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七日後、私はあなたを忘れます――だから婚約者様、もう一度あなたを好きにならせてください

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/09/29

「あと七日です」


 医師にそう告げられたとき、私は意味が分からなかった。


「七日……?」


「はい。七日ほどかけて、おおむね古い記憶から失われていきます。途中でその方と新しい思い出を作っても、呪いが完成するときに、すべて失われます」


 隣に座っていた婚約者のレオンが、私の手を強く握った。


 アルフォード侯爵家の嫡男であり、近衛騎士でもある人だ。


「治す方法は?」


「少なくとも、今の医術では……ありません」


 私にかけられた《忘却の呪い》は、呪具に指定された相手に関する記憶だけを奪うらしい。


 私の手首を刺した針には、レオンの髪が一本、術式とともに焼き込まれていた。


 王宮の夜会で倒れたとき、私が考えていたのは間違いなくレオンだった。


 倒れる少し前、私は彼と踊っていた。


「来月には、こうして人前で踊るのも夫婦として、ですね」


「緊張してるのか?」


「少しだけ」


「お前でも緊張するんだな」


「どういう意味ですか」


 文句を言いながらも、私は笑っていた。


 そのとき、誰かがぶつかってきた。


 白い手袋をした女性だった。謝る声も聞こえないうちに、手首に針で刺されたような痛みが走った。


 視界が傾いた。


 レオンの名を呼ぼうとしたけれど、声が出なかった。


 倒れかけた私を抱き止めたのは、やはり彼だった。


 遠ざかる意識の中で、私は来月の結婚式に間に合うだろうかと考えていた。


 誰が、何のためにレオンを指定したのかは分からない。


 それを調べる時間も、治療法を探す時間も、私たちには七日しか残されていなかった。


「七日後には、レオンのことだけ忘れてしまうんですね?」


「……はい」


「子供の頃のことも? 婚約したことも?」


「はい」


「好きになったことも?」


 医師は答えなかった。


 レオンと出会ったのは九歳。婚約したのは十五歳。好きだと自覚したのは十七歳。


 そして今、私は二十歳。


 来月には結婚する予定だった。


 その十一年分を、私は七日で失う。


◇


「婚約を解消しましょう」


 屋敷へ戻って最初に言った。


「嫌だ」


「七日後、私はあなたを忘れます。その頃には、あなたは知らない男性です」


「それで?」


「知らない男性と結婚なんてできません!」


「なら延期する」


「そういう問題じゃありません!」


 私が忘れたあとまで、私に付き合う必要はない。


 そう言うと、レオンは首を振った。


「それは俺が決める」


「でも――」


「俺のことが嫌いになったのか?」


「そんなわけ……!」


 答えた途端、レオンの張り詰めていた顔が少しだけ緩んだ。


「なら、今は婚約を解消しない」


「七日後には嫌いになるかもしれません」


「そのとき考える」


「怖がるかもしれません」


「怖がらせない」


「顔だって知らないんですよ?」


「ああ」


「それでも?」


「それでも」


 レオンは私の左手を取った。


「七日後、お前が俺を忘れたら、もう一度会いに行く」


「……え?」


「もう一度知り合って、もう一度好きになってもらう」


「そんな簡単に……」


「一回できた」


 思わず顔を上げた。


「なら、二回目もできる」


「……馬鹿」


「よく言われる」


「誰にですか」


「お前に」


 笑ってしまった。


 七日後には、この会話さえ思い出せなくなる。


「犯人は、必ず見つける」


 レオンが言った。


「見つけて、どうするんですか?」


「二度とお前に近づけないようにする」


「それだけ?」


「今は、それ以上のことを言うとお前に怒られる」


 否定できなかった。


 彼はきっと、私が止めなければ相手を殺しかねない。


「では、犯人捜しは騎士団に任せてください」


「俺は何をすればいい?」


「残りの七日を、私と過ごしてください」


 レオンはすぐには答えなかった。


 やがて私の額に自分の額を重ねる。


「分かった」


 低い声だった。


 それが、彼が泣くのを堪えている声だと、このときの私は知っていた。


◇


 翌朝、最初の記憶が消えた。


「これ、何?」


 引き出しから、小さな木彫りの鳥が出てきた。


 羽の大きさは左右で違うし、くちばしも不格好だ。


「レオン様から初めていただいた贈り物ではありませんか」


「……これが?」


 午後、レオンに見せた。


