七日後、私はあなたを忘れます――だから婚約者様、もう一度あなたを好きにならせてください
「あと七日です」
医師にそう告げられたとき、私は意味が分からなかった。
「七日……?」
「はい。七日ほどかけて、おおむね古い記憶から失われていきます。途中でその方と新しい思い出を作っても、呪いが完成するときに、すべて失われます」
隣に座っていた婚約者のレオンが、私の手を強く握った。
アルフォード侯爵家の嫡男であり、近衛騎士でもある人だ。
「治す方法は?」
「少なくとも、今の医術では……ありません」
私にかけられた《忘却の呪い》は、呪具に指定された相手に関する記憶だけを奪うらしい。
私の手首を刺した針には、レオンの髪が一本、術式とともに焼き込まれていた。
王宮の夜会で倒れたとき、私が考えていたのは間違いなくレオンだった。
倒れる少し前、私は彼と踊っていた。
「来月には、こうして人前で踊るのも夫婦として、ですね」
「緊張してるのか?」
「少しだけ」
「お前でも緊張するんだな」
「どういう意味ですか」
文句を言いながらも、私は笑っていた。
そのとき、誰かがぶつかってきた。
白い手袋をした女性だった。謝る声も聞こえないうちに、手首に針で刺されたような痛みが走った。
視界が傾いた。
レオンの名を呼ぼうとしたけれど、声が出なかった。
倒れかけた私を抱き止めたのは、やはり彼だった。
遠ざかる意識の中で、私は来月の結婚式に間に合うだろうかと考えていた。
誰が、何のためにレオンを指定したのかは分からない。
それを調べる時間も、治療法を探す時間も、私たちには七日しか残されていなかった。
「七日後には、レオンのことだけ忘れてしまうんですね?」
「……はい」
「子供の頃のことも? 婚約したことも?」
「はい」
「好きになったことも?」
医師は答えなかった。
レオンと出会ったのは九歳。婚約したのは十五歳。好きだと自覚したのは十七歳。
そして今、私は二十歳。
来月には結婚する予定だった。
その十一年分を、私は七日で失う。
◇
「婚約を解消しましょう」
屋敷へ戻って最初に言った。
「嫌だ」
「七日後、私はあなたを忘れます。その頃には、あなたは知らない男性です」
「それで?」
「知らない男性と結婚なんてできません!」
「なら延期する」
「そういう問題じゃありません!」
私が忘れたあとまで、私に付き合う必要はない。
そう言うと、レオンは首を振った。
「それは俺が決める」
「でも――」
「俺のことが嫌いになったのか?」
「そんなわけ……!」
答えた途端、レオンの張り詰めていた顔が少しだけ緩んだ。
「なら、今は婚約を解消しない」
「七日後には嫌いになるかもしれません」
「そのとき考える」
「怖がるかもしれません」
「怖がらせない」
「顔だって知らないんですよ?」
「ああ」
「それでも?」
「それでも」
レオンは私の左手を取った。
「七日後、お前が俺を忘れたら、もう一度会いに行く」
「……え?」
「もう一度知り合って、もう一度好きになってもらう」
「そんな簡単に……」
「一回できた」
思わず顔を上げた。
「なら、二回目もできる」
「……馬鹿」
「よく言われる」
「誰にですか」
「お前に」
笑ってしまった。
七日後には、この会話さえ思い出せなくなる。
「犯人は、必ず見つける」
レオンが言った。
「見つけて、どうするんですか?」
「二度とお前に近づけないようにする」
「それだけ?」
「今は、それ以上のことを言うとお前に怒られる」
否定できなかった。
彼はきっと、私が止めなければ相手を殺しかねない。
「では、犯人捜しは騎士団に任せてください」
「俺は何をすればいい?」
「残りの七日を、私と過ごしてください」
レオンはすぐには答えなかった。
やがて私の額に自分の額を重ねる。
「分かった」
低い声だった。
それが、彼が泣くのを堪えている声だと、このときの私は知っていた。
◇
翌朝、最初の記憶が消えた。
「これ、何?」
引き出しから、小さな木彫りの鳥が出てきた。
羽の大きさは左右で違うし、くちばしも不格好だ。
「レオン様から初めていただいた贈り物ではありませんか」
「……これが?」
午後、レオンに見せた。
「これをもらったときのこと、忘れちゃったみたい」
「十歳の誕生日だ」
「あなたが作ったの?」
「ああ」
「下手ですね」
