第8話:僕の約束
瞬きをする間に、数ヶ月の月日が流れていった。秋は静かにその足音を忍ばせ、一年弱前には誰も想像できなかった「星野家」の姿を連れてきた。
色づいた木の葉が校庭に舞い落ちる中、生徒たちは笑い声と噂話を響かせながら歩いていく。多くの者にとって、それはありふれた一日に過ぎない。
だが、星野 蓮にとって、その「日常」はいまだにどこか不思議なものだった。
手術から、すでに数ヶ月が経過していた。
彼はもう、あの油まみれのレストランで働くことはなかった。橘医師の——少々強引な——推薦のおかげで、今は市立図書館の助手として働いている。静かで、品位のあるその仕事は、働きながら勉強することを可能にした。
その成果は結実した。学術優秀奨学金の通知書が、今、ダイニングテーブルの上に置かれている。蓮が大学へ進むにあたって、金銭という壁はもう、乗り越えられないものではなくなっていた。
そして今……彼は教室の席に座っている。
まるであの日からずっとそうであったかのように、隣には橘 凛がいた。
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「……したがって、この方程式を正しく解けば、答えはこのようになります」
教師が黒板に数式を書き終えたが、蓮は五分も前にそれを解き終えていた。
凛が横目で彼を盗み見る。
「ねえ」
彼女は囁くように声をかけた。
「また、誰よりも早く終わらせちゃったの?」
蓮は軽く肩をすくめた。
「そんなに難しくないからな」
凛は不機嫌そうに眉をひそめた。
「バカ。私の前で天才ぶるの、やめてくれない?」
蓮は微かに口角を上げたが、教室の後方からはひそひそという話し声が聞こえてきた。
噂というものは、決して消えることはない。
「……あの橘家の令嬢と付き合ってる、貧乏人の特待生だろ」
「一緒に住んでるらしいぜ」
「どうせ金目当てだろ、あいつ」
以前の蓮なら、そんな言葉に心を切り刻まれていただろう。
だが、今は……。
どうでもよかった。
隣を見れば、退屈そうに頬杖をつく凛がいる。
それだけで、彼には十分すぎるほどだった。
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その頃、街の小学校では——。
**圭**が他の女の子たちと一緒に、校庭を元気に駆け回っていた。
二つ結びにした髪を揺らし、その笑顔は周囲を照らすほどに明るい。
「**圭**ちゃん! 一緒に遊ぼう!」
「今行くよーっ!」
数年ぶりに、星野 圭は「普通の子供」としての時間を過ごしていた。
病院も、薬も、そして何より……「死」への恐怖もない。そんな当たり前の幸せの中に、彼女はいた。
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その日の放課後、街は燃えるような茜色の夕日に染まっていた。二人は数冊の本を抱え、蓮の家へと向かって歩いていた。
「ねえ、蓮……」
蓮がわずかに首をかしげて応じる。
「ん?」
凛は自分の髪の毛先を指で弄びながら、横目で彼を盗み見た。
「**圭**から連絡があったわ。今日、友達の家でお泊り会なんですって。課題を終わらせるから、明日の朝まで帰らないそうよ」
蓮は驚いたように瞬きをしたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。
「へえ、そりゃいいな。やっと普通の女の子らしく友達付き合いができるようになったんだ。……良かったよ、本当に」
凛は黙り込み、苛立ちを隠すように深いため息をついた。
(……この、大バカ。……鈍感すぎるのよ)
二人はそのまま数メートル歩き、玄関に辿り着いた。
家に入ると、蓮はいつものようにテーブルに鍵を置いた。だが、「疲れた」と口にするよりも早く、背後でカチャリという金属音が響いた。
凛がドアを閉めただけではない。彼女は静かに、内側から鍵をかけたのだ。
「凛? なんで鍵まで……」
蓮が言い終える前に、凛は彼をドアへと押しつけ、その両腕で逃げ場を奪った。かつての冷ややかさは消え、その瞳には獲物を狙うような、熱く、鋭い光が宿っている。蓮は喉の乾きを感じ、息を呑んだ。
「ねえ、蓮」
彼女が低く、囁くような声で言った。
「手術の前にあんたが言ったこと、覚えてる?」
「え……?」
「自分は……『愛される』っていうのがどういうことか、分からないって」
彼女の唇が、蓮の耳元にまで近づく。
「そして、あの手術室に入る前、私と約束したわよね……」
蓮は強烈な目まいに襲われた。病院での記憶が、奔流のように脳裏に蘇る。あのキス……あの約束……そして、交わした「契約」。血の気が引き、顔が青ざめていくのが自分でも分かった。
「お、俺……。お前、忘れてるんだとばかり……っ」
「私は自分の貸しは忘れないわよ、蓮。……そして今日。あんたには、たっぷり『利息』をつけて返してもらうから」
蓮に反応する隙さえ与えず、凛は彼をソファへと引きずり倒した。そのまま彼の上に跨がり、逃げ場を完全に塞ぐ。
蓮は完全に硬直し、その頬は瞬く間に林檎のように赤く染まった。
「ま、待て……っ。凛、俺たちはまだ若いし、自制心ってものが……」
言いかけた言葉は、凛が彼の唇にそっと置いた人差し指によって遮られた。
「しーっ」
彼女が耳元で囁く。
「……観念しなさい」
蓮は目を見開いた。人生で初めて、彼は「手遅れ」という言葉の意味を、身をもって理解したのだ。凛の唇に、征服者のような笑みが浮かぶ。
「約束を忘れてたこと、たっぷり後悔させてあげるわ」
迷うことなく、彼女は蓮に口づけた。それは理性を一瞬で奪い去るような、独占欲に満ちた激しいキスだった。
蓮は、考えるのをやめた。
責任感の強い「兄」であることも、「特待生」であることも、「生き残り」であることも一度捨てた。ただの十七歳の少年に戻り、自分を闇から救い出してくれた少女を、ただひたすらに愛した。
地平線の向こうへと太陽がゆっくりと沈んでいく中。
橘 凛は、彼女らしく、不器用で、そして何よりも幸せな方法で、その約束を回収したのだった。
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翌朝が訪れるのは、あまりにも早すぎた。
朝の光がソファを照らし、そこでは二人の体が、辛うじて彼らを覆う毛布の下で重なり合っていた。蓮は瞳を開け、胸元に感じる温かな重みを感じた。そこには、乱れた髪をそのままに、至福の安らぎを浮かべた凛がいた。彼女には羞恥心など微塵も感じられない。
蓮は天井を見上げ、昨夜の出来事を反芻した。
(……なんで、こんなことに?)