「これをもらったときのこと、忘れちゃったみたい」


「十歳の誕生日だ」


「あなたが作ったの?」


「ああ」


「下手ですね」


「十一歳の子供に何を求めてるんだ」


「私、喜んだ?」


「ものすごく。その日のうちに落として羽を折った」


「……私じゃないですか!」


「だから直した」


「また作ろうか?」


「いいです」


「即答か」


「これがいい」


 理由は分からない。思い出せないのに、別のものにしたくなかった。


「これは捨てません。忘れても、持ってます」


 レオンは何かを言おうとして、やめた。


 代わりに、傷のある羽を指先でそっと撫でた。


 その夜、私は大切なものを机の上へ並べた。


 木彫りの鳥。婚約指輪。レオンから届いた手紙。二人で選んだ結婚式の招待状。


 品物を見れば、何があったかは分かる。


 けれど、そのとき自分がどう感じたのかは、もう誰にも教えてもらえない。


 私は新しいノートを開き、今日忘れたことと、まだ覚えていることを書き始めた。


『木彫りの鳥をもらった日のことは忘れた』


『でも、これを捨てたくないと思った』


 書き終えたあと、二行目に何度も線を引いた。


 思い出がなくなっても、気持ちのすべてが消えるわけではない。


 そう信じたかった。


◇


 二日目。


 レオンが、私たちが子供だった頃の話をした。


 私が木から下りられなくなって泣いたこと。助けに来たレオンまで下りられなくなって、二人そろって叱られたこと。


「そんなことした?」


「した」


「全然覚えてない」


「昨日までは覚えてた」


 レオンは言ったあと、しまったという顔をした。


「ごめん」


「謝らないで。忘れたのは、あなたのせいじゃないもの」


「分かってる。分かってるけど、どう話せばお前を傷つけないのか、俺には分からない」


 そのあとは昔の話をやめ、庭に咲いた花や昼食、明日の天気の話をした。


 昨日までの思い出ではなく、今日の話をしてくれることがありがたかった。


「明日も来る?」


 帰り際、私から尋ねた。


 レオンは一瞬だけ驚き、それから当然のような顔を作った。


「来る」


「仕事は?」


「部下に任せた」


「迷惑をかけていませんか?」


「俺がいなくても国は滅びない」


「ずいぶん投げやりですね」


「七日後に後悔するよりいい」


 それを聞いて、胸が痛んだ。


 後悔するのは、すべてを覚えているレオンだけだ。


 私はその痛みさえ、七日後には忘れてしまう。


◇


 三日目。


 侍女を伴い、レオンと街へ出た。


「ここ、覚えてるか?」


 小さな菓子店だった。


「初めて二人で出掛けた日に来た」


 レオンが焼き菓子を一つ買ってくれた。


 食べてみる。甘酸っぱい果実が入っていた。


「あ」


「どうした?」


「好き」


 レオンの肩がわずかに跳ねた。


「……焼き菓子が」


「分かってる」


「今、一瞬勘違いしました?」


「してない」


「こっちを見てください」


「もう一つ買うか?」


 露骨に話を逸らされた。


「食べます」


 思い出はない。それなのに、以前と同じものをおいしいと思った。


「私、全部変わっちゃうわけじゃないのかな」


「変わらないものもあるんじゃないか」


「例えば?」


「その菓子を二個食べるところとか」


「そこ?」


 七日後のことを考えずに笑えたのは、呪いを受けてから初めてだった。


 店を出たあと、隣の装飾品店の飾り窓に並ぶ髪飾りが目に入った。


 レオンが青い髪飾りの前で足を止める。


「初めて二人で街へ来た日に、これと同じものを贈った」


「では、もう一度これを買いますか?」


 レオンは首を振った。


「今のあなたが欲しいものを選んでほしい」


 私は隣にあった白い花の髪飾りを手に取った。


「こちらがいいです」


「分かった」


 会計を済ませたあと、私は髪飾りをレオンへ渡した。


「つけてください」


「俺が?」


「あなたが買ってくれたのでしょう?」


 レオンは慣れない手つきで、私の髪に白い花を留めた。


 指先が髪へ触れるたびに、ひどく慎重なのが伝わってくる。


「似合いますか?」


「ああ」


「前にもそう言いました?」


「言おうとした。その前に、お前が『分かっています』と言った」


「……やっぱり、かわいくないですね」


「今も変わらない」


 憎まれ口なのに、レオンはうれしそうだった。


◇


 四日目。


 レオンに告白された日のことを忘れた。


「なんて言ったんです?」


「言わない」


「どうして?」


「恥ずかしい」


 その日は、初めて告白されたという庭へ行った。


「もう一回やって」


「嫌だ」


