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第9話:果たされた約束

——五年の月日が流れた。


時間は傷跡を消し去りはしない。だが、それは傷跡を光り輝くまで磨き上げる、不思議な力を持っている。橘総合病院は今もそこに立ち、高校の桜は変わらず咲き誇り、市立墓地には今日も風が吹き抜けていく。

 けれど、人間は違う。人間とは、決して同じ場所を二度流れることのない河のようなものだ。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


【星野 圭の結末 】

とある高校の廊下に、凛とした、それでいて気品のある足音が響いていた。それは恐怖ではなく、自然な敬意によって周囲を沈黙させる響きだった。


星野ほしの けい、十六歳。

 彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばして歩いていた。着こなした制服に乱れはなく、左腕には生徒会長の腕章が誇らしげに輝いている。かつて薄暗い部屋で、布団にくるまりながら息を切らしていた青白い少女の面影はどこにもない。今の彼女の肌には健康的な輝きがあり、その瞳には強い意志が宿っていた。


多くの生徒にとって、それは単なる登校風景に過ぎない。

 だが、圭にとって、この場所はそれ以上の意味を持っていた。


廊下を歩けば、生徒たちが自然と道をあけ、敬意を込めて声をかけてくる。


「おはようございます、星野会長」


「会長、文化祭の報告書がまとまりました」


「あの、星野先輩! あとでこれを確認していただけませんか?」


圭はその一人ひとりに、穏やかな微笑みと軽い会釈で応えていく。


「ええ、生徒会室に置いておいてちょうだい」


「お疲れ様。よくやってくれたわね」


「知らせてくれてありがとう。助かるわ」


その立ち振る舞いには、かつて学校よりも病院で過ごす時間の方が長かった、あの儚げな少女の面影は微塵もなかった。

 以前よりも長くなった黒髪が、歩みに合わせてしなやかに揺れる。その瞳には、かつては存在しなかった確かな自信が宿っていた。


中庭へと向かう途中、彼女の目は階段下の薄暗い隅っこで止まった。そこには、一人で座り込む一年生の男子生徒がいた。乱れた髪に、眠れぬ夜を物語る深いくま。その眼差しは、世界に対する静かな憤りに満ちていた。彼は震える指先で、わずかな小銭を数えていた。


けいは足を止めた。一瞬、時が凍りついた。

 彼女の目には、その少年ではなく——数年前の兄、れんの姿が映っていた。自分のものではない病を背負い、青春を奪う貧しさに耐えていた、あの頃の兄の姿が。


「お兄ちゃん……」


自分にしか聞こえない声で呟くと、彼女は少年に歩み寄った。


「ねえ」


少年は、攻撃的な視線を向けた。


「……なんだよ、会長。別に悪いことしてねーだろ。ほっといてくれよ」


圭は怯まなかった。スカートが地面につくのも構わず、彼と同じ目線になるまで腰を下ろした。


「その目……すごく重たいわよね。……そうでしょ?」


彼女は、悲しげでありながらも安らぎを与えるような微笑みを浮かべて問いかけた。


「目を閉じれば、今にもすべてが崩れ去ってしまいそうな……そんな気がしているのね。正義への渇望と、明日のパンへの飢え……その両方を抱える苦しみなんて、誰にも分かりはしないって」


少年は絶句した。その言葉のあまりの鋭さに、心の武装を剥ぎ取られたのだ。


「……あんたに何がわかるんだよ。あんたは、全部持ってるくせに」


「私がすべてを手にしているのはね……自分の命よりも私に価値があると信じてくれた人がいたからよ」


けいは少年の肩に手を置いた。温かく、そして力強い手だった。


「数年前、私の兄も同じ痛みを抱えて、この廊下を歩いていたわ。そして、兄と同じくらい強情な一人の少女が、兄を独りにはさせなかった。だから今日、私はあなたを独りにはさせない。放課後、生徒会室に来なさい。お金はあげられないけれど、『機会』ならあげられるわ」


去りゆく彼女の背中を、少年は呆然と見送っていた。長い間忘れていた、ある感情——「希望」を噛み締めながら。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


日が暮れ始め、ビルの影が街路に長く伸びる頃。圭は友人たちと遊びに行くことも、図書館で居残ることもせず、静かな足取りで街の外れへと向かっていた。喧騒が消え、糸杉のざわめきが聞こえてくる場所へ。


