第7話:ありふれた日常
アスファルトを叩く松葉杖の乾燥した音だけが、あの悪夢が現実であったことを思い出させていた。蓮は三歩進むごとに毒づきながら、覚束ない(おぼつかない)足取りで歩く。その左腕を凛が支え、背中を**圭**がそっと押していた。
「一人で歩けるって。マジで……」
「いいから黙って助けられなさいよ、このお荷物くん」
**圭**が勝ち誇ったような笑みを浮かべて言い放つ。
「それに、もしあんたが転んだりしたら、お父様に勘当されちゃうわ。せっかくの『最高傑作』の執刀手術が台無しになったってね」
凛もまた、弾むような声で言葉を重ねた。
「ピンクの車椅子にされなかっただけ感謝しなさい、お兄ちゃん」
「……それなら死んだほうがマシだった」
**圭**は嬉しさを抑えきれない様子で、小さく飛び跳ねた。
「でも、やっとお家に帰れるんだね、お兄ちゃん!」
「……お前こそ、移植手術を受けたばっかりなんだから跳ねるなよ」
「半分死んでた患者さんに言われたくないもんねー」
凛と**圭**は顔を見合わせると、楽しげにハイタッチを交わした。
「……回復は順調のようですね」
橘医師がカルテを閉じながら、静かに告げた。
「だが、理学療法は継続すること。無理な運動は厳禁だ。重い物を持つのも、走るのも、そして——ストレスも、だ」
凛が、どこか悪戯っぽい危険な笑みを医師に向けた。
「私と口喧嘩するのも、ストレスに含まれますか?」
医師は短く咳払いをした。
「……特に、それが一番の問題だろうな」
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星野家の玄関に辿り着いた時、蓮は思わず足を止めた。触れるたびにガタついていたドアノブは、もう踊ることはない。木材には新しくニスが塗られ、玄関先は完璧に整えられていた。
だが、家の中に足を踏み入れた時の衝撃は、それを遥かに上回るものだった。
壁のひび割れは全て塞がれ、温かみのあるクリーム色に塗り替えられている。あの古びたソファは姿を消し、簡素ながらも座り心地の良そうなものに新調されていた。そこには本物のダイニングテーブルがあり、そしてキッチンは……目も眩むほどに輝いていた。
「……一体、何が起きたんだ?」
**圭**は誇らしげに胸を張った。
「秘密のリフォームだよ!」
凛が腕を組み、口を開く。
「あんたが寝てる三ヶ月の間、いつまでも洞窟みたいな生活をするわけにいかないでしょ」
健康そうな赤みの差した頬で、**圭**が隣で跳ねる。
「カーテンは私が選ぶのを手伝ったんだよ、お兄ちゃん! 屋根を直してくれた人たちへのお金は、凛お姉ちゃんが払ってくれたの」
蓮は沈黙した。彼は凛を見つめたが、彼女は動揺を隠すように素早く視線を逸らした。この家はもう、悲惨さを閉じ込める檻ではない。そこにあるのは、確かな「家庭」だった。
「橘……。これはやりすぎだ。三回人生を繰り返したって、こんなの返せないぞ」
「誰も返してなんて言ってないでしょ、バカ」
彼女は蓮の額を指先で小突いた。
「三ヶ月も私を泣かせ続けた、その利息だと思えばいいわ」
蓮は、しばしの間何も言わなかった。
ただ、静かに松葉杖を立てかけ……。
深く、息を吸い込んだ。
「……ありがとう」
二人は沈黙に包まれた。
皮肉も混じえず、真っ直ぐに放たれた彼の感謝の言葉は、それほどまでに稀少で、重みがあった。
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それからの数週間、蓮にとって「極限の親切」という名の拷問が続いた。
水を飲もうと立ち上がろうものなら、松葉杖を手に取る前に**圭**がコップを持って現れる。何かを作ろうとすれば、「油の匂いは傷の治りに障る」という理屈で、凛にキッチンから叩き出される始末だった。
蓮は午後の大半をソファで過ごし、凛が軍隊の軍曹のごとき厳しさで監視するリハビリに励んでいた。
「もっと背筋を伸ばして、バカ」
「……年寄り扱いすんなよ」
「年寄りみたいな歩き方してるから言ってるの」
また、別の日には。
「あと五回脚を曲げて、蓮! 怠けない!」
隣で苺を頬張りながら、彼女が叱り飛ばす。
「腎臓の移植手術をしたんだぞ! エンジンの載せ替えじゃないんだ、この女……っ!」
抗議しながらも、結局は言われた通りにこなしてしまうのが蓮だった。
その間、**圭**は身体に優しい料理を作っていた。