「どうせ忘れるんだからいいじゃない」


 言ってから、空気が止まった。


「ごめんなさい」


「……分かってる」


 しばらくして、レオンが私の前に立った。


「エリナ。好きだ。ずっと好きだった。俺と結婚してほしい」


 たったそれだけだった。


 なのに涙が出た。


「私、そのときなんて答えたの?」


「『遅い』」


「……かわいくない」


「知ってる」


「それから?」


「俺に抱きついた」


「じゃあ、同じにしないと駄目ですね」


 私はレオンに抱きついた。


「レオン」


「ん?」


「私、忘れたくない」


 初めて口にした。


「怖い。あなたを知らない人になるのが嫌」


「ああ」


「私だけ忘れるなんて嫌だよ」


 レオンは何も答えなかった。


 ただ、痛いほど強く私を抱きしめた。


 肩口が濡れていることには、気づかないふりをした。


 しばらくして顔を上げると、レオンの目も赤かった。


「私の前では泣かない人だと思っていました」


「泣いてない」


「では、雨ですか?」


「そうだ」


 雲一つない空を見上げる。


「ひどい雨ですね」


「ああ」


 私たちは抱き合ったまま、泣きながら笑った。


 この日のことも消える。


 そう思うと、笑っている時間さえ惜しかった。


◇


 五日目。


 庭の段差でつまずきかけた私に、レオンが手を伸ばした。


 顔も名前も分かっている。昨日、彼の腕の中で泣いたことも覚えている。


 それなのに、伸ばされた手を見た瞬間、知らない男性に触れられるような怖さが走った。


 私は反射的に、その手を避けた。


「あ……」


 レオンの手が止まる。


「ごめんなさい」


「いや。俺が悪かった」


 それからレオンは私に触れなかった。


 彼との思い出だけでなく、身体の親しさまで消え始めている。


 私が怖がらないように距離を取るレオンを見るほうが、ずっとつらかった。


 夕方。別れるとき、私は彼を呼び止めた。


「……手をつないでもいい?」


 レオンが目を見開く。


「無理しなくていい」


「無理じゃありません。今の私が、そうしたいんです」


 自分から手を重ねた。


 緊張した。でも、嫌ではなかった。


「昨日までは、普通につないでた?」


「ああ」


「私からも?」


「よく、勝手に」


「勝手に?」


「俺が仕事の話をしていても、お構いなしだった」


「それは……ごめんなさい」


「謝るところじゃない」


 レオンの声が少しだけ震えた。


 私は握る力を強くした。


「じゃあ、今日はこれで覚えます」


「何を?」


「あなたの手」


 レオンは、今度こそしっかりと握り返してくれた。


 私は屋敷に入るぎりぎりまで、その手を離さなかった。


◇


 六日目の朝。


 枕元に、私の字で書かれた紙があった。


『レオン・アルフォード』


『婚約者』


『十一年前に出会った』


『木彫りの鳥をくれた』


『紅茶には砂糖を入れない』


『怒ると黙る』


『意外と嫉妬深い』


『私のことを大切にしてくれている』


 最後の一行だけ、何度も書き直した跡があった。


『私は、この人が大好き』


 でも、顔が思い浮かばない。


 扉がノックされた。


「エリナ。入っていいか?」


「……レオン?」


「ああ」


 扉が開く。


 金色の髪に、青い瞳。


 知らない。


 本当に、知らない人だった。


「あなたが、レオン?」


「ああ」


「私の婚約者?」


「そうだ」


 紙を見せる。


「私、あなたのことが大好きだったみたい」


 レオンは一度唇を噛み、それから目を伏せた。


「……そうらしい」


「自分で言わないんですね」


「俺が言ったら信用しないだろ」


「確かに」


 私が笑うと、彼も少し遅れて笑った。


 知らない人なのに、その笑顔を見ると胸の奥が軽くなった。


「昨日の私は、あなたと何をしましたか?」


「手をつないだ」


「それだけ?」


「屋敷の前まで、ずっと」


「それで、あなたはうれしかった?」


「うれしかった」


 即答だった。


 知らない男性にそんな顔をさせた昨日の自分が、少しうらやましい。


「今日の私は、まだ手をつなぎたいとは思えません」


「分かってる」


「傷つきました?」


「少しな」


 そこで平気なふりをしないところが、意外だった。


「明日は、もっと傷つけるかもしれません」


「それでも来る」


 彼が帰ったあと、ノートへ一行書き足した。


『この人は、強いのではなく、怖くても逃げない人』


◇


 七日目。


 最後の記憶が消えた。


 レオンという名前すら、私の中からなくなった。


 机の上には、不格好な木彫りの鳥。