彼女は市立墓地の鉄門の前で足を止めた。

 何度も通い、暗記してしまった砂利道を抜け、二つの灰色の墓石の前へと辿り着く。かつての荒れ果てた姿はもうない。夕日に照らされた大理石は磨き上げられ、彼女やれんが毎週欠かさず供える花が、鮮やかに彩を添えていた。


白い花束を抱え、けいは穏やかな微笑みを浮かべて墓石を見つめた。


今の彼女は制服を纏ってはいない。

 今日の彼女は、生徒会長でもなければ、誰かの期待を背負った象徴でもない。

 ただの、一人の「圭」だった。


「お父さん、お母さん……見て」


その声はわずかに震えていたが、確かな誇りに満ちていた。


「私はもう、泣いて謝ることしかできなかったあの頃の子供じゃないよ。れんお兄ちゃんが泥の中を引きずって歩かなきゃいけなかった『重荷』でもない」


白い花を供え、圭はその場に膝をついた。崩れ落ちるためではない。ただ、彼らのそばに寄り添うために。


「お兄ちゃんは約束を守ってくれた。私に『命』をくれたの。そしてりんさんは……私に『目的』をくれた」


愛おしそうに、指先で冷たい石に触れる。


「だから……私のことは心配しないで」


声はさらに優しく、溶けるように響く。


「お兄ちゃんは、約束を……全部果たしたんだよ」


彼女が空を仰ぐと、そこにはすべてを等しく茜色に染め上げる、美しい夕焼けが広がっていた。


「私は、幸せだよ」


ふっと間を置いて、彼女は小さく、いたずらっぽく笑った。


「お兄ちゃんは相変わらず私のことを心配しすぎてるけど。本当に、バカなお兄ちゃん……。でも、そんなところも大好きだよ」


彼女はゆっくりと立ち上がり、スカートについた土を軽く払った。

 去り際、墓前で深く、丁寧な一礼を捧げる。


「私たちのことは心配しないで。星野家は、もう大丈夫。お兄ちゃんは、ようやく心から笑えるようになった。そして私は……私自身の運命のあるじになれたから。また来るね。……大好きだよ」


彼女は背を向け、砂利道を歩き始めた。一度だけ茜色の空を仰ぎ、墓地の門を出る。その時、彼女は決して後ろを振り返らなかった。

 その視線はただ、ひたすらに地平線を見つめていた。兄がその血と汗、そして自らの「臓器からだ」を削ってまで買い与えてくれた、輝かしい未来を。


そして数年という長い闘いを経て……。

 死と隣り合わせだった少女は今、ようやく、ただ「生きて」いた。


(星野 圭 完)


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


【橘 昭彦の結末 】


橘総合病院の院長室は、紙が擦れるわずかな音だけが響く、死寂しじゃくとした静寂に包まれていた。

 デスクランプの明かりだけが部屋の一角を照らし、それ以外は穏やかな闇に沈んでいる。窓の向こうでは街の灯りがともり始め、遠くの喧騒がかすかに、そして静かに室内に届いていた。


髪に銀色の筋が混じるようになったたちばな 昭彦あきひこは、古いファイルが詰まった箱を閉じ、深くため息をついた。かつて数百人の命を救ってきたその手が、一冊の黄ばんだファイルの上で止まった。


『患者:星野 蓮。処置:腎摘出術ドナー


昭彦は数秒間、その文字をじっと見つめていた。そしてゆっくりとページをめくる。五年前の適合検査の結果を目にした時、その口元に、本人にしか分からないような微かな微笑みが浮かんだ。

 泥にまみれ、服を破き、絶望的な怒りに燃えた瞳をしていたあの少年を思い出したのだ。蓮が昏睡状態に陥った時のこと、そして医学的な常識を覆して、彼が自らの意志で戻ってきた瞬間のことを。


「執念……か」


昭彦あきひこは微かな笑みを浮かべ、独り言のように呟いた。


「医学が一生、数値化できない唯一の変数か……」


そして最後の一ページを読み終えると、そこにはこう記されていた。

『生体ドナー』。


医師は静かに、そして長い吐息を漏らした。あれから五年が過ぎた。

 だが、あの日のことは今も、残酷なほど鮮明に記憶に刻まれている。

 彼はファイルを閉じ、『完了済み案件』と書かれた箱に収めた。彼にとって、星野 れんは単なる一人の患者ではなかった。人間の心というものは、メスの鋼鉄よりも遥かに強靭きょうじんであり得るのだと、彼に教えた少年だった。