「十一歳の子供に何を求めてるんだ」
「私、喜んだ?」
「ものすごく。その日のうちに落として羽を折った」
「……私じゃないですか!」
「だから直した」
「また作ろうか?」
「いいです」
「即答か」
「これがいい」
理由は分からない。思い出せないのに、別のものにしたくなかった。
「これは捨てません。忘れても、持ってます」
レオンは何かを言おうとして、やめた。
代わりに、傷のある羽を指先でそっと撫でた。
その夜、私は大切なものを机の上へ並べた。
木彫りの鳥。婚約指輪。レオンから届いた手紙。二人で選んだ結婚式の招待状。
品物を見れば、何があったかは分かる。
けれど、そのとき自分がどう感じたのかは、もう誰にも教えてもらえない。
私は新しいノートを開き、今日忘れたことと、まだ覚えていることを書き始めた。
『木彫りの鳥をもらった日のことは忘れた』
『でも、これを捨てたくないと思った』
書き終えたあと、二行目に何度も線を引いた。
思い出がなくなっても、気持ちのすべてが消えるわけではない。
そう信じたかった。
◇
二日目。
レオンが、私たちが子供だった頃の話をした。
私が木から下りられなくなって泣いたこと。助けに来たレオンまで下りられなくなって、二人そろって叱られたこと。
「そんなことした?」
「した」
「全然覚えてない」
「昨日までは覚えてた」
レオンは言ったあと、しまったという顔をした。
「ごめん」
「謝らないで。忘れたのは、あなたのせいじゃないもの」
「分かってる。分かってるけど、どう話せばお前を傷つけないのか、俺には分からない」
そのあとは昔の話をやめ、庭に咲いた花や昼食、明日の天気の話をした。
昨日までの思い出ではなく、今日の話をしてくれることがありがたかった。
「明日も来る?」
帰り際、私から尋ねた。
レオンは一瞬だけ驚き、それから当然のような顔を作った。
「来る」
「仕事は?」
「部下に任せた」
「迷惑をかけていませんか?」
「俺がいなくても国は滅びない」
「ずいぶん投げやりですね」
「七日後に後悔するよりいい」
それを聞いて、胸が痛んだ。
後悔するのは、すべてを覚えているレオンだけだ。
私はその痛みさえ、七日後には忘れてしまう。
◇
三日目。
侍女を伴い、レオンと街へ出た。
「ここ、覚えてるか?」
小さな菓子店だった。
「初めて二人で出掛けた日に来た」
レオンが焼き菓子を一つ買ってくれた。
食べてみる。甘酸っぱい果実が入っていた。
「あ」
「どうした?」
「好き」
レオンの肩がわずかに跳ねた。
「……焼き菓子が」
「分かってる」
「今、一瞬勘違いしました?」
「してない」
「こっちを見てください」
「もう一つ買うか?」
露骨に話を逸らされた。
「食べます」
思い出はない。それなのに、以前と同じものをおいしいと思った。
「私、全部変わっちゃうわけじゃないのかな」
「変わらないものもあるんじゃないか」
「例えば?」
「その菓子を二個食べるところとか」
「そこ?」
七日後のことを考えずに笑えたのは、呪いを受けてから初めてだった。
店を出たあと、隣の装飾品店の飾り窓に並ぶ髪飾りが目に入った。
レオンが青い髪飾りの前で足を止める。
「初めて二人で街へ来た日に、これと同じものを贈った」
「では、もう一度これを買いますか?」
レオンは首を振った。
「今のあなたが欲しいものを選んでほしい」
私は隣にあった白い花の髪飾りを手に取った。
「こちらがいいです」
「分かった」
会計を済ませたあと、私は髪飾りをレオンへ渡した。
「つけてください」
「俺が?」
「あなたが買ってくれたのでしょう?」
レオンは慣れない手つきで、私の髪に白い花を留めた。
指先が髪へ触れるたびに、ひどく慎重なのが伝わってくる。
「似合いますか?」
「ああ」
「前にもそう言いました?」
「言おうとした。その前に、お前が『分かっています』と言った」
「……やっぱり、かわいくないですね」
「今も変わらない」
憎まれ口なのに、レオンはうれしそうだった。
◇
四日目。
レオンに告白された日のことを忘れた。
「なんて言ったんです?」
「言わない」
「どうして?」
「恥ずかしい」
その日は、初めて告白されたという庭へ行った。
「もう一回やって」
「嫌だ」
「どうせ忘れるんだからいいじゃない」
言ってから、空気が止まった。