 左手には婚約指輪。


 そして『大切な人について』と書かれたノート。


 けれど、私は開かなかった。


 会う前から、昨日までの私が出した答えに従いたくなかった。


 たとえ、その答えが間違っていなかったとしても。


 今の私は、今の私の目で彼を見たかった。


 昼過ぎ、レオン・アルフォードという男性が訪ねてきた。


「初めまして」


「初めまして」


「レオン・アルフォードと申します。昨日まで、あなたの婚約者として接していました」


「……昨日まで?」


「七日前、俺は婚約を解消しないと言った」


「では、どうして?」


「あの婚約は、俺を知っていたあなたが選んでくれたものだから」


 彼は私の指輪を見る。


「今のあなたは俺を知らない。その約束だけで、あなたを縛りたくない」


「……」


「両家には、婚約をいったん白紙に戻したいと申し入れた。正式な手続きは、あなたの意思を聞いてからにする。でも、俺は諦めるつもりはない」


 レオンが手を差し出した。


「今のあなたに、改めて俺を知ってもらいたい。まずは、友人になってくれませんか?」


 ずいぶん勝手な人だ。


 けれど、差し出された手から逃げたいとは思わなかった。


 私はその手を取った。


「はい」


 初めて触れたはずなのに、指先が触れた瞬間、なぜか泣きたくなった。


◇


 友人になった翌日、レオンは昨日と同じ時刻にやって来た。


「今日は何をするんですか?」


「あなたが決めてください」


 私を以前の私と同じ場所へ連れていくのだと思っていた。


 けれどレオンが選んだのは、屋敷の庭だった。


「遠出しなくていいんですか?」


「今日は、あなたが好きな花を教えてほしい」


「昔の私が好きだった花ではなく?」


「今のあなたが好きな花を」


 以前の私を取り戻そうとするのではなく、今の私を知ろうとしている。


 そのことが、少しうれしかった。


 私は庭を一周し、白い小花の前で足を止めた。


「これが好きです」


「名前は?」


「知りません」


「知らない花を選んだのか?」


「名前で好きになるわけではないでしょう」


 レオンは笑い、庭師に花の名前を尋ねた。


 翌週、同じ花を使った小さな花束が届いた。


 以前の私がもらったことのない、今の私だけの贈り物だった。


◇


 二週間後、侍女を伴って初めて二人で街へ出た。


 レオンが昔の話をしようとするたび、私は身構えてしまう。


 過去の私と比べられる気がしたからだ。


 けれど彼が教えたのは、私のことではなかった。


 警備隊で失敗したこと。子供の頃、犬が怖かったこと。甘いものが苦手なくせに、果実の焼き菓子だけは食べられること。


「どうしてあなたの失敗ばかり教えるんですか?」


「格好をつけても、いずれ知られる」


「以前の私にも話しました?」


「犬のことは隠していた」


「では、私のほうが先に知ったんですね」


「そうなるな」


 以前の私が知らないレオンを、今の私だけが知っている。


 それが少しうれしかった。


 例の菓子店で、レオンは果実の焼き菓子を一つだけ買った。


 半分に割り、大きいほうを私へ渡す。


「前もそうしていました?」


「前は二つ買わされた」


「では、今日は一つでいいです」


「遠慮してるのか?」


「半分にしたほうが、同じものを食べられるでしょう」


 レオンは返事をせず、焼き菓子を口に入れた。


 けれど、耳が赤くなっていた。


◇


 一か月後、王宮から夜会の招待状が届いた。


 呪いをかけた犯人は、数日前に捕らえられていた。


 アルフォード侯爵家の遠縁で、屋敷に出入りしていた令嬢が、レオンとの縁談を望んで禁じられた魔道具を使ったのだという。


 私の手首に残っていた針から魔力をたどり、術者を突き止めたらしい。


 けれど、犯人を捕らえても私の記憶は戻らなかった。


 失われたものを取り戻す術がないことも、改めて確認されただけだった。


 父は出席に反対したが、私は行くことを選んだ。


 閉じこもっていれば、犯人ではなく呪いに人生を決められたままになる。


 ただし、レオンには知らせなかった。侍女と護衛を連れているのだから問題ないと、自分に言い聞かせた。


 会場へ入って間もなく、背後から低い声がした。


「どうしてここにいる」


 振り返ると、正装したレオンが立っていた。


 怒っている。ノートに書かれていたとおり、怒ると口数が減るらしい。


「招待されたからです」


「そういう意味じゃない」


「では、どんな意味ですか?」


「ここで呪いを受けたんだぞ」


「知っています」


「同じ魔道具が残っていないとは限らない」


「警備が強化されたことも聞きました」


「なら――」