昭彦はデスクに肘をつき、口の前で指を組んだ。


「……結局、私にはまだ分からないよ。君のあの執念が、一体どこから湧き出していたのか。……星野 蓮」


長いキャリアの中で、彼は何千人もの患者を執刀してきた。恐怖も、絶望も、そのすべてを見てきた。

 誰もが必死に「二度目のチャンス」を乞う、その姿を見てきた。


だが、あの少年だけは違った。

 あの少年だけは……死の入り口であるはずの手術室に、**「笑って」**入っていったのだから。


昭彦あきひこは思考を打ち切り、デスクの上に置かれた写真立てに視線を移した。そこには、まだ幼い頃のりんが写っていた。誰かの温もりを知る前の、あの冷たく、険しい眼差しをした少女が。


昭彦の鼻から、小さく笑みが漏れた。


「医者になると言っていたお前が……今、誰よりもその場所に近づいているんだな」


愛おしそうに、指先で写真のフレームをなぞる。

 その時、廊下から凛とした、優雅なヒールの音が響いてきた。前触れもなくドアが開くと、そこには気品あふれる一人の女性が立っていた。深い紺青こんじょうのシルクのドレスを纏い、控えめながらも確かな輝きを放つ宝石を身につけて。


「まだこんな書類の洞穴ほらあなに引きこもっているの、昭彦?」


その声は、優雅でいて落ち着き払っていた。凛の母——橘夫人が、多国籍企業を束ねる者特有の圧倒的なオーラを漂わせながら入室してきたのだ。彼女は手袋を整えながら、眉をひそめて夫を見つめた。


昭彦はただ、苦笑いを浮かべた。


「……少し、昔の資料を確認していただけだよ」


彼女は腕を組み、面白そうにわずかな笑みを浮かべた。


「昭彦……今日という日に遅刻するなんて、考えていないわよね? あなたの医師としての正確さが、本当に試されるのは今日という日よ。……まさか、自分の娘を結婚式で待たせるつもりじゃないでしょうね?」


医師は一瞬だけ沈黙し、再びりんの写真に目を落としてから、静かに微笑んだ。

 昭彦はゆっくりと立ち上がり、一点の曇りもない黒のタキシードを整えた。


「もちろんだよ、お前」

 彼は妻の方へ歩み寄りながら答えた。

「ただ……過去がしかるべき場所に仕舞われているか、確かめていただけだよ」


夫人はファイルが入った箱を一瞥し、それから夫を見つめる眼差しを少しだけ和らげた。


「あの少年……凛が選んだ彼。結局、私の予想を遥かに超えるしぶとさを見せてくれたわね。正直、感心しているわ」


「彼は星野家の人間だが、ただの男じゃない……」

 昭彦は妻に腕を差し出しながら言った。

「……諦め方を知らない男なんだ」


二人は院長室を後にした。昭彦が明かりを消すと、部屋は深い静寂と闇に包まれた。もう診るべき患者も、取り立てるべき命の負債もない。今日、橘 昭彦が向かうのは執刀室ではない。自らの最も大切な宝物を、それを受け取るに相応しいと証明した唯一の男へと託すためだ。


そして数年ぶりに、橘 昭彦は一度も振り返ることなく病院を去った。


(橘 昭彦 完)


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


【星野 蓮と橘 凛の結末 】


控室は、静まり返っていた。

 れんは姿見の中に映る自分を見つめた。漆黒のタキシードは、もはや「生存」の重圧ではなく、「責任」という重みを背負った彼の肩に完璧に馴染んでいた。彼はゆっくりとした指つきでシャツの上のボタンを外し、生地を少しだけ下げた。


そこには、一本の青白い線があった。彼の脇腹を横切る、あの時の傷跡だ。


それは約束の証であり、犠牲の証。自らの命と引き換えに刻んだ記憶。

 蓮は一秒だけ、その傷跡を指先でなぞった。


(五年前、俺の唯一の目標は明日まで生き延びることだった……。でも、今の俺の目標は、彼女を一生幸せにすることだ)


そして彼は笑った。そこには苦悶も、過剰な誇りもない。

 ただ、かつての彼には決して存在しなかった「安らぎ」だけがあった。

 五年前……。

 毎日が世界との、過去との、そして自分自身との戦いだった。

 けれど……今日は違う。

 ネクタイを整え終え、彼は再び鏡に視線を戻した。

 その時、ドアが開き、けいが入ってきた。ブライズメイドのドレスを纏った彼女は、眩いばかりに輝いていた。兄の姿を見た瞬間、彼女の瞳が潤んだ。


「お兄ちゃん……。なんだか……今日だけは、まともな人間に見えるよ」


彼女は冗談めかして言ったが、その声は震えていた。彼女は兄に歩み寄り、力いっぱい抱きしめた。


「あの夜、諦めないでくれてありがとう。手術を乗り越えてくれて……そして、りんお姉ちゃんに救われてくれて、ありがとう。お兄ちゃんがあんなに強情じゃなかったら、私たちは今日、ここにいられなかった」