「ごめんなさい」
「……分かってる」
しばらくして、レオンが私の前に立った。
「エリナ。好きだ。ずっと好きだった。俺と結婚してほしい」
たったそれだけだった。
なのに涙が出た。
「私、そのときなんて答えたの?」
「『遅い』」
「……かわいくない」
「知ってる」
「それから?」
「俺に抱きついた」
「じゃあ、同じにしないと駄目ですね」
私はレオンに抱きついた。
「レオン」
「ん?」
「私、忘れたくない」
初めて口にした。
「怖い。あなたを知らない人になるのが嫌」
「ああ」
「私だけ忘れるなんて嫌だよ」
レオンは何も答えなかった。
ただ、痛いほど強く私を抱きしめた。
肩口が濡れていることには、気づかないふりをした。
しばらくして顔を上げると、レオンの目も赤かった。
「私の前では泣かない人だと思っていました」
「泣いてない」
「では、雨ですか?」
「そうだ」
雲一つない空を見上げる。
「ひどい雨ですね」
「ああ」
私たちは抱き合ったまま、泣きながら笑った。
この日のことも消える。
そう思うと、笑っている時間さえ惜しかった。
◇
五日目。
庭の段差でつまずきかけた私に、レオンが手を伸ばした。
顔も名前も分かっている。昨日、彼の腕の中で泣いたことも覚えている。
それなのに、伸ばされた手を見た瞬間、知らない男性に触れられるような怖さが走った。
私は反射的に、その手を避けた。
「あ……」
レオンの手が止まる。
「ごめんなさい」
「いや。俺が悪かった」
それからレオンは私に触れなかった。
彼との思い出だけでなく、身体の親しさまで消え始めている。
私が怖がらないように距離を取るレオンを見るほうが、ずっとつらかった。
夕方。別れるとき、私は彼を呼び止めた。
「……手をつないでもいい?」
レオンが目を見開く。
「無理しなくていい」
「無理じゃありません。今の私が、そうしたいんです」
自分から手を重ねた。
緊張した。でも、嫌ではなかった。
「昨日までは、普通につないでた?」
「ああ」
「私からも?」
「よく、勝手に」
「勝手に?」
「俺が仕事の話をしていても、お構いなしだった」
「それは……ごめんなさい」
「謝るところじゃない」
レオンの声が少しだけ震えた。
私は握る力を強くした。
「じゃあ、今日はこれで覚えます」
「何を?」
「あなたの手」
レオンは、今度こそしっかりと握り返してくれた。
私は屋敷に入るぎりぎりまで、その手を離さなかった。
◇
六日目の朝。
枕元に、私の字で書かれた紙があった。
『レオン・アルフォード』
『婚約者』
『十一年前に出会った』
『木彫りの鳥をくれた』
『紅茶には砂糖を入れない』
『怒ると黙る』
『意外と嫉妬深い』
『私のことを大切にしてくれている』
最後の一行だけ、何度も書き直した跡があった。
『私は、この人が大好き』
でも、顔が思い浮かばない。
扉がノックされた。
「エリナ。入っていいか?」
「……レオン?」
「ああ」
扉が開く。
金色の髪に、青い瞳。
知らない。
本当に、知らない人だった。
「あなたが、レオン?」
「ああ」
「私の婚約者?」
「そうだ」
紙を見せる。
「私、あなたのことが大好きだったみたい」
レオンは一度唇を噛み、それから目を伏せた。
「……そうらしい」
「自分で言わないんですね」
「俺が言ったら信用しないだろ」
「確かに」
私が笑うと、彼も少し遅れて笑った。
知らない人なのに、その笑顔を見ると胸の奥が軽くなった。
「昨日の私は、あなたと何をしましたか?」
「手をつないだ」
「それだけ?」
「屋敷の前まで、ずっと」
「それで、あなたはうれしかった?」
「うれしかった」
即答だった。
知らない男性にそんな顔をさせた昨日の自分が、少しうらやましい。
「今日の私は、まだ手をつなぎたいとは思えません」
「分かってる」
「傷つきました?」
「少しな」
そこで平気なふりをしないところが、意外だった。
「明日は、もっと傷つけるかもしれません」
「それでも来る」
彼が帰ったあと、ノートへ一行書き足した。
『この人は、強いのではなく、怖くても逃げない人』
◇
七日目。
最後の記憶が消えた。
レオンという名前すら、私の中からなくなった。
机の上には、不格好な木彫りの鳥。
左手には婚約指輪。
そして『大切な人について』と書かれたノート。