「はい、お兄ちゃん! 塩分控えめ料理だよ!」
蓮は深くため息をついた。
「……もはや犯罪レベルの薄味だな」
すかさず凛が口を挟む。
「お医者様が健康にいいって言ってるんだから、食べなさい」
「あの医者は暴君かよ」
「あ義父のこと? ……あいにくだけど、その暴君は私の父親なのよね、おバカさん」
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ふとした休息の合間に……凛からの「攻勢」は絶え間なく続いた。もっとも、感情の機微に疎い蓮は、いつもの鈍感さでそれを上手く受け流せていなかったが。凛は「脈を測る」という名目で彼に顔を寄せ、その香水の香りで彼を眩ませたり、怪しいほどにゆっくりとした手つきで彼の髪を整えたりした。
そんな中、蓮は何かが欠けているような感覚に陥っていた。まるで、大切なパズルのピースを忘れてきたかのような。
「なあ、凛……。手術の前……俺、お前に何か大事なこと言わなかったか? そのあたりの記憶がすっぽり抜けてるんだ」
凛の動きが止まった。あのキス、そして「愛されることを教えてあげる」というあの約束。彼女の唇に、いたずらっぽく、そしてどこか危険な微笑が浮かんだ。
「大事なこと? いいえ、別に。食べ物のこととか、怖いとか、そんなことばかりうわ言みたいに言ってたわよ」
彼女は白々しく嘘をついた。だが、その胸の内では——。
(逃げられないようになったら、たっぷり思い出させてあげるわ)
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一ヶ月後。ついに、その日がやってきた。
松葉杖は部屋の隅に追いやられ、蓮は自らの足で立っていた。一歩一歩、確かめるような遅い歩みではあったが、確かに独りで。
一方の**圭**は、新調された真っ赤なランドセルを背負い、小学校の制服に身を包んでいた。赤ん坊の頃以来、蓮が見たこともないようなエネルギーに溢れている。彼女は橘家の運転手が送迎する車に向かって歩き出した。凛が「安全のため」と譲らなかった条件を、蓮もしぶしぶ受け入れたのだ。
「私、また『普通』になれるんだね!」
元気に去っていく妹を見送った後、今度は彼らの番だった。
蓮は洗面所の鏡の前で、高校の制服に袖を通した。休息と栄養のある食事のおかげか、肩周りが以前より少しだけ逞しくなった気がする。彼は鞄を手に取り、外へと向かった。
玄関では、凛が彼女らしい笑みを浮かべて待っていた。
「地獄へ戻る準備はいい、星野くん?」
蓮は笑った。凛が何よりも愛している、あの少年のような笑顔で。
「お前が隣で物理の答えを直してくれるなら……なんとか生き残れそうだよ」
二人は並んで学校へと歩き出した。廊下では残酷な噂が飛び交い、羨望の眼差しが向けられるだろう。だが、今の蓮にはそんなことはどうでもよかった。時折触れ合う凛の手の温もりを感じながら、彼は悟ったのだ。
「気味の悪い奴」も「高嶺の花」も、もうそこにはいない。
今はただ、蓮と凛がいる。そして未来は、生まれて初めて「敵」ではないものとしてそこにあった。
家はもう空虚な場所ではなく、学校もただの退屈なルーチンではない。
そして彼の人生は……長い時を経て……
痛みだけを中心に回ることをやめた。
それは、彼を待ち続けてくれた二人の少女を中心に、新しく回り始めたのだ。
第7章の終わり
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皆さん、こんにちは! いかがお過ごしでしょうか。
ここまで読んでいただき(いつもながら)本当にありがとうございます!
ようやく、蓮が凛と**圭**と一緒に「まともな生活」を送り始めましたね。ただ……本人はあの約束をすっかり忘れているようで。でもご安心を。凛がきっと、最高に……「特別」な形で思い出させてくれるはずですから(笑)。
お気づきの方もいるかと思いますが、今回は少し短めのエピソード(3000文字強ほど)になりました。ですので、あと数分か、あるいは数時間後には第8話を公開する予定です! 今日中には必ず出しますので、楽しみにしていてくださいね。
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それでは、また数分後(もしかしたら数時間後かも? 笑)にお会いしましょう!
著者:零時卿より