れんは微笑み、妹の髪を優しく撫でた。


「言っただろ、けい。お前を一人残して逝けるわけがない。……さあ、行こう。遅刻して凛に首をはねられたくないからな」


地獄を共に潜り抜け、ようやくここまで辿り着いた二人の抱擁だった。


「……お兄ちゃんのこと、誇りに思うよ」

 圭が小さく呟いた。

 蓮は一瞬、動きを止めた。


「……チッ」


 彼は低く舌打ちをした。

「生徒会長ともあろう者が、結婚式の前に泣き顔を見せるもんじゃないぞ」


圭はすぐさま身体を離した。


「泣いてなんかないし!」


 そう言って、素早く目元を拭う。

 蓮は短く笑い声を上げ、兄にしか出せない優しい声で言った。


「……自分を大事にするんだぞ、いいな?」


圭は即座に首を横に振った。


「そのセリフ、もう私には通用しないから」


 彼女は兄を指差し、不敵に笑い返した。


「これからは、お兄ちゃんこそ自分のことを大事にする番なんだからね」


れんは片眉を上げた。

「へえ、そうか?」


けいはいたずらっぽく微笑んだ。


「当然でしょ」


 彼女は腕を組み、勝ち誇ったように言った。


「だってお兄ちゃんにはこれから一生、小言を言ってくれる『危険な女医さん』がついてるんだから」


蓮は諦めたように、深くため息をついた。


「……俺の人生、詰んだな」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


教会は、多くの参列者で埋め尽くされていた。


 夕暮れの光がステンドグラスを通り抜け、堂内を赤、金、そして青の柔らかな色彩で染め上げている。親族、病院の医師たち、かつての同級生、そして親しい友人たちが木製のベンチに腰を下ろしていた。穏やかなざわめきが場を満たしている。それは、多くの人々が「大切な瞬間」を待ちわびている時にだけ流れる、独特の静かな熱気だった。


祭壇の前、星野 蓮は一人、真っ直ぐに立っていた。

 その時、突然、結婚行進曲が鳴り響いた。教会の重厚な扉が開かれた瞬間、蓮は世界の時間が止まったような錯覚に陥った。


たちばな りんが、彼に向かって歩いてくる。


 かつて冷徹な声で宿題を求めてきた、あの少女の面影はない。そこにいたのは、自分には到底相応しくないと思えるほどの、眩い光を放つ一人の女性だった。


床まで優雅に流れる純白のドレスは、シンプルでありながら息を呑むほどに美しかった。その生地は、まるで空の輝きそのもので織り上げられたかのように、夕暮れの光をその身に宿している。


 丁寧にまとめられた黒髪から、数筋の柔らかな毛束が彼女の頬をなでるように垂れていた。


 けれど、れんを本当に釘付けにしたのは……彼女の瞳だった。


かつて教室で、挑戦的な眼差しを向けてきたあの冷たい瞳。


 彼自身が自分を諦めようとした時、決して見捨てようとしなかったあの瞳。


 今、その瞳はかつてとは全く違う、純粋な「愛」の色を湛えて彼を見つめていた。


祭壇に辿り着くと、たちばな 昭彦あきひこは娘の手を取った。彼は蓮の目を真っ直ぐに見つめた。そこには五年前、彼を脅した男の面影は微塵もなかった。ただ、力強い握手と、蓮にしか聞こえない微かな囁きだけがあった。