けれど、私は開かなかった。
会う前から、昨日までの私が出した答えに従いたくなかった。
たとえ、その答えが間違っていなかったとしても。
今の私は、今の私の目で彼を見たかった。
昼過ぎ、レオン・アルフォードという男性が訪ねてきた。
「初めまして」
「初めまして」
「レオン・アルフォードと申します。昨日まで、あなたの婚約者として接していました」
「……昨日まで?」
「七日前、俺は婚約を解消しないと言った」
「では、どうして?」
「あの婚約は、俺を知っていたあなたが選んでくれたものだから」
彼は私の指輪を見る。
「今のあなたは俺を知らない。その約束だけで、あなたを縛りたくない」
「……」
「両家には、婚約をいったん白紙に戻したいと申し入れた。正式な手続きは、あなたの意思を聞いてからにする。でも、俺は諦めるつもりはない」
レオンが手を差し出した。
「今のあなたに、改めて俺を知ってもらいたい。まずは、友人になってくれませんか?」
ずいぶん勝手な人だ。
けれど、差し出された手から逃げたいとは思わなかった。
私はその手を取った。
「はい」
初めて触れたはずなのに、指先が触れた瞬間、なぜか泣きたくなった。
◇
友人になった翌日、レオンは昨日と同じ時刻にやって来た。
「今日は何をするんですか?」
「あなたが決めてください」
私を以前の私と同じ場所へ連れていくのだと思っていた。
けれどレオンが選んだのは、屋敷の庭だった。
「遠出しなくていいんですか?」
「今日は、あなたが好きな花を教えてほしい」
「昔の私が好きだった花ではなく?」
「今のあなたが好きな花を」
以前の私を取り戻そうとするのではなく、今の私を知ろうとしている。
そのことが、少しうれしかった。
私は庭を一周し、白い小花の前で足を止めた。
「これが好きです」
「名前は?」
「知りません」
「知らない花を選んだのか?」
「名前で好きになるわけではないでしょう」
レオンは笑い、庭師に花の名前を尋ねた。
翌週、同じ花を使った小さな花束が届いた。
以前の私がもらったことのない、今の私だけの贈り物だった。
◇
二週間後、侍女を伴って初めて二人で街へ出た。
レオンが昔の話をしようとするたび、私は身構えてしまう。
過去の私と比べられる気がしたからだ。
けれど彼が教えたのは、私のことではなかった。
警備隊で失敗したこと。子供の頃、犬が怖かったこと。甘いものが苦手なくせに、果実の焼き菓子だけは食べられること。
「どうしてあなたの失敗ばかり教えるんですか?」
「格好をつけても、いずれ知られる」
「以前の私にも話しました?」
「犬のことは隠していた」
「では、私のほうが先に知ったんですね」
「そうなるな」
以前の私が知らないレオンを、今の私だけが知っている。
それが少しうれしかった。
例の菓子店で、レオンは果実の焼き菓子を一つだけ買った。
半分に割り、大きいほうを私へ渡す。
「前もそうしていました?」
「前は二つ買わされた」
「では、今日は一つでいいです」
「遠慮してるのか?」
「半分にしたほうが、同じものを食べられるでしょう」
レオンは返事をせず、焼き菓子を口に入れた。
けれど、耳が赤くなっていた。
◇
一か月後、王宮から夜会の招待状が届いた。
呪いをかけた犯人は、数日前に捕らえられていた。
アルフォード侯爵家の遠縁で、屋敷に出入りしていた令嬢が、レオンとの縁談を望んで禁じられた魔道具を使ったのだという。
私の手首に残っていた針から魔力をたどり、術者を突き止めたらしい。
けれど、犯人を捕らえても私の記憶は戻らなかった。
失われたものを取り戻す術がないことも、改めて確認されただけだった。
父は出席に反対したが、私は行くことを選んだ。
閉じこもっていれば、犯人ではなく呪いに人生を決められたままになる。
ただし、レオンには知らせなかった。侍女と護衛を連れているのだから問題ないと、自分に言い聞かせた。
会場へ入って間もなく、背後から低い声がした。
「どうしてここにいる」
振り返ると、正装したレオンが立っていた。
怒っている。ノートに書かれていたとおり、怒ると口数が減るらしい。
「招待されたからです」
「そういう意味じゃない」
「では、どんな意味ですか?」
「ここで呪いを受けたんだぞ」
「知っています」
「同じ魔道具が残っていないとは限らない」