自問自答してみるが、答えは明白すぎて言葉にするのも憚られた。
凛が目を覚まし、猫のようにしなやかに体を伸ばすと、蓮の頬にいたずらなキスを落とした。
「おはよう、私のお気に入り(おもちゃ)くん」
事も無げに、彼女は言った。
蓮は顔を片手で覆った。その顔は、熟れたトマトのように真っ赤に染まっている。
「凛……これは、その……」
「あんたの約束の支払いよ」
彼女はクスクスと笑い、彼の上で身を乗り出した。
「でも、勘違いしないで。これはまだ『第一回目』の支払いなんだから。完済するまでには、まだまだ時間がかかるわよ?」
蓮が呆然としながらも、わずかに微笑みを返そうとしたその時——。
玄関のドアが、勢いよく蹴破らんばかりに開け放たれた。
「お兄ちゃん! 凛お姉ちゃん! ただいまーっ! 朝ごはん買ってきたよ——」
入り口で、**圭**が石のように固まった。手にした袋が床に落ちる。
リビングのソファで、半裸の状態で絡み合う兄と「お姉ちゃん」の姿を目の当たりにし、彼女の瞳は皿のように見開かれた。
**圭**の手から袋が滑り落ち、中身が散らばる。彼女は凛と蓮を凝視した。
数秒後、その顔は熟れたトマトを通り越して、爆発しそうなほど真っ赤に染まった。
「ああああああああっ! この、発情期のついた動物どもめーーーっ!!」
思春期の少女は、両手で目を覆いながら絶叫した。
「私の純潔が! 私の目がぁ! 腐れっ、このエロ変態ども!!」
そう叫び捨てると、彼女は再び脱兎のごとく玄関から飛び出していった。
蓮は石化したように固まっていた。
「ま、待て、圭! 俺は別に発情なんてしてな……っ!」
追いかけようとしたが、無様に床に転がり落ち、顔を両手で覆って絶望に打ちひしがれた。
「殺してくれ……頼む、今すぐ殺してくれ……。誰か俺を消滅させてくれ……」
対照的に、凛は突き抜けるような高らかな笑い声を上げ、蓮をさらに強く抱き寄せた。
「次はあんたの部屋にしなきゃダメね、蓮」
蓮はただため息をつき、顔を赤らめたまま天井を見上げて、自嘲気味に笑った。
騒がしい日常が戻ってきたのだ。だが、この混沌とした日常こそ、あの病院の静寂よりも、数千倍も愛おしいものだった。
第8章の終わり
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皆さん、こんにちは。お待たせしました、第8話です!
少し公開まで時間が空いてしまいましたが(2時間ほどでしょうか、すみません!)、用事を済ませて急いで戻ってきました(笑)。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
今日は、皆さんに大切なお知らせがあります……。
次回の第9話をもって、この物語は「完結」となります。
「この作者、正気か?」
「あと一話で終わるなんて信じられない!」
「蓮と凛の恋はどうなっちゃうの?」
……そんな声が聞こえてきそうですが、実はこの物語、当初は「全3話」の予定で書き始めたものでした。それが皆さんの応援のおかげで、気づけば第9話まで書き進めることができました。本当に、信じられない思いです。
二人のこれからの関係や、**圭**の成長、星野家が直面するであろう新たな問題など、書きたいことはたくさんあります。ですが、私には一つのこだわりがありました。
それは、「作品の質を落とさないこと」です。
この物語は、どん底の「メランコリー(憂鬱)」から、希望に満ちた「愛」へと変わっていく姿を描くものでした。その核となる部分は、この8話までで描き切ることができたと感じています。無理に引き延ばして物語の純度を薄めるよりも、最高に輝いている状態で幕を引きたい……そう考え、完結の決断をしました。
ですが、約束します。
明日の日曜日、必ず皆さんに満足していただける「最高のグランドフィナーレ」をお届けします。
そして、これが彼らとの本当の別れになるかどうかは、皆さん次第です。
もし第8話と第9話にたくさんの反響をいただければ、特別編やエピローグという形で、彼らの「その後」を描く準備はできています。皆さんの熱量に、お答えしたいと思っています。
それでは。明日、この物語の最後でお会いしましょう!
著者:零時卿より




