にとってあの怪人は絶望を希望に変え、闇を破り、光を捧げてくれる存在に違いなかった。

 もう1度彼に会い、そして改めてお礼を言うこと。それが沙穂の決めた一番の目標だ。それまではこのお守りを大切に預かっておこうと思う。

沙穂はドーナツの入っていた紙袋をくしゃくしゃにし、腰を上げる。椅子の背もたれを掴んでバランスを取ってから、厨房のカウンターに足を向けた。

今日のお昼はいつもより高い、ヒレカツ定食にしようかと心の中で決める。コンタクトレンズが片方しかいらなくなったため、今月からお金が少し浮くことになったからだ。

 町中にサイレンの音が響き渡る。今日も指場町にいつもと変わらぬお昼の時間がやってきた。

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