「警備が強化されたことも聞きました」
「なら――」
「私は、あなたに守られるためだけの人ではありません」
レオンが黙った。
言いすぎたと思ったけれど、謝りたくはなかった。
「以前の私なら、あなたの言うことを聞きましたか?」
「聞くわけがない」
「でしょうね」
「だが、以前のあなたなら一人では来なかった」
返す言葉がなかった。
「俺に頼れと言ってるんじゃない。一緒に考えさせてほしい」
レオンは私を閉じ込めたいのではなく、失うのが怖かっただけなのだ。
「……次からは話します」
「次があっても困る」
そう言いながら、彼は手を差し出した。
「踊ってくれますか?」
胸の奥が跳ねた。
この場所で以前の私は、彼と最後の踊りを踊った。
けれど今から始まるのは、今の私にとって最初の一曲だ。
「はい」
差し出された手に自分の手を重ねた。
レオンは私の歩幅に合わせ、決して急がなかった。
踊り終えたとき、もう一曲と言い出したのは私だった。
◇
二か月後、雨に降られて庭の東屋へ逃げ込んだ。
レオンは自分の上着を私の肩へ掛けた。
「あなたも濡れているでしょう」
「俺は平気だ」
「そういうところは嫌いです」
「どこが?」
「自分だけ我慢すればいいと思っているところ」
上着を半分返し、二人の肩へ無理やり掛けた。
自然と身体が近づく。
レオンの手が動き、けれど私へ触れる前に止まった。
「どうしました?」
「髪に葉がついてる」
「取ってください」
「触っていいのか?」
「そのくらい、いちいち聞かなくても」
「前に、手を避けられたことがある」
それは呪いが完成する二日前の私だ。
レオンにとっては、まだ終わっていない傷なのだろう。
私は彼の手を取り、自分の頬へ触れさせた。
「今の私は、避けません」
レオンの指が震えた。
頬に触れているだけなのに、息が苦しくなるほど胸が鳴る。
この人を好きになりかけている。
そう気づいた途端、怖くなった。
それが私自身の気持ちなのか、身体に残った過去の名残なのか、分からなかったから。
私は答えを出せないまま、彼の手を離した。
レオンは理由を尋ねなかった。
ただ、雨がやむまで隣にいてくれた。
◇
三か月後。
「レオン」
「ん?」
「明日、暇?」
「午後なら」
「じゃあ街に行きたい。あのお店にも行きたい」
「焼き菓子の?」
「そう」
「先週も行っただろ」
「おいしかったからいいじゃない」
レオンが呆れたように笑った。
彼と会うようになってから、一度だけノートを開いた。
そこには、以前の私が知っていたレオンがいた。
けれど今は、もう読んでいない。
私が知った今のレオンを、私自身の記憶で好きになりたかったから。
「ねえ、レオン。手、貸して」
「何に使うんだ?」
「いいから」
差し出された手を握った。
「どうした?」
「別に」
「別に、で手を握るのか?」
「嫌なら離しますけど」
「嫌とは言ってない」
離そうとした手を、今度はレオンが握り直した。
「私たち、前もこうしてた?」
「してた」
「よく?」
「ああ」
「そっか」
この手を初めて握った日も、好きだと言われた日も、抱きしめてもらった日も覚えていない。
全部なくなった。
それでも今、この手を離したくない。
「レオン」
「なんだ?」
「私、あなたが好き」
握られていた手が止まった。
レオンは何も言わない。
「聞こえませんでした?」
「聞こえた」
「では、返事は?」
「少し待ってくれ」
「どうして?」
「今、たぶん、ひどい顔をしてる」
レオンは空いている手で目元を覆った。
その耳が真っ赤になっている。
「泣いているんですか?」
「見ないでくれ」
「嫌です。私だけたくさん泣いたんですから」
覆っていた手をつかんで下ろすと、レオンは困ったように笑った。
「俺も好きだ。もう一度、俺を選んでくれてありがとう」
「お礼を言うところですか?」
「言わせてくれ」
「仕方ないですね」
私たちは、手をつないだまま次に会う日を決めた。
「三日後、忘れないでくださいね」
「忘れるわけないだろ」
その言葉がおかしくて、私は笑った。
レオンも、今度は泣きながら笑った。
失った十一年は戻らない。
それでも私は、もう一度この人を好きになった。
今度は、誰かに教えられた思い出ではなく、私自身の心で。
私は、つないだ手を離さなかった。
――完――