「私の最大の宝を、君に託すよ。星野 蓮。……私を後悔させないでくれ」


蓮は揺るぎない覚悟を込めて頷いた。


「この命に代えても。昭彦さん」


医師は満足げに頷き、一歩後ろに下がった。


 式が始まる。


 神父は語り始めた。献身について。約束について。そして、残りの人生を共に歩める誰かに出会うという、奇跡のような巡り合わせについて。


けれど、れんりんにとって……。

 周囲の喧騒は遠い世界の出来事のようだった。二人はただ、互いだけを見つめていた。そしてついに、誓いの時が訪れる。


凛は、かつてないほど人間味を感じさせる赤らんだ顔で、神父の前に立つ直前に彼の耳元へ寄せた。


「星野 蓮……逃げ出すなら、今が最後のチャンスよ」


悪戯っぽく、彼女は囁いた。蓮は瞬き一つしなかった。


「……ここまで来るのに、どれだけの地獄を潜り抜けたと思ってる。死んでも逃げないさ」


凛は微笑み、その瞳を輝かせた。


「五年前、私とした約束……覚えてる?」


蓮は片眉を上げた。


「……どの約束のことだ?」


凛は不満げに眉をひそめた。


「……バカ」


そして、ふっと溜息をつく。


「『愛し方を学ぶ』って、約束したじゃない」


彼女の唇に、小さな笑みが浮かんだ。


「この『契約』を、あなたの最終授業だと思いなさい」


彼女はわずかに彼の方へと身を乗り出した。


「返品は、一切受け付けないから」


「……この五年間、ずっと学び続けてきたつもりだけどな」


蓮は答え、彼女の手を優しく包み込んだ。


「……どうやら、その授業を終えるには、あと一生分くらいの時間が必要になりそうだ。だが、凛……俺とも一つ、約束してくれ。もう二度と、一人で世界を救おうなんてしないでくれ」


凛は数秒間沈黙し、真っ赤になった頬を隠すように呟いた。


「……いいわよ。でも、あなたが二度と私を一人にしないって……そう、約束してくれるなら」


「ああ……約束する」


神父が、穏やかに声を上げた。

「異議がなければ……」


短い沈黙の後、彼は宣言した。


「ここに、二人を夫婦めおとであることを宣言します。……花婿、花嫁に接吻を」


れんは彼女の腰を抱き寄せ、唇を重ねた。それは映画のような華やかなものではなかった。五年間の闘い、病院で過ごした孤独な夜、そして共に机を並べた朝の記憶……そのすべてが込められた、重みのある接吻だった。


教会内は割れんばかりの拍手に包まれた。参列者の中には、誇らしげに微笑みながら拍手を送るたちばな医師と、その隣で優雅に微笑む夫人の姿があった。

 数列後ろの席では……。

 星野 けいが、両親の写真を収めた小さなフォトフレームを抱きしめていた。その瞳は潤んでいたが、口元には安らかな笑みが浮かんでいた。

 もし両親がここにいたら、きっと誰よりも強く拍手していただろうと、彼女には分かっていたから。


蓮とりんは、ゆっくりと顔を離した。

 二人は今、夫婦めおとになったのだ。


舞い散る花吹雪の中、バージンロードを歩みながら、蓮は彼女の方へ身を寄せた。


「凛……『バカで変な奴』を選んでくれて、ありがとう」


凛はそっと、彼の肩に頭を預けた。


「変な奴だから選んだんじゃないわよ」

 彼女は囁くように言い、それから付け加えた。

「……私が持っている『もの』ではなく、私という『人間』を……ただ一人、見てくれたのがあなただったからよ」


二人は手を取り合い、教会の出口へと向かった。

 扉の向こうでは、輝かしい夕暮れの光が二人を待っている。

 かつて世界によって壊された二人の魂は、今……。

 ようやく、新しい人生を歩み始めた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


人生とは時として、どれだけ良いカードを持っているかではなく、たった一人のために、持てるすべてを賭けられるかどうかで決まる。

 星野 蓮は、ナイフを手にし、壊れた心を持ってこの物語に現れた。橘 凛は、溢れるほどの富を手にし、空っぽの魂を持って現れた。

 けれど最後には、二人とも気づいたのだ。本当の豊かさとは、金でも権力でもなく、二人が共有する「傷跡」の中にあったのだと。

 『バカな変人』と『ツンデレなお嬢様』は、ようやく自分の帰るべき場所を見つけた。……それは、お互いの心の中という名の「家」だった。


以上をもちまして、全九話にわたる長い旅路は幕を閉じます。皆さんに楽しんでいただけたなら幸いです。正直に言って、この物語を執筆するのは本当に楽しい時間でした。


もしこの作品を気に入っていただけたなら、ぜひ応援や「お気に入り」登録をお願いします。それが何よりの励みになります。将来的にはエピローグや、今年中にいくつかの「特別編」を公開するかもしれません。その時はぜひチェックしてください。もしかしたら、物語を再構成して、新しい要素を加えた「完全版」として書き直す可能性もあります。


それでは、ひとまずはここで筆を置かせていただきます。九話にわたり、最後までお読みいただき本当にありがとうございました!


著者:零時卿より愛を込めて


—— 完 ——

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