「私は、あなたに守られるためだけの人ではありません」


 レオンが黙った。


 言いすぎたと思ったけれど、謝りたくはなかった。


「以前の私なら、あなたの言うことを聞きましたか?」


「聞くわけがない」


「でしょうね」


「だが、以前のあなたなら一人では来なかった」


 返す言葉がなかった。


「俺に頼れと言ってるんじゃない。一緒に考えさせてほしい」


 レオンは私を閉じ込めたいのではなく、失うのが怖かっただけなのだ。


「……次からは話します」


「次があっても困る」


 そう言いながら、彼は手を差し出した。


「踊ってくれますか?」


 胸の奥が跳ねた。


 この場所で以前の私は、彼と最後の踊りを踊った。


 けれど今から始まるのは、今の私にとって最初の一曲だ。


「はい」


 差し出された手に自分の手を重ねた。


 レオンは私の歩幅に合わせ、決して急がなかった。


 踊り終えたとき、もう一曲と言い出したのは私だった。


◇


 二か月後、雨に降られて庭の東屋へ逃げ込んだ。


 レオンは自分の上着を私の肩へ掛けた。


「あなたも濡れているでしょう」


「俺は平気だ」


「そういうところは嫌いです」


「どこが?」


「自分だけ我慢すればいいと思っているところ」


 上着を半分返し、二人の肩へ無理やり掛けた。


 自然と身体が近づく。


 レオンの手が動き、けれど私へ触れる前に止まった。


「どうしました?」


「髪に葉がついてる」


「取ってください」


「触っていいのか?」


「そのくらい、いちいち聞かなくても」


「前に、手を避けられたことがある」


 それは呪いが完成する二日前の私だ。


 レオンにとっては、まだ終わっていない傷なのだろう。


 私は彼の手を取り、自分の頬へ触れさせた。


「今の私は、避けません」


 レオンの指が震えた。


 頬に触れているだけなのに、息が苦しくなるほど胸が鳴る。


 この人を好きになりかけている。


 そう気づいた途端、怖くなった。


 それが私自身の気持ちなのか、身体に残った過去の名残なのか、分からなかったから。


 私は答えを出せないまま、彼の手を離した。


 レオンは理由を尋ねなかった。


 ただ、雨がやむまで隣にいてくれた。


◇


 三か月後。


「レオン」


「ん?」


「明日、暇?」


「午後なら」


「じゃあ街に行きたい。あのお店にも行きたい」


「焼き菓子の?」


「そう」


「先週も行っただろ」


「おいしかったからいいじゃない」


 レオンが呆れたように笑った。


 彼と会うようになってから、一度だけノートを開いた。


 そこには、以前の私が知っていたレオンがいた。


 けれど今は、もう読んでいない。


 私が知った今のレオンを、私自身の記憶で好きになりたかったから。


「ねえ、レオン。手、貸して」


「何に使うんだ?」


「いいから」


 差し出された手を握った。


「どうした?」


「別に」


「別に、で手を握るのか?」


「嫌なら離しますけど」


「嫌とは言ってない」


 離そうとした手を、今度はレオンが握り直した。


「私たち、前もこうしてた?」


「してた」


「よく?」


「ああ」


「そっか」


 この手を初めて握った日も、好きだと言われた日も、抱きしめてもらった日も覚えていない。


 全部なくなった。


 それでも今、この手を離したくない。


「レオン」


「なんだ?」


「私、あなたが好き」


 握られていた手が止まった。


 レオンは何も言わない。


「聞こえませんでした?」


「聞こえた」


「では、返事は?」


「少し待ってくれ」


「どうして?」


「今、たぶん、ひどい顔をしてる」


 レオンは空いている手で目元を覆った。


 その耳が真っ赤になっている。


「泣いているんですか?」


「見ないでくれ」


「嫌です。私だけたくさん泣いたんですから」


 覆っていた手をつかんで下ろすと、レオンは困ったように笑った。


「俺も好きだ。もう一度、俺を選んでくれてありがとう」


「お礼を言うところですか?」


「言わせてくれ」


「仕方ないですね」


 私たちは、手をつないだまま次に会う日を決めた。


「三日後、忘れないでくださいね」


「忘れるわけないだろ」


 その言葉がおかしくて、私は笑った。


 レオンも、今度は泣きながら笑った。


 失った十一年は戻らない。


 それでも私は、もう一度この人を好きになった。


 今度は、誰かに教えられた思い出ではなく、私自身の心で。


 私は、つないだ手を離さなかった。


――完――


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